まあだだよ(5/5)

 そこにいるのは、確かにエリちゃんだった。


 まるでひとり、あの日から抜け出てきたように、変わらぬ幼い少女のまま――ただひとつ、首のペンダントだけをなくしたエリちゃんが。


「なんで……」


 一歩後ずさるわたしに、エリちゃんはにっこりと笑って言った。


「なんで、はこっちの台詞だよ。ねえ、どうして見つけてくれなかったの? あたし、ずうっと隠れてたのに」


 少女のままの声で、エリちゃんが言う。息をのみ、わたしは必死になって答えた。


「……そんなことないよ。わたし、探したよ」


 夕暮れの公園を、闇に沈む町を。けど、どこを探しても見つからなかった。どこにもエリちゃんはいなかった。


 しかし、エリちゃんは首をかしげた。ワンピースの衿についた美しいレースを隠すように、さらり、と長い黒髪が揺れた。


「嘘つき」


 エリちゃんの笑顔が、ぞっとするような暗いものに変わった。


「だってあの日、リョウコちゃん、あたしのこと見たじゃない」


 恐ろしさにもう一歩後ずさると、エリちゃんはわたしを追い詰めるように一歩前へ進んだ。


「あたしを探して、リョウコちゃんは隣町まできてくれた。そうでしょ?」


 声をなくし、怖々とわたしは頷く。と、そのとき、何かが弾けるようにあのときの記憶が蘇った。




 真っ赤な夕日が暮れていく。一番星が空に光る。


 幼いわたしはエリちゃんを探して、隣町の路地を歩いていた。けれど、散々歩き回ったのにも関わらず、エリちゃんは見つからない。


 一体、どこに隠れちゃったんだろう――疲れて路傍に座り込んだそのとき、わたしは道にきらりと光る何かを見つけた。


 エリちゃんのペンダントだ。


 どうしてそこにそんなものが落ちているのかなんて考えもせず、わたしはそれに飛びついた。秘密が隠されているという、素敵なそのペンダント。


 わたしはエリちゃんの首にぶら下がるそれが前から欲しくって欲しくってしょうがなかったのだ。


 落ちてるんだからもらっちゃおう、わたしは無邪気に、すぐにそれを拾い上げる。


 けれど、そのとき――リョウコちゃん――わたしを呼ぶエリちゃんの声が聞こえた気がして、びくりと辺りを見回した。


「そのとき、あたしと目が合ったよね?」

「…………」


 わたしは記憶の続きを紐解く。


 リョウコちゃん――そう呼ばれた記憶の中のわたしが、声が聞こえたほうへ視線を移す。すると――そこにはわたしの家よりもずっと汚いあばら家が見えた。そして、そのあばら家の窓。そこに、白い少女の顔がちらと覗く。


 あ、エリちゃんだ――わたしはそう思った。しかし同時に、ペンダントを拾ったところを見られてたらまずい、と考える。けれど、そんな考えは次の瞬間、驚きと共に吹っ飛んだ。


 そのエリちゃんの白い顔の後ろからだった。ぬっと見知らぬ男が現れ、そして、恐ろしい形相でわたしを睨んだのだ。


 見たな――? わたしの心臓は瞬時に凍り付いた。


「そのあと、どうしたか覚えてる?」

「どうしたって、わたしは――」


 わたしは走った。エリちゃんがどうしてあんな家にいるのか、あの男は何なのか、男がエリちゃんをどうするつもりなのか、考えることなんてできなかった。


 わたしは走った。ただ走り抜けた。手の中に拾ったペンダントを握りしめたまま、夕暮れの町を全速力で。そのとき、わたしの耳に何か歌のようなものが聞こえて――


 はっと息をのんだわたしに、エリちゃんは面白そうに笑った。


「どうしたの? 何が聞こえるの?」

「聞こえるのは――」


 からからの喉から言葉を絞り出すように、わたしは言った。


 聞こえるのはわたしの激しい息づかい。そして、恐怖で破裂しそうに脈打つ心臓の音、それから――きらきらぼしの、オルゴールの音色。


 そうだ。わたしはやっと気がついた。


 ペンダントの秘密を知らないわたしに、きらきらぼしの歌が聞こえた理由。それがエリちゃんの記憶と結びついていた理由。


 それは、あのとき何かの拍子でペンダントから流れ出した、きらきらぼしの歌のせいだったのだ。


「それから、どうしたの?」


 エリちゃんの声に導かれるように、わたしは思い出を追う。


 わたしが全速力で走っている間、きらきらぼしの歌は流れ続けていた。けれど、その旋律はわたしが家に帰り着くころには止まってしまっていた。


 だからわたしはペンダントの秘密に気づかぬまま、それを玩具箱の奥にしまい込んだ。


 あのあばら家も、エリちゃんの白い顔も、男の人の恐ろしい顔も、見てしまったものすべてを封印し、何もかも記憶から消し去ろうとするように。そして、何を聞かれても知らぬ存ぜぬを決め込んだ。


「リョウコちゃんが行っちゃったあと……」


 歌うように、けれどどこか寂しげにエリちゃんは言った。


「あのあと、すぐには殺されなかったんだよ、あたし」


 リョウコちゃんはあたしに気づいてくれた。だから助けに来てくれるって信じて、ずっと待ってた。それなのに。


「誰にも知らせないどころか、あたしのペンダントまで盗んで。一言でよかったのに。あのときリョウコちゃんが、たった一言でも誰かに知らせてくれれば、あたしは殺されずに済んだかもしれないのに」


 わたしは言葉もなく黙り込んだ。


 あのとき、わたしは何を考えていたんだろう。生気の無いエリちゃんの目から視線を逸らすこともできず、わたしは過去の記憶を辿った。


 すると、エリちゃんとは対照的なボロ服を身にまとい、くしゃくしゃの髪をした、幼いわたしの小さな後ろ姿が目に浮かんだ。寂しそうな後ろ姿だった。


 その後ろ姿は言っていた。わたしは何にも見てないふりをしていただけで、けど全部を知ってたんだ。


 欲しいものをすぐにくすねちゃう自分の癖も、そのせいで友達はみんな離れていっちゃったことも、わたしのせいでお母さんが近所を謝って回っていることも。


 だからなんだよ。だから、わたしはエリちゃんのことを誰にも言えなかったんだよ。また人の物を盗んだことを知られるのが嫌で、お母さんたちを失望させるのが嫌で、だから何も言わずに、全部自分の中に隠したんだよ。何もかも、見たくないものすべてから、目を逸らしてしまったんだよ――




 いつの間にかわたしは泣きじゃくっていた。


 幼い子供に戻ってしまったかのように、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔を汚して、声を上げて、咽んでいた。長い時間が過ぎた。


 そんなわたしを、エリちゃんはしばらくじっと見つめていた。それから、小さく言った。


「……ねえ、言ってよ」


 見上げたエリちゃんの瞳には、ひとすじの光も宿っていなかった。


「ねえ、言って」

「……何を?」


 その言葉の意味がわからず、のろのろとわたしは聞き返す。


「何を、って?」


 すると、可笑しそうにエリちゃんは微笑んだ。


「もう、しっかりしてよ。覚えてないの? あたしたち、かくれんぼしてたんじゃない。ほら、リョウコちゃんが鬼で、あたしが隠れて」


 あのときリョウコちゃんはあたしに気づいたのに。


「それなのに、あのとき言ってくれなかったでしょ。だから、言ってよ」


 隠れてる子を見つけたら、鬼が言わなきゃいけない言葉があるでしょ。ねえ、ほら。いまさらだなんて思わないで。いま、ちゃんと言ってちょうだい。


「ねえ、言って」

「……みいつけた」


 ごくり、と喉が鳴った。みいつけた、わたしはその言葉を強く繰り返した。


 かくれんぼはまだ終わっていなかったんだ――わたしは呪文のようにその言葉を何度も何度も繰り返す。エリちゃんとわたしのかくれんぼは、まだ終わってなかった。だから、エリちゃんは再びわたしの前に現れたのだ。


 それなら、きっとこれが終わりだ――わたしは必死でその言葉を重ねた。これが、わたしたちのかくれんぼを終わらせる言葉なのだ。これで、すべてが、全部終わるんだ。


 そしてわたしの思った通りに、何度目かのその言葉を唱えた瞬間、すうっと何かが体を駆け抜ける感覚がした。




 気がつくと、目の前からエリちゃんは消えていた。


 わたしは元通り、ペンダントを手に床に座り込んでいて、あの旋律の聞こえなくなった部屋はしんと静まりかえっていた。


 わたしはほっと息をついた。エリちゃんはいなくなった。ペンダントの正体も分かった。これからはもう、あの奇妙な旋律と映像に悩まされることもないだろう。それから美桜のことにだって――。


 わたしは美桜を振り向いた。ちゃんともう一度話をしなくてはいけない。これまでの過去こと、それから、これからの未来こと。


「美桜……」


 けれど思い切って振り向いたわたしの目に、ベッドに座っていたはずの娘は映らなかった。


「……美桜? どこに行ったの?」


 一瞬のち、わたしは慌てて部屋を飛び出し、リビングを見る。いない。トイレの明かりも消えている。寝室にも――そして、玄関。すると――。


 そこにあるはずの靴がない。水に打たれたような、冷たい感覚が背中を走った。予感が鋭く心臓を貫いた。


 まさか、そんなはずはない。わたしはサンダルを突っかけ、玄関に手を掛けた。かくれんぼは終わったはずだ。美桜はどこへも行くはずがない。


「今度は、リョウコちゃんが隠れる番だよ」


 そのとき、どこからか楽しげなエリちゃんの声が聞こえた。


「心配しなくても大丈夫だよ。あたしがすぐに見つけてあげるからね」

「美桜!」


 嘘だ。呼吸も忘れて、わたしはドアを押し開ける。しかし、周りを見渡す限り、美桜の姿はどこにもない。


「じゃ、十まで数えるからね」


 あどけない声は続く。無邪気な遊びは再び始まる。エリちゃんと、それから幼いわたしにそっくりの、美桜の二人で。


 やめて、その子はわたしじゃない――。


 叫んだつもりが、声にならなかった。公園だ。再び得た予感に、わたしはサンダル履きのまま、その場所へ向かって一目散に走り出した。いーち、にーい、さーん、よーん――もういいかい。


 あのときと少しも変わらない、エリちゃんの声が数を数える。


 ――まぁだだよ。


 幼いわたしにそっくりな声で、美桜が答える。まるで友達と遊んでいるかのように楽しげに、奔放に。


 だめ、隠れちゃだめ、ママのところへ戻ってきてちょうだい。


 わたしは叫ぶ。けれど、遊戯は時を待たない。しーち、はーち、きゅーう、じゅう――。


 遠くまで響くエリちゃんの声は、あの日のわたしの声にも重なっていく。


 ペンダントは返すから、盗んだことも謝るから。お願い、美桜を連れていかないで。


 公園はすぐそこだ。もつれる足を懸命に動かして、わたしは走った。お願い、間に合って――。


 もういいかい。


 エリちゃんの大きな声。


 美桜、だめよ――しかし、必死になって走るわたしの耳に、無情にも娘の答えが響き渡った。


 ――もういいよ。


 娘の答えと、わたしが公園に滑り込んだのはほとんど同時だったと思う。


 しかし、息を切らせ、駆け込んだそこには誰の姿も見当たらなかった。あたりは静まりかえっていて、わたしに答える声は聞こえない。握りしめた手の中からは、いつの間にかきらきらぼしの歌が流れ出している。


 あの日と同じように、血を塗ったように真っ赤な夕日が落ちていく。オルゴールの音色は低く、重く、ゆっくりとゆっくりと途絶え――あとには何も聞こえない。


 わたしは途方に暮れ、そのまま地べたに座り込んだ。長い影が少しずつ闇に溶けていく。これから起こるであろう、すべてを知っているわたしの前で。


 夕日が沈む、一番星が光る、隠れたあの子は見つからない。


 もういいかい、まぁだだよ。もういいかい、もういいよ――


【まあだだよ――完】

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ホラー短編集 いぬのかお 黒澤伊織 @yamanoneko

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