第5話
ふと気づくと、遠くで混声合唱の声が聞こえていた。ずきずきと頭が痛む。見えない手で頭の中を掻きまわされているような気分がする。
シュレーは頭を抱え、そばの壁によりかかった。磨きたてられた白大理石の壁は、汗で濡れたシュレーの指をうまく受けとめず、つるりと滑って数歩よろめかせた。手を離れた白羽の杖が、けたたましい音をたてて大理石の床を転がっていく。
混声合唱に混じって、自分の荒い息の音が高い天井の下の空間に響きわたるように感じられた。シュレーは朦朧とする目で広間の天井を見上げた。
目が眩むほどの高い天井には、たくさんの灯がともっている。すすけて薄暗く、くもった黄金がぼんやりと輝いている天井。見覚えのある、赤の聖堂の大天蓋だった。
「猊下、杖を落とされました」
目の前に差し出された杖に目をおとし、それから、杖を差し出した老神官に、シュレーはゆっくりと目を向けた。絹の手袋で覆われた老人の手は、布越しにも、しなびて骨ばっているのがわかった。
「……ここは赤の聖堂か」
言葉は、シュレーの喉で引き絞られ、苦しみながら出ていった。
老神官は、答えるかわりに、大きく頷いてみせた。
「つい先刻、そなたと会ったな」
「懺悔室にご案内をいたしました」
シュレーが白羽の杖を受け取ると、老神官は恭しく、一歩後ずさった。
懺悔室へ。
シュレーは聖堂の行き止まりにある、黒檀の扉を遠目に見た。長い廊下が続き、竜(ドラグーン)の像が幾つも並んでいる。壁には天使達の肖像が、大理石を磨いて浮きあがらせた、精緻な浮き彫りにされている。巨大な天使の姿が、向かい合う壁に一人ずつ。
シュレーのもたれた壁には、両耳に手をあてて目を伏せ、耳をすましている仕草の天使が立っていた。ノルティエ・デュアスだ。「星々の声聞く者」と称される天使。今の彼とは似ても似付かない柔和な姿をしている。
この廊下の奥へ、今日も歩いたことは憶えている。今日に限らず、昨日も、その前も、自分は毎日この道を進み、暗闇のなかで大勢の罪の告白を聞いている。そして、その全てを許してやり、この道をまた戻ってくる。そうすれば、翌朝目がさめるまでは、もう誰の懺悔も聞かなくていい。
ありきたりの事だ。今日も何事もなく終わった。
そのはずだ。
だが、シュレーは自分がなぜここにいるのか、憶えていなかった。
「私は、どこへ行こうとしているんだ」
「本日最後の懺悔者を許されたのち、房へ戻られる途中に、ご体調を崩されたのです」
紙に書かれた言葉を読むような、抑揚のない口調で、老神官は説明した。
「最後の懺悔者は、誰だったか……」
「懺悔者が何者かご存知ないことは、珍しいことではありますまい、猊下」
無表情に、老神官は告げた。シュレーの額から、汗が雫になって顔を伝い落ちた。目を細め、シュレーは老神官の顔を見つめた。燭台を持って近寄ってきた、この神官の姿を憶えている。そのとき、この者はなにかを忠告した。
なんと言ったのか。
たしか、日没が近いから、手短に、と…………。
「急がないと…もう日没ではないのか」
杖にすがって姿勢を起こし、シュレーはうつろな声で尋ねた。戒律では、日没までには房へ戻ると決められている。
「なにを仰っておられるのですか。本日はご体調がすぐれないので、午後のご予定を中止して、お部屋へ戻られるのです。まだ日は高いのですよ、猊下」
「……日没が近いから急げと言ったのは、そなただ。憶えていないのか」
「そのようなことは、申し上げた憶えがございません」
きっぱりとした態度で、老神官はシュレーの言葉をはねつけた。
黙りこみ、シュレーはあたりの壁を見まわした。沢山の天使。沢山の竜(ドラグーン)。純白の壁の中で、ノルティエ・デュアスは星の音を聞いている。そんなものが聞こえるはずがないと、シュレーはぼんやり考えた。眠らずに一晩中息を殺していても、星々の声は聞こえなかった。それとも、ノルティエ・デュアスには、なにか聞こえるのだろうか。
ノルティエ・デュアスの彫像が浮きあがる向かいの壁には、別の天使の姿が彫られている。胸に矢を受けて、あお向けに倒れこむ天使の姿が、巨大な白い浮き彫りとなって聖堂の壁を飾っている。
あの天使の名は、ブラン・アムリネスだ。静謐なる調停者、ブラン・アムリネス。赤の聖堂のあるじで、誰もが見捨てた罪人も許すという、その慈悲深い心によって人々に知られ、崇められる神殿種。
あの天使は、営々と転生を繰り返し、いまは、シュレーの中に収まっている。そのように人々は信じている。シュレーが、あの、大陸の民を救うために命を投げ打つような、慈悲深い天使の記憶を継承し、その心を再現するものとして生きて行くと、信徒たちは期待している。
だが、シュレーはそんな古い神殿種の記憶など、心当たりがなかった。それどころか、ほんの半刻前の自分が、どこで何をしていたのかすら思い出せない。懺悔者の話を聞き、その者の罪を許したというが、それがどんな罪であったのかも憶えていない。
それでは、何によって自分はその者の罪を洗い流してやったのか。
伝説の中のブラン・アムリネスは、自分の心臓から流れ出る血によって、大陸の民の反逆罪を洗い流してやったというが、自分にはそんなことをする力はないと、シュレーは思った。形ばかりの許しを垂れるほかに、この神殿の中で、なにひとつできる事がない。
シュレーは、この城に満ち溢れる欺瞞の中でも、自分が日々生み出しているものが、もっとも恐ろしい嘘のような気がした。ブラン・アムリネスは多くの者の救いがたき罪を許しつづけるが、ブラン・アムリネス自身の欺瞞の罪は、いったい誰が許すのか。
自分にできることがあるとすれば、それは、ブラン・アムリネスとしての運命ではなく、詩篇の警告する、世を滅ぼすという者の役回りだけのように思えた。神殿を滅ぼし、全ての神殿種を殺し尽くす、世に数知れぬ災いをもたらす者。
見上げると、彫像のノルティエ・デュアスが相変わらず耳を澄ませていた。それは、星の声を聞くというより、まるで、向き合っているブラン・アムリネスがたてる瀕死の息を、ほくそえみながら聞いているように見えた。
シュレーは自分の妄想に耐えられず、ずきずきと痛む頭を抱えた。ブラン・アムリネスの紋章を飾った僧冠が、絨毯の上に転がり落ちる。どこからか音高く響き続けている混成合唱が、うるさく耳につき、ますます頭痛をひどくした。
「猊下、お顔の色がすぐれません。早く房に戻ってお休みを」
シュレーの僧冠を拾って、老神官がやんわりと急かした。
「……歌がうるさい。あれはなんだ。今ごろなんの祭祀だ」
鉛のように思い体を引きずって歩きながら、シュレーは老神官に尋ねた。
「黒の聖堂での、葬儀でございます。とある部族の絶滅を悼んでのことです」
「絶滅……黒の聖堂、また、ノルティエ・デュアスか……呪いばかりで、いやになる…こんどはどこを滅ぼしたのだ」
シュレーは心臓のあたりに鋭い痛みを感じ、胸を押さえた。
「カスガルとか申す、小部族でございます。お気にとめなさいませぬよう。致し方のないことでございます。慈悲深きお心をお持ちの猊下には、それさえお心苦しく思し召しやもしれませぬが」
「買かぶりだ……名も知らぬ部族の死を悼む気にはなれない」
シュレーは苦しみのために低くうめいた。老神官はシュレーにその骨ばった肩を貸し、かすかに笑った。
「それは、良うございました」
混声合唱は、うねる波のような激しい抑揚で、不吉な鎮魂歌を歌い続けている。それはまるで、呪いに満ちた断罪の声のように、シュレーの耳を苦しめた。
---- 完 ----
カルテット番外編「贖罪」 椎堂かおる @zero
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