まあだだよ(4/5)

 それからしばらくは平穏な日々が続いた。


 お迎えが必要な期間が過ぎたため、あの母親たちとも顔を合わせることはなかったし、美桜も新しい環境でうまくやっている――そう思ってわたしは安心していた。


 けれど、それが大きな思い違いだったことに気づいたのは、五月に入って行われた授業参観でのことだった。


 授業が終わり、教室はざわめいていた。美桜が帰り支度をする間、手持ち無沙汰だったわたしは、誰か知り合いはいないかと周りを見回し、楽しげに話をしている佳菜絵ちゃんママたちのグループを見つけた。


「こんにちは、お久しぶりです」


 しかし、声を掛けたわたしに、母親たちの反応はよそよそしかった。


 おざなりに振り向いたその顔は明らかな作り笑顔で、それもすぐにこちらに背を向け、元の話題に戻っていく。


「あの、今日はまた公園に行くんですか?」


 どうしたんだろう――不安になりながらも、努めて笑顔で聞いたわたしに、母親たちは顔を見合わせた。


「うちは習い事始めて忙しくって……」

「実は、うちも……」

「そうなんですか。何を始められたんですか?」


 そう聞くと、なぜか母親たちはまた揃って顔を見合わせ、困ったような笑みを浮かべる。そして、


「美桜ちゃんも、何か始めてみたらいかがですか? こういうのは早くに始めたほうが……」


 そう言い残すと、子供を連れ、さっさと廊下へ出て行ってしまう。


 呆気にとられてからふと隣を見ると、暗い顔をした美桜が、友達に手を振ることなく、俯いている。


 またこの子はやったんだ――。


 わたしは絶望して、思わず美桜に強く聞いた。


「美桜、何をしたの?」

「……何も」

「何もしないわけないでしょう。いままで仲良くしてくれてたのに、あんな…」


 あんなふうに態度を変えられるなんて、普通だったらあり得ないことだ。ただ一つ、美桜の、この子の悪い癖がまた現れたという可能性を除いては――。


「ママ、怒らないから」


 けれど、美桜は口をへの字に曲げて、さっさと下駄箱へ向かい、帰り道を歩き出した。


「美桜」


 今度は何を盗んだの――詰問したい気持ちを必死で抑えて、わたしはその小さい背中を追いかける。


 けれど、美桜は答えない。それどころか、わたしの何度目かの呼び声にやおら立ち止まると、わけのわからないことを言って、こちらを睨みつけた。


「ママは何もわかってくれない! おばあちゃんなら、おばあちゃんなら絶対にわかってくれるのに!」

「何言ってるの? いま、おばあちゃんのことは関係ないでしょ!」


 母を引き合いに出され、わたしもつい感情的に言った。


 しかしわたしの言葉に応えることもなく、再び美桜はどんどんと先を行き、家に着くなり無言で自分の部屋に閉じこもってしまった。


 どうしてこんな子になってしまったのだろう。


 何もかも拒絶するように閉じられたドアの前で、わたしは唖然と立ち尽くした。この子はわたしとそっくりな顔をしているというのに、中身は真逆だ。


 まるで生まれたときに、他の邪悪な何かと魂が入れ違ってしまったみたいに。


 どうして――思い詰めるわたしの口はへの字に曲がっていたと思う。こみ上げた涙が、じわりと視界をにじませた。


 美桜のためといえども、また引っ越しをする気力も、お金も、もううちにはなかった。


 いや、また引っ越したいだなんて、そんなことを夫に切り出したらどうなることか。もしかしたら、夫はわたしたちを見限り、最悪の場合、離婚すると言い出すかもしれない。


 そして、そんなことになってしまったら美桜の精神状態は、もう二度と落ち着くことがなくなってしまうかもしれない。


 もっとちゃんと美桜と話をしなくちゃ、今度こそわかってもらわなくちゃ――ぼんやりと部屋の前で立っていたわたしが、やっと自分を奮い立たせたときだった。タイミング悪く、リビングで電話が鳴った。


「もしもし」


 大急ぎで涙を拭って答える。すると、あろうことか、いま一番聞きたくない声が耳に飛び込んできた。


「もしもし、涼子?」


 母だ。わたしは受話器を握り直す。


「何度か電話したんだけど――小学校へ上がってから、美桜ちゃんがどうしてるかなと思って。どう? 新しいお友達と仲良くできてるみたい?」

「うん……大丈夫みたい」


 おばあちゃんならわかってくれる――美桜の声が耳奥にこびりついている。


 わたしは母に嘘をついた。すると、電話の向こうから、わたしに当てつけるようなため息が聞こえた。


「ならいいけど……あんたの都合で何回も引っ越しなんかするもんだから。心配してたんだよ」


 わたしの都合なんかじゃない、そう言いかけて口を閉じた。母に美桜の盗癖のことは言っていない。言えば、母のことだ。それもわたしのせいだとか難癖をつけ、美桜の味方をするに違いない。


「それだけ? だったらちょっといま――」

「ああ。ちょっと話があってね」


 陰気な母の声が、ますます憂鬱さを増す。


 いまは母の話に付き合ってるときじゃないのに。苛々とわたしは思う。けれど、次の瞬間、母の無遠慮な声が驚くようなことを告げた。


「今日エリちゃんのご両親がうちに見えてね」

「エリちゃんの……?」


 心臓がびくりと飛び跳ねた。


 どうしていまさら? そんな思いが胸をよぎる。だって、エリちゃんが消えたのは二十何年も前のことだっていうのに――。


「あんた、ニュース見なかった? 白骨死体のニュース。何でも、先月家を取り壊した場所があってさ」


 母は隣町の名を告げた。


「そこの床下から骨が出てきて。……あれ、エリちゃんだったんだってさ」

「そう、なんだ……」


 私はかろうじて母に答えた。


 そのニュースとやらをわたしは見ていない。しかし――わたしはここ最近自分の身に起こった不思議な出来事が、ようやく理解できたような気がして深く頷いた。


 虫の知らせ、とはこういうことを言うのだろうか。この頃、頭を離れなかったエリちゃんの記憶、それは彼女の骨が見つかったということの、わたしへの知らせのようなものだったのかもしれない。


 わたしの思いをよそに、電話口の母は珍しく饒舌だった。エリちゃんを殺して埋めたのはその家に住んでいた男だったのだとか、彼女はいなくなったあの日に殺されていたらしいとか、その犯人の男が最近亡くなり、それで家が取り壊されることになったのだとか――そんな陰惨な話を続けている。


 しかし、そんな悲劇を聞いているのにもかかわらず、わたしの胸はほっと安堵に包まれていた。よかった、エリちゃんが見つかって本当によかった――。


「それじゃ、エリちゃんのご両親は、わざわざそのことを報告に来てくれたってこと? あのあと、どこだっけ? 遠くに引っ越したような気がしてたけど……」

「ああ、そのことだけどね」


 流暢にしゃべり続けていた母の言葉が、突然歯に物が挟まったように途切れる。


「何よ」


 わたしが促すと、母は渋々続けた。


「……あんた、覚えてる? エリちゃんが、いつも首から大きなペンダント下げてたの」

「うん、覚えてるけど……」


 なぜだろう、胸騒ぎがした。体の芯の部分が、ざわりと揺れ、その振動に細かく全身が揺さぶられる。


「その、発見現場ね、骨と一緒にその、遺品は見つからなかったらしいんだよ」

「……そう。それで?」


 その先は聞きたくない、そんな気持ちがわき上がる。けれど、そんなことはおくびにも出さずに、強気を装ってわたしは尋ねる。


「あのね」


 すると、母は改まったような声を出した。


「あんたには可哀相なことをしたと思ってる。うちは貧乏だったから、だから玩具も洋服も何も買ってやれなくって……外でぼろぼろの服着てるあんたを見る度、私も申し訳ない気持ちでいっぱいだった。特にうちの周りはお金持ちの子ばっかりで、みんな綺麗な洋服着てたし、本当に余計に可哀相で……。だからあんたがあんなことしてたのも、親のせいだと思ってるんだよ」

「……何の話?」


 なぜだか、体の振動が激しくなった。


 どうしてかわからないのに、それなのに持っている受話器を取り落としてしまいそうなほど、わたしの震えは止まらない。


 母の声は続いた。


「でもね、あのペンダントは、エリちゃんのお気に入りで……だからどうしても一緒にお墓に入れてあげたいんだって。それでね、だからエリちゃんのご両親はうちに、その――うちにそのペンダントがあったら、返して欲しいって……」

「どういうこと? どうしてうちにそんなものがあるだなんて言うのよ!」


 知らず、わたしは激高していた。ペンダントを返して欲しい、だって? それじゃあ、まるで――


「それじゃまるで、わたしが盗んだみたいじゃない!」

「いまさら何言ってるの! うちの近所であんたの手ぐせを知らない子はいないよ!」


 悲鳴を上げるように、母は叫んだ。その胸が張り裂けそうな声にわたしは一瞬ひるむ。母はその隙につけ込むように続けた。


「親が知らないとでも思ったのかい? 馬鹿な子だよ。あんたは、そこらの家から目に付いたものは何でもかんでも盗んできて――だからあんたと遊んでくれる子なんて誰もいなかったじゃないか」

「そんなこと、わたし――」


 物を盗んだ? わたしが? ひきつけを起こしそうになりながら、息も絶え絶えにわたしは言った。


「そんな、人の物を盗むなんて、わたし――」



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



「そんなの、絶対に――」

「馬鹿を言うんじゃないよ。あんたの盗んできた先々に、親はぺこぺこ頭下げて回ってたんだ。けどそんなときエリちゃんのことがあって、子供なりにショックだったんだろうけど、それからピタリと治まったもんだから……でもちっとも治っちゃいなかったんだね! また問題を起こして、近所に知れたら引っ越して、美桜ちゃんにも辛い思いさせて――」



 きらきらひかる、おそらのほしよ きらきらひかる、おそらのほしよ きらきらひかる、おそらのほしよ――



 違う、盗んだのは美桜でわたしじゃない――叫ぼうとしたそのとき、わたしは流れるその旋律に気がついた。


「美桜ちゃんが可哀相だと思わないの?」


 受話器の中から母が喚く。わたしはやっと自分を取り戻し、やるせなく息をついた。


 母はいつもこうなのだ。わたしを悪者にして、美桜の味方をして。聞くに値しない戯言を喚くだけ。そんな人の相手なんかしている暇はないっていうのに。


「ちょっと黙ってくれる?」


 わたしはうるさい受話器から耳を離し、流れる旋律を辿った。



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 聞こえる。どこからかはわからないけれど、確かに、こんなにはっきりと。今度こそ、空耳なんかじゃない。


「ちょっと聞いてるの? 涼子?」


 電話口でまだ母は騒いでいる。わたしはその声を無視すると、音を逃さぬよう、息を潜め、聞こえてくるほうへゆっくりと進んだ。



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 どこから? どこからこの音色は聞こえるの? 


 わたしはリビングを出て、廊下を突き当たる。玄関? いや、どこかの部屋の中だ。わたしは目を閉じ、音に集中して――。



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 ここだ。


 わたしはあるドアの前で立ち止まる。MIO、目を開けると、そこには可愛らしいピンクのプレートがかかっている。そこは美桜の部屋のドアだった。


 わたしはほっと胸をなで下ろした。母はわたしを悪者にしようとしたけれど、それはやっぱり間違っていた。やっぱり悪いことの原因は美桜だった。わたしじゃなくて、美桜だったのだ。


 そうっと音のしないように扉を開けると、遮るもののなくなった音は大きくなった。部屋の中では、ベッドに腰掛けた美桜が何かを手のひらに乗せ、ぼうっと俯いている。


 刹那、わたしはあっと息をのんだ。あれは、エリちゃんのペンダントだ。わたしが盗んだと母が言った、あのペンダントだ。


 美桜はわたしに気づくと、はっとそれを背に隠した。


「美桜、それ……」


 ぐらり、と頭が揺れた。どうして美桜の手にそれがあるのか、その理由は明白だ。


「おばあちゃんちで見つけたの。持ってっていいって言われたから……」


 口を曲げて美桜はわたしを見上げる。わたしは大きく深呼吸をすると、できるだけ感情を抑え、言った。


「やっぱり、美桜が盗ったのね」

「何言ってるの、ママ?」


 きらきらぼしの歌が止まる。美桜はおそるおそるそれをわたしに見せると、ちょっと見ただけではわからないような、横の小さな螺子をゆっくりと巻いて、放す。すると、再びあの旋律がペンダントから流れ出した。


「それ、オルゴールになってるの……?」


 エリちゃんに教えてもらいそびれた、ペンダントの秘密。それはこのオルゴールのことだったのだ。


 こんなに小さな、しかも素敵なオルゴールなど、わたしは見たことがない。エリちゃんが身につけていたものと同様、これもきっと高価なものなのだろう。


 けれど――わたしはそこで首をかしげた。どうして美桜はそんなことを知っているのだろう。


「美桜」


 わたしはできるだけ優しく言った。


「いつのまにエリちゃんから盗んだの? だめよ、これは大事な物なんだから、返さないと」

「何言ってるの、ママ」


 美桜の目が潤んだ。


「エリちゃんはママの昔のお友達でしょ。ミオに盗めるわけないじゃん」

「本当に困った子ね」


 どこまでも他人のせいにしようとする我が子に、わたしは呆れた。


「保育園の時だって、学校でだって、他人の物を盗んで、だからママもパパもいろんな人に謝って、引っ越しまでして……誰のせいだと思ってるの?」


 すると、あろうことか美桜は叫んだ。母そっくりに、わたしだけを悪者にするように。


「ミオは何も盗んでなんかないよ! 盗んだのは、全部ママじゃない! ママが盗んで、だけどミオのせいにしたんじゃん!」

「……ママになんて口聞くの?」


 わたしがショックで動けないでいると、美桜はどこからかわたしのバッグを持ち出し、その中身を床にぶちまけた。


「何するの!」

「ほら、これだって! これ、ママのじゃないよね、今日の授業参観で、また誰かから盗んだんでしょ? ミオ、知ってるんだから!」


 見覚えのない万年筆が、ポーチが、口紅が、床の上に散乱している。我を忘れて、わたしはそれらをかき集める。


 美桜は、不格好に床に這いつくばるわたしに、なおも言った。


「佳菜絵ちゃんのママ、気づいてるよ。だって佳菜絵ちゃんに言ってたもん、ミオと遊んじゃだめって。ミオのママは泥棒だからって。ミオの友達、みんなママのせいでいなくなっちゃうんだよ! このペンダントだって、どうせママがエリちゃんから盗んだんでしょ!」

「わたしは何も盗んでない!」


 聞いたことのないような、ひび割れた声が口から飛び出した。からからに干からびたような、恐ろしいほどに醜い声。何これ、これってわたしの声?


「ママが盗むわけないじゃないの」

「嘘だよ!」


 泣きはらした目で美桜が睨んでいる。


 どうして我が子にこんな目をされなくちゃならないんだろう。恨まれることなんて、何一つしてないのに。それなのに、美桜は――。


「だって嘘だって、言ってるもん!」

「言ってるって、誰が?」


 ペンダントからは、まだきらきらぼしの歌が流れ続けている。いーち、にーい、さーん、よーん――子供の声が数を数える。もういいかい、まぁだだよ。


 目の前の美桜が、わたしそっくりに口をへの字に曲げたまま、ゆっくりと指を上げる。突きつけるような人差し指が、真っ直ぐにわたしの後ろを指す。しーち、はーち、きゅーう、じゅう。もういいかい――


「もういいよ」


 声に振り向くと、エリちゃんがいた。

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