第9話 園の守り手

園の守り手(1/2)

 暮れていく空。青い薄闇。紡がれる静寂。


 私設ながら県内最大規模のこの図書館には、人間の知恵と歴史の記された本が、一分の隙もなく、書架に収められている。


 その数、二百万冊以上。


 まだインクの香る新刊から、微かに黴臭い古本までが揃うその蔵書数は、国会図書館のそれに迫る勢いで毎日増えている。


 となれば、そこには当然のことながらその膨大な冊数を管理する司書の存在があった。


 貸し出し業務や、選書や収集、蔵書の分類整理、配架など、彼らの仕事は多岐にわたる。


 しかし、彼らはあくまで裏方。この膨大な蔵書に仕える守り人たち。


 その守り人の一人、渡来雪美わたらいゆきみの元に、一人の女子高生が訪ねてきた――。


      *


 ……どうぞ、お入りになって下さい。こんな時間になってしまってごめんなさいね。今日はいろいろと騒がしくて、同席をお約束した奥田さんも村上さんも、来られないことになってしまったの。本当にごめんなさい。


 ……って、あら、木崎さんってあなたのことだったの? 木崎夕子きざきゆうこさん?


 ああ、そうだったのね、驚いた。いえいえ、嬉しい驚きよ。あなたはここの本を愛して下さってるもの。


 ええ、わかるわよ。ここへ日課のように通ってくる方も、毎回、貸出冊数の上限まで借りていく方もいらっしゃるけど、本を愛しているっていうことは、思うにそういうことじゃないわ。


 あなたのように、この場所を愛し、本を愛し、慈しんで下さる方っていうのは、なかなか少ないものなのよ。あなた、とても才能がおありになるわ。


 あら、照れていらっしゃるの? 可愛い方ね。でも、お世辞なんかじゃないのよ。私はこの六十年間、お世辞なんか一つも言ったことはないんだから。


 ふふふ、年寄りを褒めても何も出ませんよ。それなのにまだおっしゃるの? え? 私たちに憧れていらっしゃる? この、司書というお仕事に? だから、職業インタビューの課外授業でここを訪れることに決めたのですって?


 あなたね、そこはこの私に憧れてるっておっしゃってくれなくては。……いえ、冗談よ、面白い方ね。ここまで言って下さったんだもの。お茶とお菓子くらいはお出ししないとね。


 ちょうど頂き物のカステラがあるのよ。市内の有名な……ご存じないかしら。


 そうそう、駅前にも支店があるでしょう。そこの奥様がね、持っていらっしゃったの。


 ……やだ、お友達なんかじゃないわよ。違うわ。これはこの図書館宛てにいただいたのよ。


 まさか。あの家の人たちが本なんか好きなものですか。知っていて? あそこの奥様、すごい車に乗ってらっしゃるのよ。何て言うのかしら、ものすごい音のする……。


 ヤンキー車? あれはそう呼ばれているの? ……改造車。


 まあ、そうね、車屋さんで売っているものを、どこかどうか改造しなければあんな大きな音は出ないでしょうからね。まさか、メーカーさんがあんな恐ろしい音の出る車を開発するわけがないもの。


 とにかく、すごい音がしたのよ。ええ、その車でここにいらしたんだから。


 そうでしょう、このあたりは静かな場所だから、そんな大きな音なんか聞いたことがないのよ。それがあなた、遠くからブオンブオン聞こえてくると思ったら、すぐそこに止まるんですもの。


 しかも、駐車場じゃないのよ、正面玄関の前に横付けしたの。ええ、あのここの玄関によ。すぐそこに駐車場があるっていうのに。


 その上、言うことがいいのよ。何事かと飛び出していった館長に、『ちょっとですから、あそこへ止めさせて頂いて構いませんよね』ですって。


 ええ、館長。あなたもご覧になったことがあるんじゃないかしら。そう、あの若い眼鏡の男の方よ。


 まだ三十を越えたくらい。ええ、とてもお若いの。この図書館が私設だということはご存じ? もちろん、ご存じね。この辺りの大地主だった熊谷喜三郎という方が、戦後、設立されたのよ。


 あの方は、その曾孫さんの、そのまたお孫さんに当たるのね。何でもお父様が早くに亡くなられて、それでお鉢が回ってきたということらしいわ。


 その館長さんね。この場所を愛する心は初代館長にも負けないほどの方なんだけれど……見た目からもおわかりでしょう? いまいち押しが弱いのね。


 だから、あの……ヤンキー車? そう、少し図々しいともいえる奥様の言葉に負けてしまったのだわ。そこはきっぱりと『いえ、駐車場へ止めて頂かないと』と言うべきだったのに。


 そうね、館長のそういうところが、私たちの悩みの種なのよ。あの方が、きっぱりはっきり言って下さりさえすれば、私たちの仕事もずっと楽になるんですから。ええ、それは本当よ。


 それはなぜか、ですって? あら、あなたにはおわかりになると思ったのに。この場所を愛して下さってる方なら。


 ……ああ、よかった、やっぱりあなたも悩んでいらっしゃったのね。ええ、私たちの不徳とするところだわ。


 けれど、言わせてちょうだい。私たちも努力してはいるのよ。ただ黙ってやり過ごしているわけじゃないわ。ええ、やり過ごすなんてことができるもんですか。ああいう、人間ヤンキー車みたいな方たちにはね。


 ……私の言い方、そんなに可笑しかったかしら。ごめんなさい、つい腹が立ってしまって。


 でもわかって下さるわね。そう、私が言いたかったのは、この静寂で神聖な場所を侵す人たちがいるということよ。


 ああ、考えるだけで恐ろしいわね。あの騒がしさ、書物への敬意のなさ。どうして彼らのような人間が存在するのか、私には本当にわかりかねるわ。あなたが頷いてくれることを信じて、こんなことを言うのだけれど。


 え? それが司書という仕事の大変な点か、ですって?


 ああ、ごめんなさい、私、あなたが司書のインタビューにいらしたんだってこと、すっかり忘れていたんですわ。それなのに私ったら……ごめんなさいね。


 けれど、そうね。大変なことと言ったら、そういうことになると思いますから、期せずしてインタビューに答えていたということにもなりますわね。


 図書館では静寂を保たなければならない――それもきっと、学校で習うことでしょうね。


 そりゃあ、学校の図書館は少々騒がしいだろうことも想像はつきますけど、ここは学校ではないのですから。


 壁の張り紙にもあるでしょう。私語は厳禁、司書に何かおたずね下さるときも小声でお願いしますと、わざわざ書いてあるではありませんか。


 それなのに、なぜかそういう人間が訪れるんですわ。その、ときどきは。


 もちろん、私たち司書も注意はしますけれど、こんなお婆さんの言うことですもの、意地悪を言っていると思われるのか、まったく効果がありませんの。


 ご存じのように、他の司書も、ここには女性司書しかおりませんのでね。男性に怒鳴られでもしたら恐ろしくて、なかなか強くは出られないのです。


 だから、まあ、ひょろっとはしておりますが、館長が前に出て下されば、と私たちはそう思うわけです。


 館長がビシッと注意して下されば――繰り返しになりますけれど、ここは私設の図書館なのですもの。館長が出て行けとおっしゃれば、彼らだって出て行かざるを得ないのですよ。


 ところが、ええ、館長もああいった方ですのでね。なかなか踏ん切りのつかないんでしょうね。


 言いましたでしょう。あの方はこの場所をこよなく愛しておられますから、できるだけ多くの人に――あんな騒々しくて本は本でも卑猥なものしか読んだことがないような方たちにも、まずは来て頂くことが重要だと、そう考えていらっしゃるようなんです。


 あんな方たちでも、ここにある本を読み、その知識の深さを知れば、おのずとふさわしい雰囲気を理解するだろうとお考えなんです。お若いんですわ、本当に。だから理想をおっしゃるんです。


 あなたもお若ければ、館長のお考えに共感なさるところがあるんじゃありません?


 ……え? そうでもないと、そうおっしゃいます? まあ、驚きましたわ。そう、そうお考え?


 実は私も同じですわ。ああいう人間は結局変わることはないと、館長の理想は彼らをつけあがらせているだけだと、私たちはそう思っておりますの。ええ、私だけでなく、他の司書仲間たちも。


 けれど、問題はほかにもあるわ。それは館長に劣らないくらい、私たちもこの場所を愛しているということ。


 私たちはこれ以上ないくらい、ここを愛している。この静寂を、この安らぎを。書架に並ぶ蔵書の、整然とした美しさを。


 この空間を守るためなら、私、何だっていたします。そんな覚悟でお勤めしてまいりました。


 だから……そう、問題はそこなの。


 騒ぐ彼らに私たちが声を上げれば、騒がしさは収まるどころか増してしまう。彼らもヒートアップして、本を叩きつけたり、ましてや破いたり、良からぬ結果を招くかもしれない。私たちはそんなことを望んでいないのよ。この場所を荒らしてしまうことを。


 だから、私たちもここではじっと耐えるしかないの。私たち自身がこの場所を荒らすことに加担したくない。だからこそ、臍を噛むような思いで、できるだけ穏やかに注意するしかないのですわ。


 けれど、館長は――ああ、もどかしい。私たちが彼らを排除できない理由と、館長がしない理由はまったく違うのですわ。おわかりになるかしら? 私たちは根本的に――。


 あら、そう。木崎さん、あなた、わかってくださるの? お若いのに、私の考えに賛成して下さる? まあ、素晴らしい。


 いえ、もちろん館長の理想を否定するわけではないのですよ。けれど、理想だけでは生きていけないことを、年を取れば自ずと誰もが知るものですわ。それをあなたはお若いのに……感じ入りましたわ。あなたは本当に素晴らしい学生さんね。


 そういえば、職業インタビューには、あなたのほかにも学生さんがいらっしゃると聞いていたけれど……他の方々はどうなさったの?

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