結 君の氏に
「それでどうですかぁ、この氏は本当にお勧めですよぉ」
中年女の指の先には『桜木』という文字がある。三十分前から勧められている新しい氏だ。
「そうですねぇ、確かに割りといい感じだとは思うんですけど――」
私は先ほどよりも更に頭を傾げた。
「――どうにもピンとこないんですよ。困ったなぁ」
「ははぁ」
突然、中年女の瞳が輝く。
「あのぅ、不躾な質問で申し訳ないんですがぁ、お相手の方の今のお名前をフルネームで教えて頂くことは出来ますかぁ」
「はあ、その、何だか恥ずかしいなあ。彼女の名前は『草深みどり』というんですが。それが何か」
「ああ、だからですねぇ」
中年女性はそう言って溜息をつくと、頭を下げた。
「……たまにいらっしゃるんです。そういうお客様」
女の突然の口調の変化に、私は驚いて訊ねる。
「あの、何か問題でもあるんですか?」
「あ、いえ、そうじゃないんです」
中年女が顔を上げる。彼女は苦笑していた。
「確かに、今は結婚する時に新しい氏を準備することが一般的ではあるんですが、お客様のようになかなか決まらない方がたまにいらっしゃるんですね。それで相手の方のお名前を聞いてみると――」
そこまで聞いて、私も気がついた。
「あ」
中年女はにっこりと笑う。
「お気づきになったようですね。そうなんです。大抵の場合、お相手の方の氏名が綺麗にマッチしているんですよ。『桜木みどり』さんでも悪くはないんですけどね」
「それでも今の氏名には負けますよね」
「ですよねえ」
私と女は顔を見合わせて笑った。女は真顔に戻って言う。
「あの、これは店員としてはあまり言ってはいけないことなのですが、お相手の方にこう仰ってはどうでしょうか?」
彼女は息を吸い込んでから、落ち着いた声で言い切る。
「君の氏になってもいいだろうか」
その言葉が私の胸の中にすとんと落ちる。
そう、それが一番しっくりくる名前なのだ。無理に他の名前にする必要なんかないのだ。
「そう、ですね。そうしたいと思います。何だかお時間ばかりとらせてしまって、こんな結論で申し訳ございません」
「いえいえ、どういたしまして。お客様に喜んでいただくのが私の仕事ですから」
そう言った後、中年女は微妙に戸惑った顔をする。
「あの、どうかしましたか?」
「いえ、これ以上は余計なことでしかないのですが、その、そういえばお客様の下の名前を伺っていなかったなあと思いまして」
「なんだ、そんなことでしたか」
その時の私は、その日一番の笑顔だったと思う。
「私の名は『
君の氏に 阿井上夫 @Aiueo
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