投稿テスト短編『表象への誘い』

三ケ日 桐生

01.17(FRY)18ː30

 朝方には出勤を大いに躊躇わせるほど降っていた雨も、定時で上がって電車を降りる頃にはすっかりその勢いを失っていた。

 駅前のこぢんまりとしたビルにあるカフェのドアをくぐって、どこか空いている席はと見渡すが、生憎と四人掛けのテーブル席以外に空いている場所はなかった。三卓ある二人掛けの席は、熱心な商談を進めるパンツスーツの若い女性とその客、くたびれたコートを羽織ったまま新聞を読むリーマン、人目を気にせずいちゃつくカップルがそれぞれ占拠していた。一階は禁煙席なのでハナから見ていない。

 さて、座るか出るか……。迷っていた俺に、やる気のなさそうな従業員が気の抜けた挨拶とともに近づいてくる。そして僅かな間の末に、四人掛けのテーブル席へと指を揃えた掌を向けて示した。

 店側の許しを得た、ということだ。俺は今や邪魔以外の何者にもなっていない傘をぞんざいに投げ置くと、それを追っかけるように椅子に座り込んだ。大きく息をついてポケットから煙草とジッポーを取り出して机の端へ滑らせ、首を窮屈に締め付けるネクタイを片手で乱暴に二、三度揺すって緩める。

 窓の外からタクシーのターミナルと電車の往来が見渡せるカフェ。休日の前にはここで熱いチャイ・ティーを飲みながら文庫本を読むことが数少ない楽しみだった。学生時代には頼まれても見向きもしなかったジャンルを、俺は今貪るように読んでいる。あの頃と比べて自由な時間は明らかに目減りしているというのに……我ながら、何とも不思議な話だ。

 ――かきん、しぽっ。右手の親指でジッポーの蓋を跳ね上げ、指を下ろすと同時に石を擦る。小気味の良い音を立てて点った優しい火に煙草の先端を近づけ、気持ち強めに息を吸う。メンソールの香りを喉の奥でくゆらせ、吐息に色を付けて吐き出す。一心地ついたそのタイミングを見計らったかのように店員がこちらへ近づいてきた。俺はいつも通りの注文をすませ、鞄から読みかけの文庫本を取り出す。

 外回りの営業で張り付いた営業スマイルも安い演技も、媚びへつらった低姿勢もここでは必要がない。片手に収まる別世界を開いて、熱の伝わるカップを持ち上げ、生姜の効いたミルクティを一口含めば、五感の全てを自分の世界にダイブさせることが出来る。誰の目も気にならない、自分だけの世界。幾ら同期に根暗と陰口を叩かれようと、この習慣だけは譲れないのだ。

 運ばれてきたチャイを口に運び、ゆっくりと紫煙を吐き出す度に、溜まった澱が流れるように体の奥が弛緩していくのが分かった。こいつは麻薬を吸ったときの快感にも負けてはいまい、などと根拠のない満足感を得ながら、本を広げて栞を外す。どこまで読んだか……確か「タイランド」の終わりまでだったな。次のタイトルがとてもふざけていたのでよく覚えている。

 視線を文字列に落とす前に、ふと何の気なしに窓の外へと目をやる。そこにはホームに滑り込む中央線に走るオレンジのラインとタクシーのグリーン、そして暮れ始めた茜空とその下、群衆の中に未だに傘を差しているバカが数人目に留まった。色彩のそれぞれが所々に生まれた水溜まりへと反射して、それらが不思議と調和を奏でているように感じた。

 それは喩えるならば、ふと脚を向けた美術館で、知らない画家の手掛けた名画に出会った時の感動と似ている。

 そんな景色の移り行きをしばらく眺め、誰に聞かせるでもなく偉そうにほぉ、と呟いた俺の口は、自分でも気づかない内に端を少しだけ釣り上げていた。


※     ※     ※


 三本目を吸い終わる段になったところで、かえるくんがすくう東京から一度意識を浮上させる。すっかり熱を失ったカップを、店員がそそくさと下げていくのが脇目に見えたが、別にそれが気になってわざわざ中断した訳ではない。上の階からこの場にそぐわない怒号が聞こえてきたからだ。他の席に座っている面々も皆、一様に黙り込み、何事かと首をせわしなく左右に動かしている。

 そんな奇妙な光景を前に、その場にいる全員がマイナスの感情をシンクロさせたという事実に、ふと妙なおかしさを覚えた。

 生まれも育ちも違う、卓番を跨げば共通のコミュニティなどありはしない人間の集団。いや、個集合と言った方が正しいか。俺が奴らの人となりを知らないように、奴らも俺を知らない。俺があと二十年保たない体を引きずって生きているように、彼らも当然己の内に何かを抱えて生きているのだろう。

 だが、それは単なる憶測に過ぎず、また奴らが俺の葬式に香典を上げに来る理由にもならない。

 だが、そんなバラバラな個人達がたまたま同じカフェに入り、ヤクザまがいの諍いを耳にした一瞬だけ、同じ心持ちを持つ「集団」になったのだ。それは先刻窓の外で描かれた奇跡と、成り立ちはとてもよく似ている。

 ……ともあれ、憩いの時に寄り添うには相応しいとは言えない雑音に、俺は右ポケットからカナルタイプのイヤホンを取り出し、プレイリストから乱暴なロック達を選んだ。再生が始まるなりセンターホイールを右に回し、音量を上げて遮断していく。周りの面々も、波が引けるようにそれぞれ自分たちの世界に戻っていった。


※     ※     ※


 今度は個人的な理由で、再び意識を浮き上がらせた。

 人は何故本を読むのか、映画を観るのか。普段の自分にはとても似つかわしくない哲学問答でも、気になり出したらもう文章など頭に入らない。どんなに追い出そうとしても頭の隅にちらつく影に気を取られ、結局小説の世界からはじき出されてしまう。面倒くさい性分だった。

 いつの間にか同じアルバムを繰り返していることに気付いて、一時停止のボタンを押してイヤフォンを外す。それと同時に今度は割と近くから女の泣き声とも叫び声ともつかない金切り声が耳をつんざいた。

 その声に思わず仰け反り何事かと振り返ると、二つ隣の卓に座るカップルが青筋を立てて激論を交わしていた。紙面に顔を埋めるほど近付け、しかし目線は文字を追わずに耳だけ意識を集中してみると、決して論理的ではない言葉の端から、なにやら別れるだのキライだの聞こえてくる。

 さしずめ今のフェイズは起承転結の転、あたりだろうか。入った時にちらりと見えた仲睦まじさはどこへやら。俺は意地悪な虫食い問題を出された気分になり、珍妙な面もちのまましばらく聞き耳をそばだてていたが、結局原因を語ってはくれなかった。

 当たり前か。奴らが今更俺のために原因を蒸し返す理由などどこにもない。別に俺だって知りたいのは喧嘩の原因だけで、二人のなれそめやら生活やらといった余分な情報には興味がない。ちょっと前と後が気になる。それだけだ。


 ――ああ。


 そこまで考えを巡らせた時、頭の中に抱いていた疑問に自ら答える一つの仮説が浮かんできた。 

 道行く他人の生き様に少しばかり興味を持った時、人は決して満たされない答えの代わりにそれを開くのではないだろうか。

 本であれ、映画であれ。追体験とはまた違う。どちらかというと知らないものを見てみたいという単なる好奇心に近い。

 だってそうだろう。誰だって悲劇的な物語の主人公の人生を『体感』したいと思って本を開くだろうか?劇場に赴くだろうか?仮にそう思って本を開いたとして、銀幕の前に座ったとして、終わった後に感じるものは報われない悲壮だけだろうか?

 本を閉じ、軽く手の中で遊ばせてみる。擦れ違えば二度と逢うこともない、もし再び互いを視界に収めたとしても、それを自覚できない奴らと違って、こいつらはケント紙の中で、フィルムの中で、いつでも同じ人生を飽くことなく駆けていく。

 俺らの僅かな知識欲、野次馬心、猥雑な出歯亀根性を満たすために、犯罪なり愛なりを演じてくれる……いや、演じているのではない。彼らにとってはそれが紛れもない現実リアルなのだ。時に華やかに、時に凄惨に。強いコントラストを以って彩られたそれは、実際に誰かの人生を覗く事よりも刺激的だろう。

 まぁ、これも「憶測」に過ぎないが。正しいかなど誰にもわからないし、もっと言ってしまえばそんな事は問題ではない。一つの回答を繰り寄せることが出来た。その事実が大切なんだ。

 そんな満足を胸に、俺は再び誰かの人生へと飛び込んでいく。

 

※     ※     ※


 閉店時間が近づいて、気づけば二階には俺以外の客はいなくなっていた。そろそろ終電か。後書きのページを繰っていた左手を伝票に延ばす。

 帰った奴らがどうなったのか、俺は知る術を持たない。それこそ今この瞬間に宝くじが当たって人生が薔薇色になったとしても、あるいはごった返すホームから転落して電車に轢かれ、哀れ肉片になったとしても、追う事の出来ない俺の心は動きようがない。

 一抹の不満を抱きかけ、鞄に仕舞い掛けた本を、二、三度空中に放る。


 


 なぁに、気になりゃ代わりにこれを開けばいい。あんたがどう思おうが、それで満たされて仕舞う程度の興味だよ。

 誰もいないフロアで、立ち上がった『俺』はこちらへ振り返って呟く。

 「そうだろ?」


                    ――『表象への誘い』おわり――

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