まあだだよ(3/5)

 次の日のお迎えの時間。わたしは素知らぬふりで、普段通りに母親たちの輪に加わり、そっと佳菜絵ちゃんママを観察した。


 いつもと同じ、お洒落な洋服に身を包んだ彼女に、特別変わった様子は見られない。


 バッグだけは昨日と違い、別のブランドのバッグを提げてはいるが、しかしそれも服のコーディネートに合わせたのか、それともあのチャームがなくなったからなのかはわからなかった。


「お迎えに来るのも、今日で終わりね」


 寂しいけど、楽になるわ、そう言って笑い会う母親に、わたしも内心の憂鬱を隠して笑顔を作った。


「最後だから、きょうも公園で遊ぼうか」


 希海ちゃんママがそう言うと、子供たちは歓声を上げ、我先にと公園の中に駆け込んでいく。


「今日は何して遊ぶ?」

「うんとね、鬼ごっこして、それからかくれんぼ!」


 今日は思い切り遊ばせてあげよう――。


 かくれんぼ、その言葉が出るまではそう決めていたはずだった。


 けれど、実際その場面になると、わたしはやはり、どうしてもここから逃げ出したいという衝動に駆られていた。


「……ママ?」


 美桜が不安げにわたしの顔色を窺う。


「美桜――」


 遊んできていいよ、そう言いたい。言ってあげたい。そう言ってあげたいのは山々だ。


 けれど――自分でもどうしようもなく、わたしの口から出たのはその真逆の言葉だった。


「今日もちょっと用事があるのよ。ごめんね」

「あら、それは残念ね」


 佳菜絵ちゃんママが本当に残念そうな顔をして、美桜とわたしを交互に見る。


 その後ろで希海ちゃんママが、他の母親たちと意味ありげな目線を交したような気がする。


「ごめんなさい」


 わたしはもう一度そう言うと、美桜を促してやはり逃げるように公園を出る。


「ママ……」


 美桜が悲しそうな顔をしている。遊ばせてあげようと一旦は決意したのに――わたしも泣き出しそうになりながら逃げ帰り、無言で玄関のドアを開けた。


 すると、玄関の鏡に口をへの字に曲げたわたしと美桜が映った。同じ顔、同じ表情。幼いわたしそっくりの顔をした、大切なわたしの娘。


 このままじゃいけない、ちゃんと話さなくちゃ。


 わたしは決心すると、リビングにおやつのクッキーを出し、美桜と向かい合った。


「――どうしてかくれんぼがだめなのか、ママ、美桜に言ってなかったよね」


 何の話が始まるのかと怯えていた美桜が、少しほっとしたように頷く。熱い紅茶を一口含み、覚悟を決めるとわたしは話し始めた。


「あのね、ママ、小さい頃――美桜と同じ年の頃に、仲良しのお友達がいたの。……エリちゃんっていう子」


 エリちゃん、そう声に出すのは久しぶりだった。その言葉からあふれ出した感情に、思わずつっかえそうになりながら、わたしは続けた。


「エリちゃんはとっても可愛くて、家もお金持ちで……そうね、服にはいつもレースのひらひらがついてて、髪はお人形さんみたいに長くて、それから胸にはペンダントを下げててね……」

「……ペンダント?」


 小さくクッキーをかじり、美桜が聞き返す。


「うん。ネックレスの鎖の先に、大ぶりの飾りがついたやつでね」


 わたしは、親指と人差し指で輪っかをつくってみせる。自分から尋ねたくせに、ふうん、と美桜は目を逸らす。気を取り直し、わたしは続ける。


「裏にはエリちゃんの名前が彫ってあってね、それで――」


 ――このペンダントには秘密があるんだ。


「どうしたの、ママ?」


 ふいに言葉を切ったわたしを、美桜が見つめる。わたしは不意にずきり、と痛んだこめかみを押さえた。


「ううん、いま急に思い出したんだけど。……そのペンダントにね、秘密があるってエリちゃんが言ってたことを思い出して」


 リョウコちゃんにもそのうち教えてあげるね――エリちゃんはそう言った。その約束は叶わなかったのだけれど。


「……それで?」

「ああ、それでね」


 どこまで話したんだっけ、思いを巡らせてから、わたしは口を開く。


「ママとエリちゃんはいつも二人で遊んでたの」


 あのころ、わたしには友達がいなかった。保育園でも、近所でもひとりぼっちで、遊んでくれる子なんて誰もいなかった。その理由を思い返して、わたしは苦い気持ちになる。


 わたしの家は貧乏だった。


 貧乏で、玩具や、駄菓子や、欲しいものなんて一度も買ってもらったことがないほどに。わたしはいつも古びたぼろぼろの服を着て、破けた靴をはいていた。


 けれど、それだけならば、まだよかった。


 欲しいものが買ってもらえなくたって、例えば、近所の子たちも似たり寄ったりの貧乏な家――貧乏とまではいかなくても、普通の家だったなら、わたしも自分の家の事情をそれなりに理解し、過ごすことができたかもしれない。


 けれど悪いことに、わたしの家は高級住宅地の只中にあった。


 もとはと言えば、貧乏長屋が連なったような下町が整備され、高級住宅地として売り出されたような土地だった。


 だから、わたしたちの家は元からそこにあったのだけれど、他の家々が立ち退いた結果、うちだけがそこに取り残されたというわけだった。


 そのとき、立ち退いた他の家と一緒にうちの土地も売ってしまえばいいお金になったのに、といまなら思う。


 更地にしてお金持ちの家が建ってしまえば、貧乏な家が建っていたことなど誰もが忘れてしまう。そうして、わたしたちは土地を売ったお金で、アパートやマンションを借りて、それなりに暮らせばよかったのだ。


 けれど、母はそんな選択をしなかった。


 当時子供だったわたしは、なぜ、と聞いたことはない。けれど、それがなぜなのか、いまならわかるような気がする。


 わたしが思うに、きっと母は住所を高級住宅地に置きたかっただけなのだ。そして、知り合いや友達に、いいところに住んでいると思われたかったのだろう。


 当然、実際に訪ねられれば、あばら家だってことなんか一発でばれてしまう。浅はかな考えだ。けれど、母はそんなことなど少しも考えもしない人だった。


 とにかく、そんな事情で周りから疎外されていたわたしたちだったが、エリちゃんの家は引っ越してきたばかりで、近所の事情にも疎かったのだろう。


 それに、見るからに品の良さそうなエリちゃんの両親は、本音こそ分からないけれど、あの子は貧乏だから遊んではダメ、だなんて、決して口に出しては言わない人だった。だから、わたしとエリちゃんは仲良くなったのだ。


「ママたちのお気に入りの遊びは、かくれんぼでね。近くの公園で、二人っきりで……」


 どうしてなのか、まるでその結末を知っているかのような目で、美桜がわたしを見つめている。


 その視線に射貫かれたまま、わたしは苦いものを吐き出すように言った。


「でも、エリちゃんはいなくなったの。かくれんぼをしていて、そのままいなくなっちゃったの」


 美桜はまだわたしを見つめている。わたしはなぜかいたたまれなくなり、娘からそっと視線を外した。


 その日のこと――エリちゃんがいなくなった日のことを、わたしはあまりよく覚えていなかった。


 けれど、ただ一つ覚えていること、それはいつものようにわたしたちはかくれんぼをして遊んでいた、ということだ。


 わたしたちは交代で鬼をして、それから何度目かのことだった。


 もう日も暮れかけて、これが最後の一回というとき。わたしが鬼で、隠れるのはエリちゃん。わたしは数を数え、エリちゃんは隠れた。もういいかい、まぁだだよ。もういいかい、もういいよ――


 その声を最後に、エリちゃんは消えた。


 思えばそのころ、わたしたちのかくれんぼは、小学生にしてはひどく広範囲にわたっていた。


 だから、わたしも公園を出て探しに探した。子供の足には遠く――隣町さえ探したかもしれない。


 けれど、それでもエリちゃんは見つからなかった。そして日も暮れ、ようやく異変に気づいたエリちゃんのお母さんが警察に連絡をして、その夜には捜索隊が結成された――。


「だから、ママはミオにかくれんぼしちゃだめって言うの? その子みたいに…エリちゃんみたいになってほしくないから?」

「ええ、そうよ」


 気持ちを込めてわたしは伝えた。美桜が大事だから、いなくなるなんて、そんなこと考えられないから、だからママはかくれんぼをして欲しくないのよ。


 けれど、そんなわたしの思いをよそに、美桜は不思議そうに首をかしげた。


「でも、どうして見つけてあげなかったの?」

「どうしてって……」


 どういう意味? わたしが眉を寄せると、美桜はおかしなほど必死になって言った。


「だって、かくれんぼは、鬼になった子が隠れた子を見つけてあげなくちゃいけないんでしょ? だから、ママがエリちゃんを見つけてあげなきゃ」

「そうだけど……警察が探しても見つからなかったのよ。ママに見つけられるはずがないわ」

「そうじゃなくて……」


 大きな瞳がわたしにはわからない感情を湛えて瞬かれる。


 この子は何を考えているのだろうか。美桜の言っていることがわからず、わたしは広い砂漠に放り出されたような気分になった。


「だから、美桜もお友達を大事にしなきゃ。今度は引っ越ししなくても済むように」


 何のためにこの話を始めたのか、それを確認するようにわたしは早口になった。


 けれど、話がわかったのかわからないのか、美桜は口を曲げてこちらを見返すばかりだ。


 わたしはなぜか恐ろしいような気持ちになって、美桜から目を逸らした。目の前にいる娘が、いつもとは違う――いや、まるで赤の他人のように感じられた。


 ママ、あなたがネコのチャームを盗んだことも知ってるんだからね――いまわたしが美桜にそう言ったとしても、この子は平気な顔で、だから何なの、とでも答えるんじゃないか、そんな気さえした。


 気づけば西日が窓から差している。


 わたしは、口をつけることを忘れていた紅茶のカップを持ち上げ、一口啜った。


 熱かったはずの液体は、もうすでに冷え切り、あとに嫌な渋みを残した。

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