第10話 まぁだだよ

まぁだだよ(1/5)

「だめよ!」


 思わず強く出た言葉に、談笑していた母親たちが振り向いた。


 と同時に、散り散りに走り出そうとしていた子供たちも、驚いたように立ち止まり、ぽかんと口を開けてこちらを見上げている。


 ぽかぽかと春らしい陽気が心地よい午後だった。娘の美桜みおの小学校入学に合わせて、心機一転、この町にわたしたち家族が引っ越してきたのは、つい先月のことである。


 幸い、美桜は近所の子供たちともすぐに仲良くなり、楽しげに学校へ通っている。とはいえ、まだ授業も本格的に始まらない新一年生の帰宅は早い。


 学校に慣れるまでの二週間ほどは、その早い帰宅に合わせ、学校と自宅との中間地点あたりまで――うちの場合は近くの公園前まで――保護者が迎えに行く決まりがある。


 その決まりに従い、わたしもいつものように他の母親たちと共に子供たちを待ち、これもまたいつものように公園で遊びたいと騒ぐ子供たちに押されて、それを見守りながら公園のベンチで井戸端会議に花を咲かせていたところだった。


 とはいっても、越してきたばかりのわたしは母親たちの話には入れずに、雑誌から抜け出てきたかのようなお洒落な母親たちのコーディネートや、一目で有名ブランドのものとわかるバッグに掛けられた、可愛らしいネコのチャームをぼんやりと眺めていただけなのだが。


 そのときだった。「ねえ、かくれんぼしようよ」という声が、わたしに聞こえたのは。


 だめよ――そしてその言葉を聞いた瞬間、思わずわたしは立ち上がり、叫んでいたのだった。――だめ、絶対にだめよ。


「どうしてだめなの、ママ?」


 楽しげに遊んでいた美桜が、泣き出しそうにわたしを見上げる。


 涼子は泣きそうになると口がへの字に曲がるよな――結婚前に、夫に指摘されて初めて気がついたその癖を受け継いで、美桜がわたしそっくりに口を曲げている。


「ミオもかくれんぼしたい」

「でも……だめなものはだめよ」


 もう一度わたしは声を潜めて、しかし、はっきりと娘をたしなめる。


「美桜ちゃんママ、どうしたの?」


 不穏な空気を察して、佳菜絵ちゃんママがわたしたちに声を掛ける。


「このあと、何か予定でもあった?」

「え、ええ、そうなの」


 佳菜絵ちゃんママの言葉に乗り、わたしはためらわずに嘘をついた。


「ちょっと行かなきゃならないところがあって……すっかり忘れてたんだけど。ほら、行くわよ」

「ママ、お願い。あとちょっとだけだから」


 嫌がる美桜の手を取り、わたしは少し強引に歩き出そうとする。


 と、そのとき、バランスを崩した美桜が、ベンチに突っ込むように、派手に転んだ。その拍子に、佳菜絵ちゃんママの膝に置かれていたあのブランドバックの中身が、地面に思い切りぶちまけられる。


「あ、ごめんなさい」


 わたしは慌ててバッグを手に取り、散らばった中身をかき集める。


「本当にすみません」

「いいのよ、気にしないで。それよりも美桜ちゃんは大丈夫だった?」


 ブランド物を汚されたというのに、佳菜絵ちゃんママは立ち尽くす美桜の顔を優しく覗き込んだ。


「ちゃんと美桜も謝りなさい」

「…………」

「ほら」


 小さな肩を押すように促すと、ごめんなさい――俯いたまま、やっと美桜は蚊のなくような声を上げた。


 すみません、わたしはもう一度頭を下げ、バッグを返す。いいのよ、と佳菜絵ちゃんママは再び笑顔で言った。


「それに美桜ちゃん、ちゃんと謝れて偉かったよ。じゃあ、また明日ね」

「ええ、それじゃ……」


 いーち、にーい、さーん、よーん――美桜抜きでかくれんぼを始めた子供たちが、数を数え始める。わたしは母親たちにもう一度会釈すると、美桜の手を握り、逃げるように公園をあとにした。


「……ねえ、どうしてかくれんぼをしちゃだめなの?」


 口をへの字に曲げたまま、美桜がつぶやくように言う。何かに追われるように早足になりながら、わたしは頑として言った。


「だめなものはだめなのよ。それに、用事があるって言ったでしょ」

「嘘。ママ、朝はそんなこと言ってなかったじゃん」


 しかし、美桜は納得することなくますます口を曲げる。それを無視して、わたしはますます足を早めた。


「いいから。もう帰るわよ」


 急いでいるせいか、心臓の鼓動が不気味に大きく聞こえている。頭は痛み、耳鳴りがする。美桜と繋いでいない方の手もぎゅっとこぶしを握ったまま、わたしは、意識して大きく呼吸をする。


 顔を上げると、道沿いの理髪店の時計が、午後二時ちょうどを指したところだった。霞がかった水色の空に、まだ日は高い。夏至に向かって日は長くなっていくのだ。夕暮れはあと何時間か先だろう。


 それなのに、いま、わたしの目に映るのは夕方の真っ赤な空だった。


「じゃ、用事ってなに? どこに行くの?」


 美桜の問いにも答えられないほど、呼吸は激しさを増す。繋いだ手の感触だけ残して、わたしの周りから現実の景色が消えていく。


 夕日が沈む、一番星が光る、隠れたあの子は見つからない――焦燥感に心臓を鷲掴みにされ、わたしは思い出したくない景色の中へと戻っていく。


「ねえママ、聞いてるの?」


 きゅるきゅると時間は巻き戻る。隣にいるはずの娘の声が遠くなる。そして、その代わりに閉じられた扉の向こう側から、すり切れたカセットテープのような、雑音混じりのメロディーが流れ出す。



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 その奇妙な旋律に、夕日は煤けたように色あせていく。真っ赤な夕日の、熱が冷える。いーち、にーい、さーん、よーん――あどけない子供の声が、大きな声で数を数える。――もういいかい。まぁだだよ。


 この声は――。


 冷たい汗が額を伝う。体の奥が震え始める。


 かくれんぼをしているのだ。あのときの、わたしたちのように。


 かくれんぼなんて、しちゃだめよ――わたしの声にならない叫びを無視して、もう一度、子供の声が十まで数える。


 しーち、はーち、きゅーう、じゅう。そして――もういいかい、と尋ねる声。けれど、答えは聞こえない。


 もういいかい。


 子供の声が、もう一度大きく叫ぶ。けれどやっぱり答えは聞こえない。


 だからだめって言ったのに――わたしの心を覆う絶望を共有したかのように、子供は一人、立ちすくむ。


 闇に影が溶けていく。恐怖に怯えて走り出すと、あとから単調なメロディーだけが、淡々と、狂ったように追いかけてくる。


 きらきらひかる、おそらのほしよ きらきらひかる、おそらのほしよ きらきらひかる、おそらのほしよ きらきらひかる、おそらのほしよ――


 ああ、これは何の音なんだろう。ピアノでもなく、人の声でもなく、何か――天使が奏でる楽器のような澄んだ音。どこかで聞いたような、それなのに聞き覚えのないような。


 しかし、その正体を探ろうと耳を澄ませているうちに、旋律は徐々に速度を落とし、煤けた景色と共にゆっくりと、消えていく。低く、重く、闇の中へ。そして――



「ねえ、ママってば!」


 叫ぶような美桜の声に、わたしははっと我に返った。


 排気ガスを振りまいて、一台のトラックが目の前を過ぎる。むせかえるようなひどい臭いと共に、現実の色がわたしの目に戻ってくる。


「ねえ、この前おばあちゃんが、ミオだけでもいいからおいでって言ってたけど、行ってもいい?」


 隣を見れば、わたしにそっくりな顔をした美桜がいる。悪い夢から覚めたばかりのような感覚で、そうね、とわたしは息を大きく吐いた。


 おばあちゃん、というのは、家から車で三十分ほどの場所に住む、わたしの実母のことだ。


 陰気で人の陰口ばかりを言って、わたしにとってはあまり良い母とは言えなかったが、どうしたことか美桜はひどくなついている。


 どうしようかと考えて、わたしは小さく首を振った。


「でも、おばあちゃんちは少し遠いし、明日はまた学校があるんだから。きょうはお家でクッキーでも焼くのはどう?」

「どう、って」


 美桜の口はますます曲がった。


「やっぱり用事なんてないんじゃん。ママの嘘つき」

「親に向かってなんて口を聞くの」


 わたしは少し苛立って美桜を叱った。繋いでいた手を解き、玄関ドアの鍵を開ける。


 今回の引っ越しで、ばたばたしていた一週間ほどの間、美桜は母に預かってもらっていた。


 考えたくはないが、親の嫌がる言葉ほど子供の覚えは早い。母のせいで、美桜の口は悪くなってしまったのではないだろうか。


「どこで覚えたの、そんな言葉。おばあちゃんのところ?」


 乱暴にドアを開けると、美桜は返事もせず、ふてくされたまま中に入る。


 美桜は生まれたときから手の掛かる子だった。けれど、そうはいってもここまで母親に反抗する子ではなかったはずだ。わたしは再びドアを閉めながらため息を殺す。


 やはり、美桜を母に預けたのは間違いだったかもしれない。きっと、わたしのことを嫌いな母が、美桜にあること無いこと吹き込んだんだろう――。


「ママの嘘つき」


 わたしが黙っていると、驚いたことに美桜はもう一度そう吐き捨て、逃げるように自分の部屋に駆け込んでしまう。MIO、美桜とわたしが一緒につくった、ピンクのプレートが乱暴に揺れた。


「美桜――」


 ちゃんと言い聞かせなくちゃ――わたしは美桜を追いかける。するとそのとき、コトン、と音を立てて、何かが床を転がった。


 部屋に入ったときに、美桜が落としたのだろう。わたしは疲れを覚えながらもそれを拾い上げた。


 最近、わたしと美桜の親子関係は切れかけた糸のような危うさを保っている。どうしてそんなことになってしまったのか、そんなことを考えることすら億劫になるほど。


 でも、それでも今回はわたしも悪かったのかもしれない――ため息と共に、わたしの胸に後悔の念がわきあがった。かくれんぼくらい、そう、かくれんぼくらいさせてあげればよかったのだ。


 けれど、わたしには無理だった。かくれんぼしよう――そんな子供の声に、わたしの中の過去は疼きだし、一刻も早くあの場から立ち去らなければならない、そんな思いに囚われてしまったのだ。


 わたしが幼い頃――それこそ美桜と同じ年の頃、かくれんぼをしていて消えたあの子――エリちゃんのことを思い出すと。あの真っ赤に染まった夕暮れの公園を、どんなに探しても見つからなかった彼女のことを思い出すと。すると――



 きらきらひかる、おそらのほしよ――



 頭の中で、旋律は流れ出す。


 いや、実際は聞こえるはずなどないのに、その音色ははっきりと、本当に耳に聞こえる音のようだった。


 どうしてそんな歌が聞こえるのかはわからない。もちろん、その歌がきらきらぼしの童謡であることなど、わたしにもわかっている。誰もが歌ったことがある、誰でも知っている歌だ。


 けれど、そんな歌がどうしてエリちゃんの記憶と共に思い出されるのか、その理由がわたしにはわからなかったのだ。


 子供の頃、わたしが特別にその歌が好きだった思い出はないし、それにエリちゃんが歌っていたという記憶もない。それならば、どうしてなのだろう――?


 考えながら、わたしはふと手の中に拾い上げた物に視線を落とした。そして、美桜、落としたものはちゃんと拾いなさい――そう言いかけて、思わず息をのんだ。戦慄が背中を駆け上がった。


 わたしの手に乗っていたのは、金に縁取られた青いガラスが、可愛らしくも高価そうなネコだった。その頭部分の輪には、千切れた鎖がかろうじてひっかかっていて、それがどこからか、もぎとられたのだということを物語っている。


 美桜だ――。わたしは娘の部屋の前で、呆然と頭を抱えた。引っ越してきたばかりだというのに、また美桜の悪い癖が出てしまったのだ――。


 わたしの手のひらで輝くもの、それは佳菜絵ちゃんママのバッグについていた、あのネコのチャームだったのだ。

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