第4話

「私の罪を告白しに参りました」

 シュレーが懺悔室の中に入ると、闇の中に跪いていた男が、儀礼的な響きのする言葉を投げかけてきた。

 その姿は、判然としなかった。

 狭い懺悔室に入るときに、燭台の灯りの中に浮かび上がる金髪と、エルフ族の衣装が見えただけだ。

 声には、聞き覚えがあった。

「……偽りなき言葉で話せ」

 何百年も前から決まり切っている台詞で、シュレーは応えた。

 背後で扉が閉じられる気配がして、灯りが絶えた。

 ほぼ完全な闇の中で、シュレーは山エルフ族族長、ハルペグ・オルロイ・フォーリュンベルグと対峙した。

「わが息子を裏切り、あるお方を一族の継承者としてお迎えいたします」

 低く落ち付いた声で、ハルペグは話し始めた。その声は、いくらかシュレーの亡き父に似ていた。

 それもそのはずだ。ハルペグ・オルロイは、シュレーの父の同腹の弟なのだ。

 父が生きており、山の部族の継承者として生き続けていれば、いま目の前に跪いているこの男の地位を、シュレーの父が占めているはずだった。

 しかし、父は神殿種の女を連れて逃げ出し、継承者としての地位を捨て、荒野で他人の家畜の世話をして細々と生きた。王族に生まれついた高貴な身の上から、その日の食べ物を他人に恵んでもらうような貧しい生活へ。その挙句、その世界からも逃げ出し、この城の尖塔から身を投げて死んだ。ひたすら転落していくだけの、惨めな一生だ。

「ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下…」

 跪いた男が、シュレーの応えを待ち、闇の中を探っている気配がする。

「どうか、この罪深き者にお慈悲を」

 ハルペグ・オルロイの声は、まるで本当に慈悲を求めているように聞こえる。

 シュレーは眉をひそめ、しばらく沈黙していた。自分の息子が可愛いなら、なぜ、シュレーの亡命を受け入れたりするのか、不可解だった。

 目が闇に慣れても、相手の姿はよく見えない。だが、懺悔者が跪く位置は、あらかじめそのための席があり、決まっている。シュレーはいつもと同じように見当をつけて、ハルペグ・オルロイの肩に、白羽の杖の先を押し当てた。オルロイの手が、差し伸べられた杖を掴むのが感じられた。

「汝、許されり」

 翼を使って、シュレーはオルロイに囁きかけた。それは、赤の神殿のあるじとして、ありきたりの行為だった。

「兄上は……失意のままお亡くなりになったでしょうか」

 杖を退こうとしたシュレーに、オルロイは抗った。引きとめる力を感じて、シュレーは杖を戻すのをやめた。

 オルロイのいう「兄上」とは、シュレーの父のことに違いない。

「私は、死の直前の父とは、会っていない。それについては誰からも聞いていない」

 ひそめた肉声で、シュレーは答えた。

 オルロイが死んだように押し黙るのが感じられた。息がつまりそうな沈黙ののち、オルロイはかすれた声で切り出した。

「私の地位は、もともと、兄上のためのもの。私はそれを簒奪(さんだつ)したようなものです。あるべき場所に額冠(ティアラ)を戻し、私の罪のつぐないとさせてください」

 ハルペグ・オルロイの声は、疲れ切っているようだった。

「……それについては、そなたが気に病むことはない。私の父は、自らの意思で、その地位を捨てていったのだ。オルロイ、そなたは部族をよく治めていると聞いている」

「私は、部族を兄上から預かっているのです。いずれ戻られる時までと思って参りましたが、兄上亡き今、猊下をお迎えすることが何よりの贖罪(しょくざい)と心得ております」

 シュレーは闇の中で目を細めた。

 何もかも放り出して逃げた父よりは、この男のほうが、よほど支配者に相応しい。山エルフたちは、族長位を長子に相続させることを重要視しすぎている。今回ばかりは、シュレーにとって、その風習が役に立ったが、長子相続にこだわるあまり、逃げ腰な父ヨアヒムに部族を継がせ、この叔父を支配者の席から遠ざけたとしたら、たいへんな失策だっただろう。

「オルロイ、ブラン・アムリネスは、存在しない罪を癒すことはできない」

「ならば、私の罪は永遠に癒される事はないでしょう」

 杖に縋っていたオルロイの手が、離れるのが感じられた。シュレーは杖を引き戻し、自分のそばの床をついた。

「四部族同盟の首尾は?」

「我が部族に有利なかたちになるよう、ご高配を賜れるようです」

「……なによりだ、叔父上」

 シュレーはなにげなく、そう呼びかけた。だが、オルロイが息をのむのが聞こえた。

「猊下……」

 言いよどむオルロイの声が、懺悔室の中をさ迷った。

「私を叔父と思し召しか……」

「そなたは私の父の弟だ。私の叔父ではないか」

「……勿体無い。お側近くにお仕えできますことが、なによりの幸福でございます。兄上に成り代わり、猊下をお守りいたします」

 跪くオルロイが泣いているような気がして、シュレーはかすかな動揺を感じた。

 オルロイが自分を歓迎してくれていることは分かったが、何と答えればいいのか、ひとつも思い付かない。誰かに歓迎されるのに慣れていないのだ。

「…………日没を過ぎているだろう。オルロイ、帰るがいい」

「いずれまた、フラカッツァーでご拝謁賜りましょう」

 山の都の名を告げて、オルロイが立ち上がる気配がした。

「猊下……失礼する前に、お姿を拝見できますか」

 立ち去ろうとするシュレーを、オルロイが引きとめる。意外な申し出に、シュレーは驚いた。

 懺悔室の神官は、懺悔者の姿を見ないのがしきたりだ。信徒の去り際にまで、懺悔室に残っていたら、聖堂内の灯りのため、相手の姿を見てしまう。

 だが、オルロイはもともと名乗っているのだし、しきたりに拘るのも意味がないような気がした。シュレーの顔など見たところで、意味がないようにも思えたが、オルロイにはなにか懐かしいものがあるのかもしれない。好意への返礼に、それくらいは返してやってもいいように思えた。

「異例だが、見送ることにする」

 シュレーが答えると、オルロイは黙ったまま、聖堂側に通じる扉を開いた。沢山の燭台が灯す光が、懺悔室の中に入りこんできた。それが、闇に慣れていた目には眩しく、シュレーは目を細めた。

 扉のそばに立っているオルロイは、やはり死んだ父に良く似ていた。寡黙そうな厳しい顔立ちのなかから、父と同じ鋭い緑の目が、こちらを見ている。しかし、オルロイはシュレーが知っている父の姿とは比べ物にならない、立派な衣装で身を飾っており、堂々と整った体躯は力強く、痩せさらばえた山羊飼いとは、はるかに遠い場所に立っている者に違いなかった。

「兄上には、あまり似ておられませんな」

「では、私は母に似たのだろう」

「尊いお血筋に似つかわしい、崇高なご容貌です」

 血筋のことを言われて、シュレーは思わず苦笑した。

「笑うと、お母上によく似ておられる。そのお声も、どこか懐かしく聞こえます」

 オルロイは深く一礼すると、懺悔室を出ていった。

 シュレーは驚いて立ちすくんだ。

 神殿には、母のことを教えてくれる者が誰もいなかった。生まれてから一度も、母の顔を見たことはない。病がちな母から、いつも父がシュレーを遠ざけていて、ほんの一目も会ったことがないのだ。

 母の姿をうつした肖像画一つ残っていない。神殿種に不名誉を成した女として、その存在を抹殺されてしまったからだ。形見の品もなく、シュレーが母から受け継いだものは、命の他になにもない。

 オルロイは、母と会った事があるのか。

 それを疑問に思うより早く、シュレーは懺悔室の扉を開けて、聖堂に出ていったハルペグ・オルロイを追いかけていた。オルロイは聖堂からも出て行こうとしていた。

 聖楼城側の扉が開いて、背後からブラン・アムリネスを引きとめようとする神官たちの声が聞こえたが、シュレーはそれを無視した。次にオルロイと会う機会がいつになるのかわからない。神籍を返上して、彼の宮廷に移ること自体、成功するかどうか分からないのだ。

「オルロイ、待て!」

 聖堂の長廊下を駆け下るうちに、神殿の大扉を守る僧兵がシュレーを遮ろうとして扉の前に立ちはだかるのが見えた。

 扉の前に立つ僧兵は、シュレーよりもはるかに体格が良かった。白い神官服に身を包み、棒術のための金属の白い杖を持っている。

「猊下、城へお戻り下さい。この先は神殿の外でございます」

 ふたりの僧兵が、シュレーを押し留めて告げた。もみ合ううちに、胸元の留め金がはずれて、金糸で刺繍された外套が落ちた。僧兵は動揺した表情を見せたが、城内の者が聖堂の外に出られないのは、厳重に決められた掟だった。

「オルロイを呼び戻せ」

 扉に触れようとするシュレーの腕を、僧兵が棒で押し返した。

「日没を過ぎております、お部屋にお戻りください」

「扉を開けろ」

「戒律でございます」

 早口に僧兵は応じた。

 シュレーは呆然として、顔をゆがめた。

「戒律……?」

「お戻り下さい」

 上目使いに見上げる僧兵たちの視線を、シュレーはかすかな震えを感じながら見下ろした。追い付いてきた神官たちが、床に落ちいてた外套を拾って、シュレーの肩に着せ掛けた。

「ブラン・アムリネス猊下、お戻り下さい」

 連れ戻そうと袖を引く神官たちを、シュレーは順に見まわした。

「日没を過ぎております。長引くと、我々にもお仕置きが」

「……わかった」

 肩をずりおちる外套を引き上げて、シュレーは小さく頷いた。

 踵をかえして、聖楼城へ歩き始めると、神官たちはほっと安堵の息をついた。奥へつづく道をしめして、神官たちはシュレーの側近くを歩いている。

「……誰か、私の母のことを知っている者はいるか?」

 シュレーは、誰に話しかけるともなく、呟いた。供をする神官たちが、ぎょっとして口をつぐむ。

 誰も、なにも聞かなかったような顔をして、ひたすら歩みを進めている。

 シュレーは立ち止まった。弾かれたように、神官たちがふりかえった。

「猊下!!」

 走り去ろうとするシュレーの外套を、神官たちが掴んだ。シュレーはそれを振り払い、大扉を目指した。泡を食った僧兵たちが、おろおろと扉の前に戻ってくる。

「通せ」

 走りよりながら、シュレーは命じた。

「なりませ……」

 決まり切った答えを言おうとする僧兵の顔を、シュレーは白羽の杖で殴り倒した。

 昏倒した僧兵を、もうひとりが、信じられないという表情で見送っている。

 残る一人が我に帰るのと同時に、シュレーは白金で飾られた白い翼を、力任せに僧兵のみぞおちに沈めた。短くうめいて、僧兵は倒れた。

 大扉のかけがねを外し、シュレーは重い扉を押し開けた。外には闇と星明りの垂れ込める、長い渡り廊下があった。この扉の先を見るのも、シュレーには初めてのことだった。

 追いすがってくる神官たちを押し返して、シュレーは扉のそとに走り出た。

「オルロイ!」

 暗い廊下には、誰の姿も見当たらなかった。

 追われるまま、シュレーは渡り廊下を走って、灯りのあるほうを目指した。石で舗装された白い回廊は、複雑に入り組んでおり、まるで迷路のようだった。このまま進んで行って、聖堂まで戻れるのかどうか自信がなかったが、そんなことは気にならなかった。

 いくつもの角を曲がり、列柱のあたりを走り抜けると、巨大な石造りの門が現れ、その向こう側に大勢がいる気配がした。神殿の門は、白大理石の柱を並べただけのもので、扉は設けられていなかった。その門を閉じているのは、目に見えない神殿の権威だ。

 門の側には僧兵が立っていたが、事情ののみこめていない彼らは、高位の神官の衣装をつけたシュレーが通りすぎるのを、呆然と眺めている。

「オルロイ、いないのか!?」

 門の前で立ち尽くしている多くの部族の者たちを見渡して、シュレーは山エルフの金髪を探した。それらしい人影は見当たらなかった。

「……ブラン・アムリネス様」

「天使様……」

 ざわめく信徒たちの声が、かがり火に照らされた闇のあちこちから湧いた。石畳の上に座っていたものたちが立ちあがり、自分の姿を見ているのを感じたが、立ち去った山エルフたちの姿を探して苛立っているシュレーには、その意味が分からなかった。

「猊下……ま、誠に、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下でいらっしゃいますか?」

 うろたえた門兵たちが、シュレー遠巻きにしたまま問いかけてきた。

「そうだ。山エルフ族族長、ハルペグ・オルロイ・フォーリンベルグを探している。誰か、行方を知っていたら、聖堂へ……」

 わっと湧きあがった大声に、シュレーは驚いて言葉を呑みこんだ。

 門の前につめかけていた信徒たちが、立ちあがって口々に叫んでいた。意味のわからない様々な言葉が、嵐のように押し寄せてくる。門前の灯りの中に見えていたより、はるかに多くの者たちが、神殿の前で息をひそめていたようだった。

 数え切れないほどの足音が、いっせいに近づいてくるのが感じられた。シュレーは動揺して、闇の中を見まわした。

「猊下っ、お戻りを………」

 シュレーの前に走り出ようとした僧兵が、走り寄ってきた信徒に乱暴に押しのけられた。門を守っていた僧兵たちは、次々に押し寄せてくる信徒たちを押し返そうと、必死になっている。

 その光景に唖然としていたシュレーの外套が、思わぬほうから引っ張られ、シュレーをぎょっとさせた。

「-----------!!」

 シュレーの外套にすがりついている者たちは、口々にわけのわからない言葉で喚いた。彼らの、涙ながらに何かを訴えようとしている姿は、シュレーをますます混乱させた。

「よせ…お前たちの言葉は私にはわからない……!!」

 あとずさって、シュレーはすがりついてくる者たちを杖で押しのけようとした。しかし、その白羽の杖にも、次々と様々な肌の色の手が取り付いていく。

「猊下、どうか我が部族に今一度のお慈悲を!」

 杖を握り締めた老人が、公用語で叫んだ。

 はっとして、シュレーは老人の顔を見た。見覚えがあった。

「カ…カスガルの……」

 今朝方、ブラン・アムリネスに慈悲を求めてやってきた、辺境の小部族の者たちだった。ほんの何刻か前、ノルティエ・デュアスが、彼らを呪いによって絶滅させると決めたばかりだ。

「大神官台下に、今一度ご嘆願なさってください。我が部族が先祖伝来に守りつづけた土地が蹂躙されるのを、神殿はお見捨てになるのですか!」

「侵略者たちでなく、なぜ我々に呪いなど……代々、我が部族の民は神聖神殿に忠誠を尽くして参りました!!」

 他の信徒に引き戻されそうになる老人を守るように、シュレーとさして歳のかわらない少年が立ちはだかり、シュレーの白金の杖を掴んだ。少年は、いくらか浅黒い肌に、淡い栗色の髪と黒い瞳を持っていた。内陸の民の容貌だった。カスガル族の首長がシュレーのもとを訪れた時に、この身形のいい少年も付き従っていた。

「そなたは……」

「私はカスガル族の継承者です。兄たちは皆、侵略者たちに殺されました。だから、私が部族を継承するのです。あなた方が呪いによって滅ぼす部族を、私が継承するのです!」

 内陸の王子は、迷いのない目つきで、シュレーを睨み付けてきた。彼が自分のことを憎んでいるのが感じられた。どんな事情があろうと、神殿の外から眺めれば、シュレーはまぎれもなく神殿種の一人であり、呪いと恐怖によって世界を支配する竜(ドラグーン)の末裔だった。

「もう一度お考え直しを」

 王子は、年老いた族長の肩を抱き、強い口調で訴えかけてきた。

「息子の非礼をお許しくださいませ、猊下、どうか我が部族に今一度、御名にふさわしいお慈悲をお示し下さい」

 かろうじて姿勢をたてなおして、老いた首長はシュレーに低頭した。

 意味のとれない怒号が続いていた。天使ブラン・アムリネスの衣に触れ、その慈悲を受けようとするものたちが、飢えた獣の群れが獲物を食い散らかす様に、シュレーの豪華な外套を、手に手に引き千切っていった。

「どうにもしてやれない……」

 内陸の王子の顔を見つめ、シュレーはうろたえた声で応えた。

「逃げろ、呪いがやってくるまでには一月はかかる」

「祖先の土地を捨てては逃げられません。どこへ行けというのですか!」

 老王が堪え切れずに涙を流し始める。シュレーは思わず目をそらした。

「お慈悲を、猊下、伝説の中でそうなさったように、我が部族と運命をともになさってください」

 シュレーの神官服の胸元を掴んで、内陸の王子は言った。それは、他の者たちの懇願とは違っていた。やれるものならやってみろ、と、年上の少年の強い目が挑戦していた。

「大陸にいくつの部族があるか知っているのか。私が何度死んでも、この神殿があるかぎり、そなたたちは救われぬ。神殿はいずれ私が滅ぼす、それまで耐えよ。そなたたちの恨みは、すべて私が呑んでゆく」

 シュレーの喉の奥から、思いもしなかった言葉が流れ出た。神官服の胸元を掴んでいた少年の手から力がゆるんだ。

 自分の言った事の意味が、シュレーには良く分からなかった。自分がなぜそんなことを口走るのかも。

「猊下……どうか、私たちのことをお忘れなきよう」

 呆然と、カスガル族の少年がつぶやいた。

 突然、あたりに異様な白い光が次々と灯り始めた。

 門の上に、巨大な白い翼を広げた神殿種の兵が、数十人も群がっていた。その翼が放つ白い光と、耳を裂くような音なき声に、あたりに詰め掛けていた群衆が苦しみはじめる。シュレーも、腹の底から湧きあがるような吐き気を感じた。

 襲ってきた目眩のせいで、足元がふらつき、シュレーは無意識に白羽の杖によりかかった。頭が朦朧とする。

 シュレーの脳裏に白日夢のような脈絡のない光景が浮かび、現実の風景の中に、切れ切れになって割りこみはじめた。

 今と同じように、目の前で大勢が苦しんでいる姿を見た事がある。

 空には異様な白い光が浮かびあがり、太陽の光を覆い隠すほどの明るさに見えた。多くの大陸の民が苦しみ悶えながら地面に倒れ伏している。その中で、自分は何も出来ずに立ち尽くしていた。

 最後の力を振り絞って、まだほんの少女のような女が立ちあがり、弓に矢をつがえ、弦を引き絞るのが見えた。夢の中のシュレーは逃れなかった。音高く弓弦が鳴り、自分の胸に深々と矢が突き立つ。

 その痛みと衝撃が生々しく体を走り、シュレーは仰け反って目を見開いた。

「ブラン・アムリネス」

 厳しい声が飛び、何者かがシュレーの腕を後ろから引いた。

「ノルティエ・デュアス……」

 ふりかえり、シュレーはそこに立っていた天使の名を呼んだ。

 蔑むような表情を浮かべた冷たい灰色の目で、ノルティエ・デュアスがシュレーを見つめていた。

「正神殿に戻れ。なんというザマだ。それが天使の名を帯びるものの姿か……見苦しい。お前は面倒ばかり起こす」

 無残に引き千切られたブラン・アムリネスの外套を眺めて、ノルティエ・デュアスは小さく首を振った。

 門柱から翼を広げた神殿種たちが舞い降りてきて、あたりに倒れている者たちの一人一人に、その翼の先を触れさせてゆくのが見えた。ああやって、一人一人に暗示をかけてゆくのだ。この人数では、その作業だけでもかなりの時を要することだろう。

「明日には皆忘れている。神殿の外に出るのが、どの程度の罪かは知っているのだろうな」

「……知っています」

 痛みの残る左胸を押さえて、シュレーは冷や汗の浮いた顔をノルティエ・デュアスに向けた。ノルティエ・デュアスはかすかに眉をひそめた。

「幸い、処罰は軽い。忘却処理によって不問に処すと、大神官台下は仰せだ。この足でディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレに会いに行け。ヴィジュレがお前の記憶を封印する」

「……他の罰ではだめなのですか」

 シュレーは無駄だと知りつつ尋ねてみた。前を進み始めていたノルティエ・デュアスが足を止め、意外そうな表情を浮かべて、こちらを振りかえった。

「さあ? 地下牢で鞭打たれたいなら好きにしろ。しかし台下がお許しになるまい」

 ノルティエ・デュアスの言葉は淡々としていた。

 彼の言う通りだった。大神官に二言はない。問い返す方が間違っているのだ。

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