第3話

 靴をはいてくるべきだったなと、シェルは後から気づいた。

 半日足らずの道のりとはいえ、着の身着のままの裸足で歩くには、道のりは遠く感じられた。

 土にまみれた足指を見ると、どこかで切ったのか、かすかに血が滲んでいた。

 しかしもう、だいぶ歩いて来た後で、戻るよりも、行ったほうが近い。

 足が痛いなあと、困って呟くと、時々森から鹿やら栗鼠(りす)やらが現れて、いっしょに歩いてくれた。

 遠くを逍遙しているらしい兄が、痛がるシェルの声を拾って、お前はなんで裸足で来たのかと、心配げに笑って訊ねてきたりもした。

 靴をとってきてやるか。それとも、僕の守護生物(トゥラシェ)に乗せてやろうかと、兄は誘ったが、シェルは黙って首を振った。

 まったく兄上はいつも僕を子供扱いだよ。靴を忘れたのは、確かに間抜けだったけど、それでも僕は裸足で行くからいいんです。兄上は僕をほっといて、愛しい人のところへ行くといいよ。

 その片意地な答えを聞き、兄はまた笑って、頑固者の弟よと、からかうような返事を寄越した。気をつけていくがいい、何かあったら呼んでいいんだよ。確かに僕は愛しい人を訪ねていくところだが、お前も大事な弟だ。

 愛しているよ、シェル・マイオスと、兄はこちらに別れを告げた。

 そう言う兄の心が、どこか遠いところにいる愛しい女への想いで満ちているのを感じ、シェルは何となく焼き餅をやいて、なにも答えずにおいた。

 昔はみんな、末っ子のシェルを何よりも大事に想ってくれたが、いつしか守護生物(トゥラシェ)だったり、戦いだったり、他に想う相手ができて、ひとりまたひとりといなくなった。

 何かのついでのように、兄に助けてもらっても、シェルは嬉しくはなかった。

 サラシェネ姉上も、ちゃんと守護生物(トゥラシェ)がいるというのに、いったいどんな不足があるというのか。この世でたったのひとりだけ、自分だけを愛してくれる相手がいるのに、どんな寂しいことがあるのだろう。

 シェルはそれを知りたくて、歩いている自分を感じた。

 守護生物(トゥラシェ)がいれば、それで完全な幸福が、自分にはやってくる。そんなふうな憧れがあって、それでは足りないという姉が、気の毒なほど貪欲に思えた。

 イアンカリスも可哀想にと、シェルは遠くに呼びかけた。姉上のわがままな嘆きに付き合わされて、お前まで幾夜も泣く羽目になるなんて。

 この世の中に、守護生物(トゥラシェ)では癒せない、いったいどんな悲しみがあるというんだろう。

 それを見せておくれよ。いつも悲しみから守られている、この僕に。

 そう呼びかけて、いくつかの樹木を行き過ぎ、シェルが美しく苔むした岩を巡ると、姉はそこに立っていた。

 唐突に現れた姿に、シェルはびっくりした。

 ここまで姉が来ると、想像もしていなかった場所だったせいで、感応力の糸を発して探すことさえ、まだしていなかった。

 いつもなら、こんなところまで弟を送ったら、守護生物(トゥラシェ)との契約が途切れて死んでしまうと、姉が思っているような地点だった。

 サラシェネは真昼の木漏れ日に照らされ、呆然としたように突っ立っていた。その薄汚れた頬は、涙に濡れていた。悲しみに乱れた長い金の髪は、頭を抱えている彼女の白い指を埋めて、まるで掻きむしられたようだった。

 姉が引き毟ったらしい、首飾りや、腕輪の宝飾が、あたりに撒き散らされており、そのうちの一つは、かつての幸福そうな別れ際に、シェルと交換したものだった。

 うち捨てられた愛の印を見て、シェルは一時、立ちすくんだ。それは、泣いている姉の姿よりも、ずっとシェルの心を傷つけた。

「姉上」

 裏切られたような痛みにびっくりして、シェルは呼びかけた。

 姉は涙に汚れた顔で、ゆっくりとこちらを振り向いた。頬にはりついた長い髪が、涙で濡れて、痛々しく見えた。

「どうしたんですか、姉上」

 シェルを見つめた姉の目から、睫毛を濡らして、大粒の涙がぽたぽたと流れ落ちた。サラシェネは悲しみの漂う、真顔のような無表情で、ただ呆然と泣いていた。

「ごめんなさいね、シェル・マイオス。あなたが来たのに、気がつかなかった」

 そう答えて、姉はやっと、悲しそうな顔をした。伏せかけた目から、新しい涙が頬を伝った。押し寄せてきた深い悲しみと苦悩を感じて、シェルはあわてて心を閉ざそうとした。それを察してうつむき、顔を覆った姉は、自分の両手に顔を埋めたまま、堪えるような嗚咽を漏らした。

「いったいどうしたんですか、姉上」

 悲しくなって、シェルはもう一度訊ねた。顔を上げ、引きつったため息をついて、サラシェネは胸を喘がせ、それでも何とか声を出して、密やかに答えた。

「わたくしは、恋をしたのです」

 姉が眉間に悲嘆の深い皺を刻み、はじめ見ていたほうへ顔を向けるのを、シェルは見守った。木々の茂る森の先を食い入る目で見つめる姉の視線には、全身全霊が籠められているように見えた。

 その視線の先を、シェルはゆっくりと辿った。

 森には何事もなかった。枝を伸べる木々にも、何の変哲もない。明るい陽の射す梢には、栗鼠が遊ぶのが感じられた。

 羊歯(しだ)の葉が美しい、下草の茂るあたりに、薄暗く陽の届かないまばらな茂みがあり、その向こう側に、うっすらとした輪郭となって、誰かが立っているのが見えた。目を懲らせばそれが人で、こちらを見つめているのが見て取れた。

 姉上を見ている。

 その人影は、まぎれもなく森の同族で、まっすぐな長い金髪をしていて、ずいぶん長身の、まだ若い男だった。彼は杉の若木のように、すらりと立っていた。

 黙って姉を見る目は、姉が彼を見つめるのと同じ、食い入るような視線だった。遠目でよく見えなくても、シェルには相手が姉と同じく、ひどく憔悴しているのが分かった。

 いつからこうして、ふたりは見つめ合っていたのだろう。

 なぜ、ただ見交わすだけで、近寄ってこないのかと、シェルは考え、向こうを見つめて、そして気がついた。

 姉がここから、あと一歩も踏み出せないように、向こうもあそこから、一歩も進めないのだ。たぶん、それが彼の感応力の及ぶ限界で、さらに一歩進めば、動けない守護生物(トゥラシェ)との契約の糸が途切れてしまうのだろう。

 ここから向こうまで、シェルが走って、ほんのちょっとの距離だった。叫べば声が届くような近さだ。

「姉上、どうして叫ばないの。名前を訊いたらいいよ」

 シェルはサラシェネに問いかけた。姉はもう、こちらを見はしなかった。

「それならもう、とっくに訊いたわ。あの人の名はミゲルよ。守護生物(トゥラシェ)はギュスタールというの。わたくしの森の、北にある森を、治めている人よ……」

 姉の答えを聞いて、シェルは再び、離れたところに立つ男を見やった。

 ギュスタールの乗り手のミゲルを。

 シェルの知らない名だった。領地を持った守護生物(トゥラシェ)に乗っているということは、為政者だったが、たぶん王族である姉や自分から見て、名を知っているような高い身分の相手ではないのだろう。

 歳を経て守護生物(トゥラシェ)は成長し、だんだん賢く老獪になってゆき、初めは領地を持たなかったものが、新しい森を分け与えられることがある。彼が治めているのは、そういう小さな森ではないかと、シェルには思えた。

「彼はこっちには来られないんですか」

「動けないの」

 姉は呆然と答えた。

「わたくしも、あの人も、もうこれ以上先へ行けないの」

「それでずっと、ここに立っていたっていうの、姉上」

 サラシェネは目を伏せ、涙をこぼして、弱々しく首を横に振った。

「あの人は時々いなくなるわ。施政があるのよ」

「姉上にだってあるでしょう。この森を治めているのは姉上なんだもの」

 目を伏せたまま、姉は力なく頷いた。しかしそれは、分かっているという意味で、やむをえず頷いたようで、サラシェネはひどく、苦しそうだった。

「この場を離れる、勇気がないのです。あの人が戻ったときに、わたくしが居なかったら、諦めたのだと、思われそうで」

「約束すればいいじゃないですか。いつ戻るか、いつ会うか二人で相談して、決めた時に約束を守って、ここで会えばいいよ」

 シェルが提案すると、姉は目を伏せたまま微笑した。そうして頷く様子は、なおいっそう悲しげなようだった。

「そうね。あなたの言うとおりです。わたくしはただ、一歩でもあの人の近くに、いたいだけなの。それで何もかも放り出して、ここに立っているのです」

 姉が森を守ることを放棄していると悟って、シェルは衝撃を受けた。

 領地を支配する守護生物(トゥラシェ)と契約したものは、それを乗りこなして、森に住む平民たちと、それと契約しているものたちを、束ねて守っていく義務を負っていた。森の守護者から切り離されてしまうと、皆どうしていいか分からないだろう。孤独と不安に苛まれて、困っているに違いない。

「姉上、イアンカリスはどうしているんですか」

 サラシェネの守護生物(トゥラシェ)のことが、シェルはきゅうに心配になった。嘆く声がするほかに、それが何か言葉を発する気配はなかった。

「イアンカリスは……どうしているかしら」

 呆然と興味のないふうに、姉は答えた。そしてまた、遠くにいる者をじっと見つめた。

 姉の視線を受けて、彼は苦しむふうに首を垂れた。それは、挨拶したのかもしれなかった。あるいは疲れ果てたのか。

 項垂れた首を起こすのかと思ったら、茂みの向こう側にいるミゲルは、そのままこちらに背を向けた。森の薄暗がりに歩み去る男の背を見て、姉が口を覆い、細い悲鳴のような嗚咽をあげるのを、シェルは聞いた。

 それでも目を開いたまま、立ち去る後ろ姿を見る姉のところへ、彼は呼びかけてきた。

 きっとまた戻りますと。

 それはシェルにも聞こえた。その一言にこめられた、彼の強くゆるぎない想いとともに。

 姉がその場に頽れるように座り込むのを、シェルは慌てて支えようとした。しかし嘆く姉の体を支えてやるのは、シェルには無理だった。涙で濡れたような、湿った土を掴んで、姉は身を搾るような細くこらえた泣き声を上げた。

 どうしたらいいのと、姉の声がした。

 ああ、せめてあと少しでいい、わたくしに力があれば。あの人の目の前にいって、僅かに指先だけでもいいの、触れあうことができたら。

 そう言う姉が、それを諦めているのが、シェルには分かった。

 イアンカリスは動かない守護生物(トゥラシェ)だった。姉はそれをよく知っていた。感応力の及ぶ領域を越えて、イアンカリスを後に残し、進んでいくことはできない。

 姉はいつも、その一線のずっと手前で、さようならと言った。寂しく微笑みながら、いつも自分から、立ち去るシェルの手を離した。

 だけど今はこうして、引き留める糸を張りつめさせて、領地の果てるところまでやってきた。そして諦めきれず、この場から離れて戻ることもできずにいる。

 シェルはサラシェネの想いの深さを悟った。

 確かに姉は恋をしたのだった。さっきまで姉を見つめていた、あの男に。

 そして治める森も、守護生物(トゥラシェ)も、懐かしい家族との愛も、彼女にとっては意味のないものになってしまった。

 姉がここで泣いているのは、ただ、最後の糸を切って、あの背中のあとを追う勇気がないせいだ。彼がまた戻ると言って去ったのは、そんな姉に後を追わせないためにだろう。

 あの一言に縋って、姉は待っている。何もかもを投げ打つ、一歩手前で。

 それを裏切りと思うには、姉の想いは純粋で、あまりにも強すぎた。シェルは姉が、気の毒になった。そこまでの強い想いがありながら、諦めるしかないと苦しむ姉のことが。

「姉上……」

 隣から呼びかけて、シェルはサラシェネの手を握った。

「姉上、イアンカリスは」

 聞いていないふうな姉の耳に、シェルは呼びかけた。

「本当に動けないんですか。ほんのちょっとも、姉上のために、動いてはくれないの?」

 シェルの問いかけに、サラシェネは苦悩する顔を上げた。

 そして首を横に振り、姉は答えた。

「私のイアンカリスは樹(き)なのよ、シェル。樹がどうやって動くのですか」

「樹だって動きますよ。ほんの少しなら。姉上、あの人がそんなに好きなら、イアンカリスに頼んでみたらいいよ。動いてくれって」

 サラシェネは涙に潤む疲れ切った目で、こちらを見つめていた。

「何年かかるか、わからないけど、あとほんのちょっと近づくために、一生かけてもいいじゃないですか。諦めるよりそのほうが、ずっといいよ。姉上がこの先ずっと、ここで泣いているなんて、僕は悲しいです」

 泣きつかれて、嗚咽に喘ぐ肺に息を吸い、姉は考えているようだった。

 シェルは黙って、姉が考えるのに付き合った。

「父上はそうは仰らなかったわ。母上も……」

 サラシェネは荒い呼吸をして、そう答えた。

「可哀想だが、お前は森を守らなければと、父上はわたくしを慰めておられたわ。母上は、このままではイアンカリスは消耗して、わたくしとの契約を放棄するしかなくなると、叱っておられたわ」

 シェルは姉の隣で膝を抱えた。繋いだ手を、サラシェネはしっかりと握っていた。

「姉上、試しにイアンカリスを、引っ張ってみたらどうでしょう。姉上の気持ちがわかるなら、きっと動いてくれますよ」

 恐る恐るシェルが話すと、サラシェネはしばらく、ぼんやりとしていた。

 それから姉は、ふらりと立ち上がった。

 後を追う目をしていた。茂みの向こうに消えた背中を。

 しかし姉はもう、諦めているのではなかった。

 ただじっと立っているだけのように見える姉の顔に、今までとは違う苦悶が浮かぶのを、シェルは見つめた。

 いつも弱気だった姉が、動くはずのない樹(き)を、渾身の力で引っ張りはじめたのを。

 握られた手が、痛いほどだった。それでもシェルはそれを振り払う気がしなかった。

 そうやって、直に手を握っていると、持ち前の強い感応力が、姉の気持ちを克明に拾いあげ、シェルに伝えてきた。

 しかし、姉はさっきの男が好きなのだという事に、深い納得は湧くものの、その気分の正体が、シェルには理解できなかった。

 家族でもないし、友達でもない、ちょっと前に出会って、ただ遠目に見ただけの相手が、姉上はなぜそんなに好きなの。

 好きなものは、しょうがないけど、どうしてそれは、他の何もかもを、捨てられるような愛なの。

 いつも自分から、さようならと言う姉が、今は男の背を追いかけていた。

 必死の汗をかき、苦悶の涙を流しながら、姉は遠くに呼びかけていた。愛しい人よ、あなたの近くに行きたいわと。

 その声にこもる気持ちは、今朝方シェルが聞いた、父の声と同じだった。母上の名を呼ぶときの、その声にある愛と。

 悲しくなってきて、シェルは泣いた。

 いつも沢山の愛に包まれて、守られているのに、なぜか今、自分がたったひとり、孤独なような気がした。

 僕にも姉上のように、必死になって追える人が欲しいな。愛しい者よと呼びかけられるような、そんな相手が。守護生物(トゥラシェ)でもいいし、他のものでもいい。別になんでもいいから、今感じている、この孤独を癒してくれるような、何かが。

 サラシェネの手を握り、シェルは励ました。

 そんな愛を得た時、きっと僕にも、今の姉上の気持ちが、本当に良く分かるだろう。

 姉が目を伏せ、大粒の涙をこぼした。

 その時、動かないはずの樹(き)が、かすかに動いたようだった。

 姉の泥にまみれた小さな爪先が、ほんのわずか、前に出た。

 シェルはそれを見て、今夜はもう、帰れないと思った。この姉を一人この場に置いて、どこへも行くことができないと。

 姉は奇蹟のような力で、動かないイアンカリスを引き寄せ、彼女の忠実な守護生物(トゥラシェ)が、それに応えようと、懸命にもがいているのが感じ取れた。

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