第2話

 森の朝はすでに活動を始めていた。

 朝の早い鳥たちはすでに起き出していたし、シェルはそれに教えられて、真っ赤に熟れた甘い実を、羽ばたく鳥たちのうす桃色の羽根にまじって、指でつみ取り、口に運んだ。

 舌に拡がる甘酸っぱい味を楽しみ、指を染める赤い果汁を舐め取りながら、シェルはそれを朝食代わりにした。

 呼び声の絶えないように、どことなく急いで腹を満たしながら、シェルは心の耳をそばだてていた。

 ふらりと遊びに出る前に、まずは父に挨拶したいと思い、シェルはあと二つ三つの実をとって、鳥たちに別れを告げた。

 心地よく湿った土を踏み分け、巨木の茂る森の道を行く道すがら、父上と呼びかけると、族長シャンタル・メイヨウは答えた。可愛い息子よと。

 それはもちろん、肉声ではなかった。父はまだ遠く、森の奥にいた。感応力を使って、こちらは呼びかけ、向こうもそれで答えたのだ。

 早朝というのに、眠くもなさそうな声で、父は話していた。

 お前はもう起きたのかい。シェル・マイオス。

 まさか悪い夢にでも起こされたのか。そんなはずはない。たくさんの優しい姉と、僕の愛しい人が、お前を守っているだろう。銀色の一角獣を駆る、勇ましくも美しい、我が妻オラトリオが。

 母の名を呼ぶ父の声に、たとえようもない愛があるのを感じ、シェルはなんとなく気恥ずかしく微笑んだ。

 母は長命の父にとって、何番目かの妻だった。それでも正式な妻だ。父は同時に複数の妻を愛しはしない。

 族長である父は、部族を守護する最古にして最大の守護生物(トゥラシェ)と契約しており、その叡智と力によって、人並みはずれて長く生かされていた。そのため、前の妻と死別したのだ。

 そして新しい妻として、シェルの母であるオラトリオと婚姻した。

 母は父と愛し合い、彼にたくさんの子を与えた。その最後のひとりが自分だ。

 父の守護生物(トゥラシェ)であるアシャンティカは、静性の精霊樹だった。動けない父に代わり、母は戦陣に立つことがあった。その前の父の妻も、その前のも、やはり母と同じように、戦う女だった。彼女たちは皆、父の名代で戦闘に赴き、そして戻らなかった。

 そのせいか、父は、母が森を離れることを恐れていた。

 あの奔放な一角獣(ナールユールブ)を繋ぎ止めておける頸城(くびき)が、僕の森にあればよいがと、父は時々嘆いた。

 その嘆きに、シェルはいつも深い共感を覚えた。

 母上がどこにも、行かなければいいが。もしも一角獣(ナールユールブ)の守りがなければ、僕は今夜、怖い夢にうなされるかもしれない。そんな息子を哀れんで、母が今日も明日も、この森に留まってくれればいいが。

 そんな息子の相づちに、頷く父の心はいつも、言葉を越えて深い共感と理解を示した。そういった交感は、いつもシェルを安堵させた。姉たちと眠る夜の寝床に似た暖かさが、遠く離れた遣り取りの中にもあった。

 父上、と、シェルは族長の声に答えた。おはようございます。

 夢で目覚めたのではないですよ。何かが呼ぶ声がしたので、それに呼ばれて起きたんです。もしかして守護生物(トゥラシェ)かな。僕にもとうとう、旅立ちの朝が来たのでしょうか。

 期待をこめた冗談で、シェルが話しかけると、父は笑ったようだった。

 違うと思うよ、シェル・マイオス。

 たぶんお前が聞いたのは、イアンカリスの嘆く声だろう。

 あの守護生物(トゥラシェ)は昨夜ずっと、夜を振るわせて嘆き続けていた。可哀想な樹(き)よ。このところずっと、そんなふうなのだよ。

 父はそれを夜っぴて慰めたが、イアンカリスは泣くのをやめなかったそうだ。

 たぶんその乗り手が、流す涙を止めないからだ。

 父はそう、残念そうに話を締めくくった。

 シェルはその話に驚いた。イアンカリスの嘆く声を自分が聞いたのは、今朝が初めてだった。それでも父は、その守護生物(トゥラシェ)の悲しみは、ずっと前から続いているかのように話している。

 それでは誰かが、今まで自分の耳を塞いでいたのだ。その手を今朝方とったのか、それとも、塞いだ耳にも聞こえるほどの強い嘆きで、イアンカリスが泣いたかだった。

 いったいどうしたことかと、シェルは悲しくなった。

 イアンカリスは、シェルの同腹の姉の守護生物(トゥラシェ)だった。

 姉は名をサラシェネといい、繊細な顔立ちと、繊細な心をした、弱いけれど優しい人だった。

 父とアシャンティカのいる、ごく近くの森の中に、戦わない守護生物(トゥラシェ)であるイアンカリスを得て、姉は本当に幸せなだったようだし、シェルは歩いてほんの半日しかかからない姉のところに、時折遊びに出かけていくことができた。

 姉がいるのは、感応力を使えば、目の前にいるかのように話せる距離だが、それでも、手を握って目を見て話すほうが、ずっといいような気がしたからだ。顔を合わせると姉は微笑み、しばらく楽しく過ごして、宮殿に帰るシェルを見送るとき、その大きな緑色の目は、いつも寂しげに笑った。

 手を繋いで帰り道を送ってくれる姉が、ここから先にはもう行けないという時、シェルは微笑む姉が泣いているような気がした。

 姉の力はあまり強くはなく、動かない守護生物(トゥラシェ)を遠く後にして、歩き回ることはできない。イアンカリスと繋がった感応力の糸が切れないように、姉はいつも、自分の限界より何歩も手前で立ち止まった。そしてシェルを抱きしめ、微笑んで、さようならと言った。

 あの気弱な姉上が、こんどは何で泣いているのだろう。契約した守護生物(トゥラシェ)が、こんな大声で嘆くほどの、どんな悲しいことが、この平和な森にあるというのか。

「父上、僕は姉上が心配なので、行ってみることにします」

 その決心がゆるぎないことを示そうと、シェルは声に出して、父に語りかけた。

 そうかい、と、父は答えた。

 では行っておいで、優しい息子よ。動けない僕の代わりに、お前が姉の力になってやってくれ。

 だけど夜にはお戻りよ。

 守護生物(トゥラシェ)のいないお前が、森で夜を明かすのは、あまりにも危ないことだ。

 森には悪戯な獣もいるし、悪い夢もある。日暮れには戻って、今夜も姉さんたちと眠るがいいよ。

 もしも悲しむサラシェネがお前を引き留めて、帰りそびれてしまったら、勇ましい母上をお呼び。彼女の馬なら、森をひと駈けだ。

 シェルは頷き、それを感応力で父に教えた。

 行ってきますと伝え、それから、愛しています父上と伝えた。

 するとシャンタル・メイヨウは答えた。

 僕もだよ、頼もしい息子よ。お前を愛している。冒険をしておいで。

 その声に送られ、シェルは旅に出た。姉の悲しみに泣き、父の愛に微笑みながら。

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