この世界のどこか、日常の片隅で(短編集)

みら

バッドエンドが嫌いな理由

 僕の部屋には大きな本棚がある。本来なら参考書や問題集を入れるべきなのだろうが、ほとんど漫画や小説に占拠されていた。麻衣から借りっぱなしのものも一冊混ざっている。その借り物が例外ではあるが、ほとんどがハッピーエンドのものだ。何故なら僕は昔から、理不尽な結末を迎える類の話が嫌いだからだ。僕は登場人物に過剰に感情移入してしまう性質らしく、終わり方が理不尽だと、どうでもいい余計な事を自然と考えてしまい、胸をえぐりとられたような気分になってしまうのだ。

 そういえば麻衣の引っ越しを手伝ったときも、そんな気持ちにされた覚えがある。麻衣とは腐れ縁とも言うべき関係だったせいか、僕は、麻衣が居なくなるということに、全く現実味を感じていなかった。引越しの話そのものが嘘なのではないかと思ったほどだ。しかし、三月を示すカレンダーが、嘘だと確信を持てる日には少し早いと告げていた。それに、段ボールだらけの麻衣の部屋はまるで、僕の知らない世界だったのだ。ガムテープの乾燥した味気ない音が響くたびに、その事実を押し付けられた。居心地が悪くてしかたなかった。

「この段ボール、持って行くよ」

「それはいいよ。私が持っていくから」

 麻衣はそう言って、柄にもなく遠慮する素振りを見せた。だが僕は一刻も早く部屋から出たくて「僕が手伝いに来たのは力仕事のためだ」と言いくるめ、半ば無理矢理段ボールを持ち上げた。しかし、その段ボール箱が常識の範疇を余裕で上回るくらいに重く、砕け散ってしまいそうになったのを、今でも僕の腰が覚えている。

「これ、何が入ってるの?」

「ええと、私の本を全部だったかな。一冊、見つからなかったけど」

 一冊、読みかけのまま借りっぱなしの本があるのを思い出したのはその時だ。それを言おうとしたのだが、息が上がってしまっていて喋ることができなかった。その時の僕はただ、麻衣が心配そうに見てくるのをぎこちない笑顔で返し、生返事をするくらいしかできなかった。その段ボールは、僕の腰の限界点を少し過ぎた辺りで業者の人に渡したのだが、業者の人は鼻歌まじりといった感じでトラックに積み込んでいた。そんな代物のせいで、僕の腰は使いものにならなくなった。しかし、借りていた本のことは何としても伝えたかった。

「あのさ、本のことだけど……」

「だから私が運ぶって言ったんだよ。怪我人は大人しくしておいて」

 だが、腰をかばいつつ言おうとしたところで、麻衣は一切取り合ってくれなかった。細身の麻衣があれを運べるのかという疑問ももちろん浮かんできたが、それよりも、あと一冊を探す麻衣になんとかして伝えたくて、何度も話しかけた。しかし、その度に大人しくしろと追い返され、最後には「邪魔!」と、にらまれた。思い返せば喜劇だが、その時の僕としては悲劇だった。その上、気付いた時には荷物を積み終わったトラックのエンジンが低くうなっていたのだ。僕の両親と、麻衣の両親が「どうも、お世話になりました」と別れの挨拶をしていて、僕の目の前に居た麻衣も、何か言いたそうな顔をしていた。ああ、もう麻衣は居なくなるんだなという実感が今更のように湧いてきた。感傷的な気持ちも混ざっていた。どう別れるべきなのだろうか。そんなことまで考えてしまった。悩んだ結果、いつもみたいにあっさりとした台詞で別れようと決めた。学校で別れる時みたいに、「じゃあね」と別れるのが一番だと思ったのだ。あと、本のことも一言だけ付け足そう。そう決めた。

 だが、麻衣はそうさせてくれなかった。僕を見上げたかと思うと、いきなり、僕の胸を貫くように飛びこんできたのだ。僕は受け止めきれず、どんどんと後ろに押されてしまった。何のリアクションもとれないうちに、踵が玄関の上がり口にひっかかり、そのまましりもちをついた。親たちの呆然とした視線を感じたが、麻衣は全く気にかけず、僕の胸に顔を押しつけていた。僕が「麻衣?」と声を掛けても反応がなく、麻衣の温かさも、甘い匂いも、何を見ているのか分からなかった。そして、やっと麻衣から「あー、すっきりした」という返事が聞こえたかと思うと、麻衣は驚くほどあっさりと僕から離れた。

「今まで、ありがとう」

 そう言った麻衣の顔は、とても満足そうに笑んでいた。結局僕は戸惑ったような声をかけていただけで、抱き返すことも、突き返すこともできなかった。僕は抱き返すべきだったのだろうか。それとも、やめろよと突き返すべきだったのだろうか。甘い匂いの残滓が僕に問いかけ続けた。しかし、いくら考えたところで、その時の僕にはただ呆然と見送ることしかできなかった。「あ、本……」と、言い忘れに気付いたのも、麻衣を乗せた車が見えなくなった後のことだ。

 記憶の世界から現実へ帰ってくると、僕の携帯がメールの着信音を鳴らしていた。「そういえば」という題名で、差出人は麻衣だった。

「見つからなかった本は持っておいてよ。いつか返してもらいに行くために」

 なるほど、やっぱり僕はハッピーエンドが好きなのだ。

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