カルテット番外編「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」
椎堂かおる
第1話
ふと呼ばれた気がして目を開くと、シェルは姉たちの合間で眠っていた。
優しく巻いた金の髪が、白い絹の敷布に流れ、温かい感触のある広々とした明るい寝床の上で、それぞれ軽く身に巻き付けただけの掛布を握りしめ、幸福そうな微笑を浮かべて、幼い姉たちは皆、静かな寝息を立てていた。
彼女たちと眠るのは、幼い頃からのシェルの習い性で、強い感応力を持って生まれた最後の弟を、姉たちが守ろうとするせいだった。
家族の労りと愛に包まれていないと、人の心を読む弟が、簡単に傷つき、崩れ落ちるのではないかと、皆が恐れていた。
優しい兄弟たちは、いつも入れ替わり立ち替わり、シェルのそばにいて、他愛もないお喋りや、ちょっとしたからかいや、時にはただ微笑むだけの沈黙で、貴重な壊れやすい物のように、弟を包み込んでくれた。
それでも年かさの順から、兄も姉も姿を消し、旅立っていった後だ。
今も残る年頃の近い姉たちだけが、シェルのための寝床を作っていた。生まれたてのひな鳥が身を寄せ合うように、あるいは冬越しの虫たちが石の下で引きこもるように、幼い体で寄り集まって、一夜を越えて眠るのだ。
シェルは時折、自分のものではない夢を見た。眠りながらでも、感応力が働き、傍で眠る姉の誰かの、夢の欠片を拾ってくるようだった。
せめてそれが止まねば、ひとりで眠ってはなりませんと、母は教えた。
姉たちはみな、夢の躾けがすんでいて、恐ろしい夢を見ない。もしも、たまたま見たとして、お前たちのことは、いつもわたくしが守っています。だからそんな夢が、もしも深い夜の底から立ち上ってきたとしても、わたくしの優しい一角獣(ナールユールブ)が食べてしまうでしょう。
母はその時もどこか、夜を待つ森を駆け回っているはずの、一角を備えた巨大な馬のような、彼女の相手である守護生物(トゥラシェ)の名を、愛しく頼もしいものとして呼んでいた。
シェル・マイオス。お前はわたくしの大切な最後の息子。ナールユールブの縄張りを離れて、ひとりで眠ってはなりません。お前自身の守護生物(トゥラシェ)が、お前を呼び寄せる夜が、やってくるまでは。
そう言う母の言いつけを、シェルは破ったことがなかったが、さすがにもう十二ともなると、姉たちの柔らかな腕や脚に埋もれて寝るのは、恥ずかしかった。
それをぼやくと、兄たちは、恥ずかしいのはそのことより、未だに感応力を制御できないことのほうだと、シェルをからかった。そんな人聞きの悪い不始末で、十二にもなった男子が、姉上たちと眠るとは、寝小便でも垂らしたほうがまだましだ。
早い者ならもう、呼び声を聞く年頃だった。遠い森の奥底から、我を見いだせと啼(な)く、孤独で寂しい守護生物(トゥラシェ)の、相方を求める声なき声を、夜の静寂(しじま)に聞き、はっと目が覚める時期なのだ。
そして旅立ちの朝が来る。
家族のもとを去り、自分だけの守護生物(トゥラシェ)を見つけて、それと契約を結び、真の森エルフとして、ふたたび戻るための道のりを、勇んで始めるための朝が。
まだささやかな木漏れ日の射す早朝に目覚め、シェルは自分にもとうとう、そんな声が聞こえたのかと思った。呼び声は夜聞くものだと皆は言うが、とにかく何かに呼ばれた気がして、ふと目が覚めたのだ。
それは声ではない声だった。感応力の拾う、言葉とも言えぬ言葉で、それは呼びかけていた。愛しいものに。まだ手も触れぬ、遠くにあるものに、せめてもうあと一歩、近づいてはくれぬかと。
微かだが、シェルにははっきりと感じ取れるその気配に、眠る姉たちは全く気づかぬようだった。すやすやと眠る姉たちの、白い体の合間から、シェルはそっと這い出して、彼女たちを起こさぬように、静かに寝床から下りた。
そして昨夜のうちに用意されていた、日用のための長衣(トーガ)を頭からかぶり、眠る間も身につけたままだった、いくつかの首飾りが、服の下にもぐったのを、指で引っ張り出して整えた。
そのうちの一つは、ある朝旅立っていった姉が、涙ながらにくれたものだった。
さようなら弟よとシェルを抱きしめて、姉は打ち明けた。わたくしはもう、ここへは戻らないと思います。
昨夜わたくしを呼んだ者は、どうやら足がないようで、少しも動く気配がしない。だからその守護生物(トゥラシェ)と相まみえれば、私はもう、どこへも行くことができない。ここへ戻ることも、きっと無理でしょう。
だからお前にこの首飾りをやって、お前の持っているのを私がもらい、可愛い弟を思い出す縁(よすが)にしましょう。お前も時々はこれを見て、わたくしを思い出してちょうだい。そういう姉がいたことを。そして、いつも遠い森のどこかで、お前たちを愛していることを。
その朝、姉は旅立ち、そして本当に戻らなかった。皆、身も世もなく泣いて別れを惜しんだが、出ていく姉を止めはしなかった。守護生物(トゥラシェ)の呼び声に逆らうことは、誰にもできないからだ。
姉上はいったい、どんな守護生物(トゥラシェ)と出会ったのかと、シェルはときどき想像してみた。きっと樹のようなのだろう。動けないというのだから、静性の守護生物(トゥラシェ)を得たのだ。そして、それと生涯をともにする。
自分にはどんなのが、呼びかけてくるのかと、シェルはいつも想像してみた。今は思いもつかないけれど、できれば自分にも、動かないのが呼びかけてくればいい。そうすれば、戦いにいかずに済むからだ。
自分たちが、守護生物(トゥラシェ)の呼び声に、逆らうことができないように、動くことができる守護生物(トゥラシェ)は、遠い戦線から鳴り響く、戦いの呼び声に、逆らうことがなかった。
どこか遠い森の果てから、侵略を、あるいは復讐を叫ぶ声がすると、守護生物(トゥラシェ)の銀の目は、それが聞こえる方向へと向けられた。その身の内に燃える戦意は、戦線を目指して移動をはじめる巨獣たちの乗り手にも伝染し、そうなれば誰しも、戦うのを拒むことがないという。
家族を捨て、恋人を捨てて、兄弟たちは戦いに憑かれ、森を出ていった。
そして戻らない。後にただ、喪失の嘆きを残していくのみだ。
自分にもそんな時が来るとは、シェルは思いたくなかった。
動かない守護生物(トゥラシェ)は、遠い戦線を見つめはするが、それでもじっとしている。その乗り手は生涯、戦いに赴くことはない。森に留まって、それを守るのが仕事になる。そこにある木々と、そこに棲む生き物と、そして、そこに住む、戦いを知らぬ民を愛し、慈しみながら。
そのほうがきっと、自分の性格に合っている。
だけどちょっと、寂しくもあった。森は好きだし、一日彷徨っていて飽きないが、できれば遠くまで旅をして、果てしない逍遙をする一生が良かった。まだ見ぬものを、はじめて聞くものを探して、いつも動き回っているほうが、楽しそうに思える。
問題はその、動き回る自分と、じっとしていたい自分とが、噛み合わないことだ。
ため息をついて、シェルは葉陰の濃い窓の外の、朝の森を見た。
不思議な呼び声は、まだ続いていた。
愛しい目よ、愛しい顔よと、それは深い愛に満ち、それでいて悲しみに満ちて、朝霧の森のなかを漂ってきた。
いったい誰が、これを囁いているのかと、シェルは思った。
人の声のような気もした。
なぜそんなふうに悲しそうなのか、シェルは気の毒になった。
美しい朝が、始まろうとしているのに、まるで悲しい夜の続きのように、その声が泣いていたからだ。
行ってみようかと、シェルはふと思った。守護生物(トゥラシェ)を探すように、その声の出所を探して、森を歩き、もしもその誰かを見つけたら、泣かなくてもいいよと慰めてやれるかもしれない。あるいは一緒に泣いてやれるかも。
どちらにせよ、それは好奇心だった。
いつも姉たちに守られているシェルにとって、悲しみや嘆きは、恐ろしくはあったが、見過ごしにはできない、珍しい感情だった。
自分には人より深く、相手に分け入る力があるのだから、それを得た者の義務として、悲しみを癒す義務があるのではと、シェルは時々思った。自分にだけ許される、偉大な大冒険として。
いつもはそれを諫める姉たちも、一角獣(ナールユールブ)を駆る母も、朝霧の中で、まだ眠っているはずだ。
にっこりと一人で微笑み、シェルは寝室を出た。裸足の足で踏む、緑華宮の床には、ガラスの天井を覆う蔓植物を透かして、ところどころ温かく、朝日が射していた。
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