第4話
夕日の射し始めた森の向こうから、母は現れた。
確かに父の言うとおり、一角獣(ナールユールブ)を駆る母オラトリオにとって、歩いて半日の距離など、ほんのひと駈けのようだった。
母は自分だけでなく、いつもシェルがいっしょに眠っている年若い姉たちを、自分の守護生物(トゥラシェ)の取り巻きの馬たちに乗せて、たくさん引き連れてきていた。
今夜はどうも宮殿には戻れそうにないと、シェルが母に知らせたせいらしい。
夕刻にさしかかっても、戻る気配のしない末っ子を案じ、母が呼びかけてきたのだ。
可愛い息子よ、お前は太陽が森の上を駆け抜けたのに、気がついていますか。今すぐ戻り初めないと、お前は陽が落ちるまでに、姉たちのもとに辿り着くまい。いったいどこで眠るつもりなの。
心配げな母の優しい叱責に、シェルは答えた。
サラシェネ姉上の傍にいたいので、戻るに戻れませんと。
すると母は、自分がそこへ行くと言い、馬たちに森を駈けさせたのだった。
姉と手をつないで立っていたシェルを、母はじっと厳しい目で見つめてきた。
巨大な、銀色に近い肌色をしたナールユールブは、その見事な角が、木々の梢に触れるような大きさだった。
その額のあたりの、白い角の脇に、母はそれと抱擁するようにして、美しい白の鬣(たてがみ)の中に埋もれて座っていたが、こちらの姿を目にすると、ナールユールブに首を垂れさせ、ひらりと森の地面に飛び降りた。
やや遅れて辿り着いた姉たちの馬も、目にした有様に驚いたふうな乗り手たちを、母のそばに運んで、その場に降り立たせた。
なにをしているのですか、サラシェネと、母は姉に尋ねた。
姉は苦悶する顔のまま答えた。
わたくしの守護生物(トゥラシェ)を引っ張っているのです、母上と。
そんなことをして、何になるのですか。お前のイアンカリスは、動けはしませんよと、母は姉を哀れむように教えたが、姉には答える余裕がないようで、黙っていた。それでシェルは彼女に代わって、母に首を横に振ってみせた。
動きました、母上。さっき、一度きり、ほんのわずかだけど、イアンカリスは動きましたよ。きっと姉上の心が、あの守護生物(トゥラシェ)には、良く分かっているんでしょう。
そう教えると、母はますます心配げな、険しさのある表情になった。夕刻の風が木立を吹き抜けるのに、母のとても長く美しい金の髪が、さらさらと舞った。
同じ風に吹かれる姉の髪は、母とそっくりに、ゆるやかに波打つ綺麗な金髪だったが、今は汗と泥にまみれ、見る影もない。それでもシェルは、サラシェネ姉上は、こんなに綺麗な人だったかと、その必死の姿を、間近に見上げて思った。
姉は母が止める目をしているのにも気づかず、そういう心の声にも、耳を傾けなかった。頑張ってと呼びかける、シェルの手だけを握り、サラシェネは歯を食いしばっていた。
そしてまた少し、姉は足を進めた。
ほんの僅かのその動きに、母が驚いたのが、シェルには感じ取れた。
やっぱりイアンカリスは動いているんだろうなと、シェルは思った。そうでなければ母上は驚いたりしないだろう。ほんのちょっとずつだけど、姉上は前進しているらしい。あの、戻ると約束して去った、愛しい人に向かって。
あの人はいったい、いつ戻ってきてくれるんだろう。
まさかずっと先にしか、戻らないつもりかな。
そんなふうに心配をして、シェルが姉の手を握っていると、ふとサラシェネが、弾かれたように瞼(まぶた)を開いた。姉の大きな緑の目が、茂みの向こうを見るのを、シェルはぼんやりと見上げた。
姉は森の奥から、走ってくる男を見ていた。それでも必死でいる姉は、微笑みもせず、顎から滴らせた汗を、ぽとりと落としただけだった。
男は茂みの手前まで、息をきらせて走ってきたようだったが、腰より低い灌木の硬い葉をした枝を、差し出そうとした右手で掴んだところで、見えない糸に背を引かれたように、ぴたりと足を止めた。
動けないのと、昼間答えた姉の言葉を、シェルは思い出した。彼の名はミゲル。守護生物(トゥラシェ)の名はギュスタール。そして彼は、あの茂みよりも先に踏み出して、姉上のところに来ることができない。
足を止めた若者を、母は胸を張って眺めた。彼女が産み落とした、今はまだ旅立ちの時ではない小さな姉たちも、同じようにして見つめていた。
若者よと、母は誰にでも聞き取れるような、はっきりとした声で呼びかけた。
わたくしはこの娘の母です。
娘はお前に恋をして、そちらへ行きたいそうです。それでこうして哀れにも、動きもしない樹(き)を引っ張っているそうです。
娘の守護生物(トゥラシェ)はそれに応えました。愚かなサラシェネの真(まこと)の愛に共感し、イアンカリスは動くことにしたようです。
お前はわたくしの娘を愛しているのですか。
もしもそうなら、お前もこちらへ来られるはずです。いかに時を経ようとも、動かぬものを動かして、ここへ辿り着けるでしょう。
それが無理なら、今すぐ立ち去りなさい。そんなお前は、わたくしの可愛いサラシェネに、ふさわしい男ではありません。
娘に背を向けて、とっととお退がり。
この娘(こ)はわたくしと、族長シャンタル・メイヨウの大切な娘です。それを奪おうというなら、お前は命をかけなさい。
誇り高く、そう命じる母は、自分が誰かを名乗らなかったが、そんなことを言うまでもなく、彼女は森の正妃のほかの、何者にも見えなかった。
そんな姿を自分は知らないが、きっと母は戦場に立つとき、こんな顔をしているのだろうと、シェルは思った。挑みかかるような、強い瞳を、母はしていたからだ。
勇ましいオラトリオと、父上はいつも母のことを呼ぶ。いつも労りに満ちて優しい母の、一体どこが勇ましいのか、今までシェルにはよく分かっていなかったが、確かに母は勇ましいようだった。
それに挑まれ、遠目に見るミゲルは、どことなくたじろいだ風だった。
しかし彼は、とっとと退がりはしなかった。まったく動かないでいる若者が、茂みの枝を握る手に、姉と同じような、渾身の力をこめたのが、感じられた。
ああ、あの人はきっと、姉上のところに来るなと、シェルはそういう予感を覚えた。
彼は姉の名を呼ばず、愛しい者よと呼びかけてはこなかったが、じっと見つめる目と、こちらに向けた言葉にもならない想いの中に、姉を掻き抱くような、強い愛情があるのを、シェルは感じ取っていた。
それは自分が、夜中にふと目が覚めて、ひとりで起きているのが怖くなり、目の前にある姉たちの腕や足に縋るようなのとは、まったく別の抱擁だった。
確かに兄たちのからかうように、姉上たちに埋もれて眠るのは、ずいぶん恥ずかしいことだ。自分にはまだそれが必要で、どうにも仕方がないけれど、いつかはあの茂みに立つ彼のように、ただ一人愛しい者だけを抱いて、眠るのが本当じゃないか。
そんな相手が僕にも、いつか現れればいいがと、シェルは姉と向き合っている男を、微笑んで見つめた。彼が姉上の愛しい人で、自分にとっては家族なのだと思ったからだ。
握った姉の手に、それを伝えると、サラシェネはぽろぽろと、涙をこぼした。
でももう姉は悲しくて泣いているのではなかった。それを証すように、遠くからずっと聞こえていた、イアンカリスの嘆く声は、もう聞こえなかった。
見つめ合う二人の、ひどくゆっくりとした前進は、一昼夜ではすまず、何日も、何日も続いた。
母はあきらめたふうに腰をすえ、彼女に仕える民に呼びかけて、この場で幾日も過ごすのに必要になる水や食べ物や、夜の冷えを凌ぐための上掛けを運ばせた。
宮殿の外で眠る夜は寒く、暖をとるために焚かれた火の熱さが、シェルには物珍しかった。ここでもやはり、姉たちと身を擦り寄せて、母の膝元に抱かれて眠り、シェルはうとうととまどろみながら、戦うサラシェネの姿を見つめた。
夜が明け、朝になり、昼が来て、また陽が沈んだ。
そうして二人が戦う間、シェルは小さな姉たちと一緒に、サラシェネや、向こう側の男のところに、水や食べ物を運んでやり、ふたりが何とか生きていられるように、何くれとなく世話を焼いてやった。
ふて腐れたような母のご機嫌もとらねばならず、シェルは普段よりずっとにこにこして、出来る限り母の膝元に座っていた。
だが、やがて灌木の茂みを乗り越えてきた相手の男のところに、水を持っていってやるときには、自然と笑みがこぼれた。水を入れた木の椀を捧げ持って、転ばぬように歩いてきた自分を、静かに眺めるミゲルの顔は、苦悶にやつれているものの、どこか満ち足りたように、優しく微笑みかけてきたからだ。
シェルは彼に水をやりながら、時には言葉で、時には感応力を使って、姉の話をしてやった。
サラシェネ姉上は、うちにいるとき、もっとずっと弱い人だった。あなたが姉上の愛しい人になってから、あんなに勇気のある、強い人になっちゃったんですよ。
姉上も結局、あの母上の娘だったみたいです。
父上は勇ましい母上の、強いところが好きだって。あなたもそうですか、僕の姉上の、強いところが好きなんですか。
シェルが好奇心に光る目で、そう訊ねると、水を飲んでいる男は、真面目に答えてきた。
私は、殿下の姉上の、強いところも、弱いところも、全てが好きですと。
その返答が、シェルは心底嬉しく、そして気恥ずかしくなり、からになった椀をもらうと、母のところに走って戻った。
静かな戦いは幾日続いたのだったろうか。
シェルは途中で数えるのを止めた。
やがて姉と若者は、明るい木漏れ日のさす中程のところで出会い、お互いに手を差し伸べるのを堪え、そのまた幾日か後に、固く抱き合った。
気の利く幼い姉たちが、ふたりの髪を梳(くしけず)り、森が与えた花々を、美しく挿してやったので、愛しい人と抱き合うサラシェネ姉上とミゲルの姿は、まるで一枚の絵のようだった。
幼い姉たちはそれに立ち会い、感激してわんわん泣き、遠目に見ていた母は、なぜかひどく悔しがって誇り高く顔を上げたまま、むせび泣いた。
やや離れて立ち、シェルだけがひとり、微笑んでそれを眺めた。
どこか遠くの森で、ミゲルの相方の、守護生物(トゥラシェ)が歓喜の声で啼(な)いている気配がした。それは、こちらの森に響く、イアンカリスの喜びと共鳴しあい、いつまでも絶えずに、幸福な残響を漂わせた。
たぶん、この日、姉とその愛しい人によって結びつけられた二つの森は、広大な部族領の中で、もっとも幸福な場所となったでしょう。
僕はそう思うのですがと、シェルはうちで待っている、動けない父に語りかけた。
族長シャンタル・メイヨウの答える声は、幾分遠かったが、それでもシェルには難なくそれを聞き取ることができた。
父は笑っているようだった。
いかにも、そうだと、父は応じた。お前の言うように、歓喜するふたつの森が、ここからでもよく見えるよ。ずいぶん長い冒険になったようだが、お前はいつ僕のところに帰ってくるんだい、シェル・マイオス。僕と、勇ましいオラトリオの、大切な息子よ。
そう問いかける父に、今夜には戻りますと、シェルは答えた。
それから、愛しています父上と告げた。それに応える父の声は、全ての森を統べる慈愛に満ちて響き、愛しい子よと言った。
一片の悲しみもない森の空気の中に立ち、惜しみない愛に包まれて、シェルは微笑し、いつか自分にも訪れるであろう、旅立ちの時を、甘く美しいものとして、夢に描いた。
その時が、僕は待ちきれない。きっと素晴らしい冒険が、僕を待っているのだろう。
早く呼んでおくれよと、シェルは虚空に呼びかけた。
僕の、愛しい者よ。
君が呼べば、僕はどこまでも君を、探しに行く。そして君と固く抱きあうだろう。奇蹟のような戦いの果てに、揺るぎない幸福を掴んだ、イアンカリスと、ギュスタールのように。
《完》
カルテット番外編「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」 椎堂かおる @zero
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