夜空

「何で冬ってこんなに寒いんだろ……」

 隣で自転車を押す悠樹は、小さく苦笑を浮かべながら美咲の格好を見やった。

 首もとは長いマフラー、頭はニット帽。重たそうな黒のコートを着込み、足元も冬物の厚手の生地のものでかためている。冬将軍と十分に戦えそうだった。

「また僕から逃げれば、体温上がると思うんだけどね。何なら、もう一回登場からやりなおしてもいいよ」

 口から漏れた呼気が、冷えて白く染まった。

「また、さっきのこと言ってる」

 不機嫌そうに、美咲は頬を膨らませる。

 悠樹は声をかけようとしただけだった。しかし、美咲はぎょっと目を見開いて、鞄まで投げつけて逃げ出したのだ。

「仕方ないじゃんか、近頃、ここらでも不審者多いって言うし」

 ちなみに美咲は、悠樹が自転車ごと転んだところでやっと気が付いて、慌てて駆け寄ってきた。

 よほど慌てていたのか、足元に僅かながら段差があったことに気付かずに、見事にはばたいた。そのまま美咲は悠樹の胸めがけて華麗にヘッドスライディングをきめ、仲良く一緒に、冬の舗道を転がった。

 顔を起こしたときに一瞬、目があった。美咲の体温や重さ、吐息さえも感じられた。ゆっくり流れているようで、早回しに再生されているようにも思える奇妙な時間が二人の間に流れていた。

 抱きとめていた腕を乱暴にほどき、怒ったような顔で悠樹は立ち上がった。凍った彫像のように倒れていた美咲は、不意にはじかれたように飛び上がり、走り出した。

 その途端に、また自転車にひっかかってたたらを踏んだ。自転車の車輪が、からかうように回っていた。

「けど、あれだと、どっちが不審者か分からないよね。むしろ二人ともかな」

 美咲が真っ赤になる。

「いつも一人で帰ってるの?」

「ううん。いつもは友達と帰ってるよ。けど、たまたま今日は、みんなの都合でばらけちゃってね」

 だから、偶然なのだと付け足して、不意に彼女の顔がにやけた。

「まさかさ、私のこと心配してくれてんの?」

 悠樹は肩を竦めて首を振った。

「うっわ、何それ。心配してます、くらい言ってよね、嘘でも」

 静かで凍えた空間で足音だけは、うんざりするほどよく跳ねていた。

「そういえば、悠樹も塾帰りだよね。いつもこの時間に帰るの?」

「そうだよ。どうかした?」

「遅いなぁって思ってさ。とくに悠樹って、寄り道なんかしなさそうだから」

「まぁ、塾が終わるのが遅いからね」

 だから、この道で美咲に会ったのは予定外のことだったのだ。鞄を全力で投げつけられたのはさらに、格が違うくらいに予定外のことだった。

「それって、辛くない?」

 小さな声で、美咲が投げかけた。

「だってさ、いつもなんだよね? 帰る時間が遅いのって」

「学生だからね。仕方ないよ」

「ふーん……仕方ない、か」

 小さく漏れた息が白く凍えた。そのまま跳ねずに、冬の舗道の上をゆっくりと転がっていく。

「私はそうは思わないかな。だいたいさ、来る日も来る日も勉強、勉強って、悠樹はイヤになんない? しかも、気付いたらいつの間にか受験生で、いつの間にか終わっちゃうんだよ?」

「それも仕方ないって割り切ってるかな。その代わりに、今までは好きな本ばっか読んでても文句言われなかった。そう割り切ってる」

 割り切っている。その言葉の響きが妙に耳に残った。エコーをかけた音のように尾を引いている。

「大人なんだね、悠樹って」

 それは違う。自分が大人のはずがない。そんな心の声がにじむように湧いてきた。

 星の方へと、美咲は鞄を放り投げる。

「けどさ、不安になんないの? 将来とかさ」

「なるよ」

 頭の中で自身の言葉が反響している。それはいつの間にか和音になっていた。

「そりゃ、僕だって思うさ」

 しかし、悠樹の口は、さらに続ける。

「いくら自分でどう思ったところで、そうなるとは限らないんだからね」

 だが、押したのは本当に、自分のボタンだったのだろうか。本当に、自分自身が喋っているのだろうか。

「だけど、割り切ってるかどうかって、実のところ怪しいんだ。だって、自分の中から声が聞こえてくるんだ」

「なんて聞こえてくるの?」

「さあね。それが分かったら苦労しないよ。分からないから、どうなのか怪しいんだよ」

 悠樹は小さく鼻で笑った。この声も、自分自身が発した声なのだろうか。

 しかし、心には音なのかさえ怪しくなった残響があるばかりで、心の隅まで見るには少し暗すぎた。

「やっぱり、悠樹でも不安なんだね」

 少し意外だったよと、美咲は悠樹の顔を覗き込んだ。

「なんかさ、夜みたいじゃない?」

「夜?」

「夜って真っ暗だから、足元がよく見えないし、どこで不審者に遭うか分かんない」

「それが同級生かもしれない」

「もう、それは言わないでよ!」

 美咲は悠樹をにらみつけた。

「ごめんごめん。美咲がいきなり詩人になるもんだから……」

 暗闇の中を歩いているみたいだと彼女は言いたいのだろう。

「夜空の方がしっくりこないかな」

「夜空?」と、美咲が首を傾げるのを待っていたように、悠樹は一つ頷いて続ける。

「だって、夜道だったら暗くても道があるけどさ」

「うん」

「夜空はただ、どこまでも深いだけだからね。今もどんどん深さを増してるんだよ。僕たちには想像もつかないような深いところで」

「確かにね」

「だけどね、夜は明けるんだよ」

 美咲は、盛大に吹き出した。

「ごめん、悠樹……」

 笑い声を一切堪えることなく、美咲は腹を抱えて笑った。ひとしきり笑った後で、少しばつが悪そうな悠樹に、にやけ顔を浮かべる。

「やっぱり私より、悠樹の方が詩人に向いてるよ。ていうか、悠樹って意外とロマンチスト?」

「そうかもしれない」

 やはり、今の自分は少し、いや、大分おかしい。そうでなければ、この寒空の下で顔が熱いなどと思うわけが無い。

 一つ息をついたところで、美咲はまた空を見上げた。

「夜明けかぁ……。私はまだ、夜の中に居たいかな」

「どうして?」

 美咲が照れるように、空へと腕を放った。投げ上げられた鞄がゆっくりと落ちてくる。美咲はそのまま空を見上げていた。悠樹も彼女にならって、空を見上げた。

 夜空には星々が静かに輝いている。

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