園の守り手(2/2)

 他の方は、あなたに全部押しつけて帰ってしまった、ですって? それは本当? まあ、ひどい。ひどすぎるわよ。


 ええ、わかるわ。あなたがとても真面目だから、面倒なところは全部やらせておいて、目立つ発表やなんかは自分たちでやろうという魂胆でしょう。まあ、まあ、まあ。何てことかしら。本当にひどい方たちがいたものだわ。


 でも、それでもあなたは真面目にここにいらっしゃったのね。ええ、わかるわ。私たちと同じね。


 そういう方たちに抗っても何もいいことはないわ。騒ぎは大きくなるだけだし、愛する場所はあらされる……ええ、そういう方たちよ、ああいう方は。


 ああ、ようやくお湯が沸いたわね。お茶を入れましょう。


 ええ、そうよ。この事務室で私たちはお昼をいただくのよ。もちろんよ。まさか、図書館で食べるわけにはいかないでしょう?


 ええ、あそこは飲食禁止ですものね。飴やガムなんかならいいと解釈する方がいらっしゃるけど、ああいうものも止めて頂きたいわ。


 なぜって、匂いがするもの。本を読んでいるときに食べものの匂いがすることほど、不愉快なことはないわ。


 ねえ、あなたご存じ? 最近は本屋の中にカフェがあったりするけれど、あれはどんな鈍感な方なら耐えられるものなのかしら? 


 だって、食べものの匂いの中で読む本なんて! おお、恐ろしい。きっとそういう方たちは、白いページにミートソースの染みがついても意に介さない方々なのね。


 ええ、最近は忙しい方が多いから、食事の時間を読書に当てたいってこともあるのでしょうね。


 けれど、それだってご自分の本だけにして頂きたいわ。まさか、ここの本でそんなことをなさる方がいるなんて、そんなこと、考えただけで怖気が走るもの。


 ええ、けれど、そうよ。いらっしゃるの、中にはそういう方がね。多いのがコーヒーの染みよ。それから、油染み。


 でも、そういう方たちはまったく気づかないものなのかしら? たいてい、平気な顔をして返しにいらっしゃるから、私は本当に不思議に思っているの。


 ええ、本を愛して下さるあなたならわかるはずね。


 読書というのはテレビとは違うの。それ自体が別世界への旅行であり、新しい体験なの。これほどまでかというくらいに文字の中に入り込み、溶け合って一体となる。そういうものよ。


 ええ、あなたならもちろんその快感をご存じね。それなら、私に同意して頂けるはずだわ。食事をしながらの読書だなんて、もってのほかだってこと!


 ……何だか少し興奮してしまったわね。ごめんなさい。さあ、やっとお茶が入ったわ。そうそう、お菓子もね。カステラよ。もらった経緯は経緯だけれど、カステラには罪がないもの。頂いちゃいましょう。


 あら。これって本当にあそこのカステラ? 包装は……確かにそうね。でも、これじゃなんだか……。


 若い方はご存じないかもしれないけど、あそこのカステラはそりゃあ美味しいことで有名だったのよ。贅沢に卵黄を使って、特上のザラメを入れて。


 そうして手仕事で焼き上げると、この茶色いおしりの部分にザラメが溶け残って、それがじゃりじゃりと得も言われぬ美味しさだったのだけれど……ないわね、それが。あらまあ、いつのまに変わってしまったのかしら。


 卵色も何だか薄いし、お砂糖もべったり甘いだけだけ。こんなことを推測で言いたくはないけれど、きっとあそこのご主人が代替わりしてからね。だから味も変わってしまったんだわ。


 そうそう、いまのご主人は、あのヤンキー車に乗った奥様の旦那様よ。お二人ともお年は、四十……五十に差しかかった頃かしら。


 いえ、奥様は存じないけれど、旦那様のほうは、昔はとても優しい方だったの。背が高くて、ひょろひょろっとして、……そう、いまの館長みたいな、ね。


 けれど、中学の頃だったかしら。悪いお仲間に入ってしまってね。グレる、というのかしら。ヤンキー車じゃない……ヤンキーバイクっていうの? 音だけうるさいバイクを乗り回してね。みんな眉をひそめたものよ。


 あの奥様とは、そのときにお知り合いになったらしいの。ええ、きっとだからかしらね、いまもあのうるさい車にお乗りになるのは。


 いえ、もちろん構わないのよ、どんな車がお好きであろうと。けれど……場所というものがあるでしょう。


 そう、ここは静寂の園なの。喧噪に汚されていい場所ではない。


 でも、ああいう方々はそんなことすら気に留めないわ。無理が通れば道理が引っ込む、昔の人はよくそう言ったものだと思うけれど、きっと、自分のことしか頭にないんでしょうね。だから、人の家にずかずかと土足で上がるような真似をする。


 さっきも言ったように、私はこの場所を愛してるのよ。守りたいの。それなのに、あの人たちと来たら……。


 ……いま、あなた、何て? 何ておっしゃったの? ……嘘。


 どうしてそれを知っていらっしゃるの? ええ、あなたが毎日のようにここへ通ってらっしゃるのは知ってるけれど、それでもあの事件が起こったのは平日の午前中で……。


 ええ、ひどい事件だったわ。けれど、新聞にも載らなかったはずよ。私たちがお願いして、掲載を取りやめて頂いたの。


 理由は……言ったでしょう。この場所を守りたいから。ここは神聖で、特別な場所なの。あの事件を騒ぎ立てるということは、ここの静寂を自ら汚してしまうことになるわ。だから……。


 近所にしれてしまうのは仕方がないけれど、そうでないところにまで知らせる必要はないわ。館長もそうお思いだったのよ。


 だから……そう、彼のことね。ええ、だから奥様はカステラを持ってわざわざいらしたのよ。


 いえ、本心ではいらっしゃりたくなかったんじゃないかと思うわ。でも、あの蔵書はいまも議員をなさっている方のおじいさまが寄贈して下さった、大切なものなの。


 私たちが訴えなくても、あちらが訴えるかもしれないと思うと、菓子折の一つでも持ってこないわけにはいかなかったんでしょう。あんなことを……大事な一人息子が、よりにもよってあの蔵書に火をつけたとあってはね。


 ええ、幸い、すぐに見つけて消し止めたから、小火で済んで良かったわ。ええ、煙の匂いにはすぐに気づいたわ。そうでなければ、どうなっていたことか。考えるだけで恐ろしい。


 何ですって? 本当に? 彼があなたのクラスメイト? まあ、では一緒に来るはずだったクラスメイトというのは、彼らのことなの? 彼と、その取り巻きたち。悪いことばかりしている連中ね?


 そう、そうなの。……それなら現れないのにも合点がいくわ。――いえ、何でもないの。こちらの話。


 ええ、あの子たちにはずっと、悩まされ続けてきたの。


 あの小火の前にも、騒いだり、本を返さなかったりなんてのは当たり前だし、それどころか最近じゃタバコを吸ったり、面白半分に本を破いたり……目に余る行為をしていたのよ。


 それも、最近の話じゃないの。ずっと前……十年も前からの話よ。


 あの子が起こした最初の事件は何だったかしら。たしか……間違い探しの本があるでしょう、子ども向けの。あれに、マジックペンで丸をつけてたのよ。あれが初めてだったと思うわ。


 もちろん、そのときは彼も子どもだったから、私も優しく諭したの。『このご本はみんなのものだから、マジックで書いてはいけませんよ』って。


 でも、一度言ったくらいで言うことを聞く子じゃなかったわね。それどころか、ますますいたずらはひどくなって……。


 それでも私たちは我慢したわ。それに、子どもがああいうことをするのは親のせいだろうとも思っていたし。いずれ、自分で気づくだろうと思ったのよ。


 けれど、それは甘かった。


 中学に入ってからも、彼はときどきここへ来ては大声を出したり、ひどいときには誰も取りに行かないような辞典の並んだ奥のほう――そこへ女の子を連れ込んで……。


 そこから先は口にもしたくないわ。とにかく、彼の行いは留まるところを知らなかった。


 私たちは館長に何度も彼を出入禁止にするよう、頼んだわ。私たちは、この場所を本当に愛しているのよ。今日、ここにいるはずだった奥田さんなんて、ここへ勤めるのが小さい頃からの夢だったなんて、そんなことを言って入ってきたんだから。


 ええ、そう、そういう人もいるの。それほどここは特別な場所なのよ。ええ、あなたにはおわかりになるわね。そういうこと。


 でも、私たちの訴えを、館長はお聞きにならなかった。仕方がないわ。若い彼には彼なりの理想があるのだから。


 けれど、私たちは――十分に年を取り、酸いも甘いもかみ分けた私たちは、館長の気持ちは無駄になることを知っていた。ええ、あの子は変わらない。そう知っていたのよ。だから……。


 いま、何とおっしゃったの? もっと早く行動すべきだった――もしかして、そうおっしゃった? な、何のことかしら。いやだわ、そんな真剣なお顔をして何をおっしゃるの。


 彼は来なかったんじゃない、行方不明になっている……? まあ、そ、そうなの? いやね、そんなこと知るはずがないじゃない。どうして私がそんなことを……。


 奥田と村上? そ、それは言ったでしょう、他に外せない用事ができたのよ。その用事は何か? そんなこと、私が知るはずがないわ。


 何て恐ろしいことを! あなたは、私たちが彼をどこかに連れ去ったというの? カステラを届けに来た奥様も、私たちの様子を窺うために来たのだと?


 まさか。失礼かもしれないけど、あの奥様にそんな気働きはできないと思いますわ。あの奥様に限ってそんなことは……。いえ、もちろん、私たちは何も、まさか彼を殺してしまうなんて、そんなこと。


 ……殺す。……いま、私、そう申しました? ええ、その顔はお聞きになったって顔だわね。そして、何もかもお見通しだというお顔ですわ。


 ああ、やはり悪いことはできないものですね。どんなに隠し通しても、必ずいつかは露見してしまうものなんですから。


 いえ、とはいっても、こんなにすぐに見抜かれるとは思っていませんでした。だって、まだ警察だってここへ来ていないんですよ。それなのに、高校生のあなたに見抜かれてしまうなんて……。


 ええ、そうです。私たちは彼をさらい、殺しました。もちろん、私たちの力は若い男の子の力に敵うものではありません。


 けれど、私たちには知識があります。この静寂の園には、それほど危険な知識さえ静かに埋もれているのですから。それを使ったんです。意識を失わせさえすれば、そのあとはこちらには人数がいますもの、簡単ですわ。死体の始末だって、はかどります。


 でも……。ああ、なら、あなたは最初からご存じでいらっしゃったのね? 奥田たちがここにいない理由も、彼が消えた理由も。


 ええ、私たちはもう、彼に我慢ならなかったんです。この神聖な場所をこれ以上汚されたくなかった。


 そこへ、この間の事件です。私たちは汚されるどころか、ここを失うところだったんですよ。たった一人の愚かな少年のせいで、私たちは安寧を失うところだったんです。


 ……わかってくださるわね、とはもう言いませんわ。けれど、警察に通報する前にこれだけは言わせてちょうだい。


 あなた、司書になりたいのだと言ったけれど、それよりは刑事さんに向いていると思うわ。だって、あれだけの情報の断片から、私たちの罪を暴き出してしまったんだから、大したものよ。


 でも、この場所に愛を感じていた人間として、これも是非覚えておいて欲しいの。私たちは犯罪者なんかになりたかったわけじゃない。この場所を守りたかっただけなのよ。


 ……さあ、これで私の話はお終い。あとはあなたの好きにして。


 まずは、警察ね。携帯電話はお持ち? もしなかったら、ここの電話を使うといいわ。ほら、あちらの机にあるから――。


 ――え? 早とちりしないで欲しい、って? ……どういう意味かしら。――あなたは刑事に向いているとは思えない? どういうこと? いえ、そんな、まさかあなたは――」


      *


「刑事ではなく、私は司書になりたいと思ってるんです。ずっと前から――最初から」


 木崎夕子の澄んだ声が、静かに事務室の空気を揺らした。


 その言葉を聞いた渡来雪美は呆気にとられたような顔をし、それからしばらくして、嬉しそうに顔を輝かせた。木崎夕子の手を握る。その手が握り返される。


 二人は言葉を使うことなく、視線だけで通じ合った。それは静寂に生きることを決意した人間だけに理解できる――つまり、奥田美絵や村上佳菜子にも共通の、言葉のない言語だった。


 薄闇が濃く、闇を呼ぶ。図書館に夜が訪れる。物言わぬ書物たちはただ厳然として並んでいる。


 それからあとのことは誰も知らない。


 ただ、行方不明の少年の写真だけが、ひっそりと警察署の前に張り出されたのだった。


【園の守り手――完】

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