まあだだよ(2/5)

 やはり、これはあのブランドバッグについていたもの――佳菜絵ちゃんママのものに違いない。


 夜、美桜が隣の部屋で寝静まってから、わたしは寝室の鏡台に隠しておいたそれを取り出し、何度も苦しい息を吐いた。


 きらきらとまばゆく光を反射するチャームは、見るからに高級そうな代物だった。


 価値を調べようとネットを開くと、どうやらそれは高級ブランドの限定品だったらしく、値段はどこにも記載されていない。わたしは悩ましくそれを見つめ、一問一答を繰り返した。


 佳菜絵ちゃんママは、チャームをなくしたことに気づくだろうか――もちろん気づくに決まってる。


 だとしたら、どこでなくしたと考えるだろう――もちろん、公園で美桜がバッグに突っ込むように転んだあのときだ。


 初めて佳菜絵ちゃんママに会ったときから、このチャームはバッグに揺れていた。いままで落としたことのないものをなくすなど、考えにくいことだろう。


 角度を変える度、色を変えるガラスを眺めながら、わたしはぼんやりと思いに耽った。


 実は、美桜の盗癖はいまに始まったことではなかった。


 どうしてなのかと問われても、きっかけは何だったのかと責められても、わたしには何もわからない。


 けれど、美桜は保育園に入ったころから、他人の物を盗むことを繰り返し始めた。


 最初はキーボルダーのような小さなものから、次第に親子でお邪魔したお友達の家の、貴金属の類まで。そして、美桜の盗みが発覚する度にわたしは頭を下げ、謝り倒さなければならなかった。


 それでも、まだ三歳くらいの美桜が幼い頃は良かった。まだ自分のものと他人の物の区別が付かないで、欲しいと思ったものを何も考えずに持ってきてしまうんです――そんな言い訳も通ったからだ。


 しかし、それも年を重ねるごとに通らなくなった。そして、当然の結果としてわたしたちは疎まれ、孤立した。


 終いには、わたしは夫に相談して最初の決断をした。つまり、住んでいた町から引っ越し、新しい、美桜の癖を誰も知らない場所でやり直そう、という決断だ。


 加えて、引っ越しと同時に、わたしは美桜のために、夫にも協力を仰いだ。


 その頃、夫は出張や外泊で家に帰らないことが多かった。


 月の半分は家を空ける夫に、妻であるわたしは薄々女の影を感じてはいたのだが、最終的に家族の元に戻ってきてくれればいいと、夫を責めることはしていなかった。


 けれど、子供は両親の挙動に敏感だと聞く。だからもしかしたら、そんな夫の行動が美桜に悪影響を与えているのではないかと推測したのだ。


 おずおずとそう申し出たわたしに、夫はそうか、と顔も上げずに言った。しかし、わたしには素っ気ない態度の夫も、美桜のこととなると協力的だった。


 夫は毎日家に帰るようになった。休日は家族で過ごし、動物園や水族館、いろんな場所に遊びに行った。


 夜中に不自然に鳴る携帯で、女と切れていないことはわかってはいたが、とにもかくにも、美桜が落ち着いたことで、わたしは満足だった。


 しかし、久しぶりに夫が一晩中帰らなかった次の日、美桜の悪癖は再び現れた。


 どうしてこんなことになるんだ――保育園へ呼び出され、関係者に散々謝った夜、夫はわたしに向かって声を荒げた。


 欲しいものは何でも買ってやってる、家にだって帰ってる、それなのに、どうして美桜はこんなことをするんだ? オレに嫌がらせでもしてるのか?


 そうじゃないわよ、わたしは必死で夫をなだめた。ここで夫が出て行けば、また美桜の状態は悪くなる。それだけは避けたい、その一心だった。一通り怒鳴れば、夫も黙るだろう――わたしは頭を下げ、嵐が通り過ぎるのを待った。


 しかし、夫はやめなかった。それどころか、美桜がおかしくなったのはお前のせいだ――そう言って、わたしを責めた。


 お前の育て方が悪かったんだ、お前がちゃんと美桜のことを見ていないからだ、それからあまつさえ、他人の物を盗んでまで親の気を引きたいだなんて、嫉妬深いお前の性格が遺伝したからに違いない、とまで言った。


 けれど、夫が怒るのも無理はなかった。


 夫の稼ぎが悪いから子供が盗みをするんだ、近所の人はそう噂したし、夫が必死になって働き、貯めた金は、度重なる引っ越しで消えていく。加えて、何度も引っ越せば、同僚たちにも不審な目で見られるだろう。


 けれど、それでもわたしたちに選択の余地はなかった。美桜のことが近所中の噂になるたび、わたしたち家族は引っ越しを繰り返し、新天地を求めた。


 そして、今回で五回目の引っ越しである。美桜も小学校へ上がることだし、今度こそ――そう思っていただけに、失望は深い。


 やはりあのとき、無理矢理公園から引き上げたのが悪かったのだろうか――わたしは後悔のため息をついた。


 あのまま遊ばせてやっていれば、美桜が佳菜絵ちゃんママに近づくこともなかったはずなのだ。ため息は吐く度重くなる。そのため息が部屋中に満ち、溺れそうになった頃、わたしはどこからかあの旋律が聞こえてくることに気がついた。



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 きらきらぼしの歌だ。


 びくり、と身体が震え、わたしは手のチャームを落とした。いつもと同じ旋律、同じ音色の、きらきらぼしの歌を、床に響いた強い音が一瞬遮った。


 空耳だろうか。一人きりの寝室でわたしは怯え――けれど、すぐに思い直した。いや、これは空耳なんかではない、確かにどこかから聞こえてくる音だ。


 でも、一体どこから?


 わたしは息を殺し、身動き一つせずにじっと耳を澄ませた。


 もう日付も変わった夜の一時だ。隣の部屋の美桜も熟睡しているのだろう、しんとした空気が張り詰めている。この静かな闇の中には、微かな音さえ隠れることはできないはずだ。しかし――わたしは息を吐いた。


 何も聞こえない。確かに聞こえたはずなのに。わたしは頭を抱えた。


 こんなにはっきりと、何度も空耳を聞くだなんて、わたしはどうしてしまったんだろう。美桜のストレスで思い詰め、精神がどうにかなってしまったのだろうか。


 わたしは憂鬱に身を屈め、落としてしまったチャームを探した。


「あ……」


 強く床に落としてしまったせいだろうか。見つけたネコのガラスの部分に、すぐにそれを分かるひびが入っている。どうしよう、うろたえていると、玄関ドアの開く音が聞こえた。


 夫だ。


 わたしはチャームを鏡台の引き出しに投げ込むと、慌てて寝室の明かりを消し、急いでベッドに潜り込んだ。


 美桜が再び人の物を盗んできてしまった、だなんて、どんな顔で説明したらいいのかわからなかった。


 キィ、と小さな音を立てて夫が寝室のドアを開ける。酒臭さがぷんと匂う。


 夫は決して酒乱ではないが、酔ったときに怒れば何をされるかわからない。夫怖さに、わたしはとりあえず、今回の件については目をつぶることに決めた。


 いくら物がなくなったとはいえ、この一度で済めば、佳菜絵ちゃんママたちも不審には思わないはずだ。きっとどこかに落としたのだと、勝手にそう思ってくれるだろう。


 そのためには美桜を落ち着かせて、それから……そう、明日はかくれんぼくらいさせてあげなくては――そんなことを考えながら、わたしは浅い眠りに落ちていった。

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