転 「氏」を巡る諸問題と『姓の自由化』の流れ

 さて、氏を巡るこれら今日的な問題は夫婦別姓の問題とあわせて、なかなか議論が進まないものと考えられていたのだが、平成二十七年に別な風が吹いて急に事情が変わった。


 それは、平成二十七年十月より日本に住民票を有する全員に付番された十二桁の個人番号、いわゆる「マイナンバー」という風である。

 十二桁といっても、末尾の一桁はチェックデジットと呼ばれる検算用の数値になっているから、実質十一桁が個人ごとに割り当てられている。十一桁ということは、百億単位だ。

 このマイナンバーにより、氏名による個人の同一性の識別は一気に時代遅れになってしまった。氏の変更を阻む最大の障害であった戸籍の秩序は、マイナンバーで維持可能となる。

 従って氏名が何であっても、行政としては何の問題もない。そこで急に氏名変更の条件緩和が議論されることになったのだが、とある官僚がここでおかしなことを発案した。


 それを説明する前に、平成二十八年現在の法制度下における手続き方法を以下に列挙する。

 前述の通り、申立人は戸籍の筆頭者とその配偶者に限られ、申立人の住所地を管轄する家庭裁判所に申請することになっている。

 必要な費用は収入印紙八百円分と連絡用の郵便切手。

 必要な書類は申立書と添付書類で、標準の添付書類は「申立人の戸籍謄本(全部事項証明書)」と「氏の変更の理由を証する資料」となっている。

 例えば、離婚した後も婚姻中の氏を使い続けていた者が、婚姻前の氏に戻る場合には、婚姻前(養子縁組前)の除籍から現在の戸籍に至るすべての謄本を提出することになるわけだ。

 家庭裁判所の許可を得た後は、確定証明書を家庭裁判所に申請することになるが、この手続きには百五十円分の収入印紙が必要となる。

 後は市区町村役場の窓口で届出をすれば完了だ。


 つまり、それまでは合計すれば千円強の費用と手間で氏が変えられたわけだが、件の官僚は、

「行政関係の手続きに多大な労力がかかるわけであるから、それは応分の負担を国民の皆様にお願いしたい」

 として、氏の変更にかかる費用を増額し、税収確保を画策したのである。

 この点はさして議論もされないまま氏の変更条件は大幅に緩和されて、ほぼ無条件で認められるようになった代わりに、行政窓口における氏変更費用は総額一万円と定められた。

 一応「子供が勝手に変えることができない金額」と非公式に囁かれていたが、根拠がある訳ではない。それに一万円ぐらいならば子供でも平気で調達可能である。

 実際に制度改定後の役場窓口には、小中学生の姿も見られた。アニメの主人公と同じ氏に変更したいという要望が大半である。


 また、氏の変更を可とする法改正に対して、激しい拒否反応をしめした者は少なからずいた。その大半が、昔から雅な氏を独占してきた高貴な一族の方々である。

 彼らは新参者が勝手に彼らの氏を名乗ることへの嫌悪感を露にし、「氏もまた既得権の一つであり、私達はその権利侵害に対して断固として抗議する」と宣言した。

 多くが古くからの名家であるから、政治的な力を有する場合が多い。さまざまな搦め手を使って法改正を邪魔しようとする。

 そのため所謂『姓の自由化』は暗礁に乗り上げたかと思われたが、そこに新しいビジネスを提唱する者が現れた。

 彼らは氏をあたかも株式の如く扱い、取り引きの対象としたのだ。


 所謂『氏相場』である。


 例えば「阿井」という氏を持った集団が、氏会社を発足してそれを商標として市場に登録すれば、売買による利益はその氏会社に還元される。

 人気の高いブランド氏は当然のことながら販売価格が高くなるから、おいそれとは手が出せなくなるし、氏によっては取引に際して「氏会社による資格審査が必要」と条件をつけることも出来る。

 一方、人気がなくなれば氏会社の維持すら出来なくなるから、『自由氏』として市場で取引されることになる。その場合は時価がつかないから二束三文だ。

 また、購入者にとっては、その辺にある自由氏よりも、ブランドイメージの高い氏のほうが望ましい。購入時に氏会社による証明書が発行されるので、同時にステータスも確保される。

 それが嫌なら自由氏を購入すればよいだけなのだが、幼稚園児のママ友に見られる陰湿な自由氏差別や、なんとなく社会に蔓延する自由氏軽視の風潮によって、市場は維持されていた。

 当然、投機目的で改姓する者もいる。漫画の主人公に使われた氏は急に高騰することがあるから、裏で手を回して主人公の名前を操作しようとする者も出てくる。

 無論、過剰な氏操作はインサイダー取引として摘発されたが、ボーダーライン上の行為はあちらこちらで横行していた。

 他方、犯罪を行った者と同じ氏は急激な値崩れを起こす。後年、政府は時価にすることで犯罪防止を画策したのではないかと言われているが、定かではない。


 その関連で有名な出来事が、『佐藤氏事件』だ。


 日本における氏の最大派閥『佐藤』氏は、姓の自由化が実現した当初、沈黙を守っていた。

 そもそも数が多すぎて狩りの対象にされたほどであるから、氏に思い入れがない者が多い。むしろ数が減った方が有難いと思う者すらいたが、氏変更の市場動向を見守っていた彼らは驚愕した。

 第一回目の氏統計の結果、「佐藤」は法改正前よりも若干ながら増えていたのである。どうやら平凡な氏には潜在的なニーズがあったらしく、それを取り込んだらしい。

 そこで彼らはやっと危機感を持った。

「わざわざ佐藤を名乗りたがる者であるから、その背景に碌な理由はあるはずがない」

「このままでは佐藤と名乗っただけで犯罪者であることを自称しているのと同じになってしまう」

 そう考えた『佐藤』氏は、佐藤氏の佐藤氏による佐藤氏のための自衛措置を講じた。歴史的に悪名高い『佐藤自警団』を結成した訳である。

 そして、これには佐藤に次ぐ大派閥である「鈴木、高橋、田中」も追随した。佐藤が管理を強化した場合、次に狙われるのは自分達の氏だからである。

 トップフォーによる自主管理は苛烈だった。

 なまじ氏が一緒であるから同族意識が強く、お互いの利害の話だから多少の不合理は許容されてしかるべきだと思われたのだろう。

 同じ氏を名乗る者のうち素行の怪しいものは自警団に取り囲まれて、自由氏への変更を強制された。中には力づくの場合もあったらしいが、真相は定かではない。

 それにより氏のイメージが守れたかというと、実はそうではなかった。

 自警団の無茶なやり方が他の氏の反感を買い、特に佐藤氏は「佐藤=怖い」というマイナスイメージを作り上げてしまったからである。

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