第一話 長瀬君は分からない。 三
そのまま、どれくらいの時間が経過したのか定かではない。
次に修一が我に帰った時、周囲はすっかり元の状態に戻っていた。
もともと物理的な被害は元修一の身体しかなかったので、ぱっと見で事故の痕跡はどこにもない。よくよく見ると、車道に急ブレーキの痕跡が残されていたが、車のほうは既になくなっている。彼の血が大量に流れたところは、これまた大量の水に洗い流されたらしく、何も残ってはいない。しかも濡れてさえいないので、今はその上を気にすることもなく車が走り去ってゆく。
――えっ?
流石に修一は、そのことに違和感を持った。
いくらなんでも早過ぎる。これではまるで、事故そのものが架空の出来事のように見える。
修一は周囲を見回し、近くにコンビニエンスストアがあることに気がついた。
彼は、その方向に向かって歩き出す。なんだか重力を感じない、ふわふわとした感覚だが、前には進む。そのことが「幽霊になった」という事実を再認識させる。修一はいかにも幽霊らしく、顔を青くしながら、コンビニの前まで移動した。
入口の自動ドアが開いたので、中に入る。
すると、彼の目的としたものが左側の雑誌コーナーの隣に立っていた。新聞――修一はその中に丸めて収められている経済新聞を見つめた。上部に印字されている日付が目に飛び込んでくる。
それは、彼が死んだ日の二日後になっていた。
その間の記憶がまったくない。疲れたり、眠くなったり、お腹が空いたりした覚えもない。ということは、どうやら幽霊は生理現象や時間感覚と無縁ということなのだろう。
そう考えた途端、修一の頭の深いところがじんわりと痛んだ。
そして、まず最初に妹の悲しそうな表情が頭に浮かぶ。
それは、父と母の悲しそうな表情に分裂してゆく。
加えて、同級生や先生、自宅近所の人々や、よく顔を合わせる『親戚』へと分岐する。
修一は踵を返した。
コンビニのドアから外に飛び出すと、ふわふわした足取りをもどかしく思いながら、それでも激しく動かして前に進もうとした。
前からやってくる人々が、彼を素通りして行く。
それでもお構いなしに、修一は走ろうとした。
しかし、一定速度以上はどんなに一所懸命に足を動かしたとしても、前には進まない。どうやら物理法則とも無縁になってしまったらしい。
――ならば!
修一は特に何の違和感も抱かずに、自分の家を頭に思い浮かべた。
頭の中に明確なイメージが立ち上がる。彼が自転車をぶつけて作った門扉の傷までが鮮明に思い出される。
――行っけええええっ!
修一は頭の中でそう叫ぶ。
すると――次の瞬間、彼は自宅の前にいた。
あまりにも簡単にそうなったので、修一は呆然とする。
ただ、すぐに我に帰って頭を振った。どうやら、時間感覚がなくなっているせいで、一つのことに囚われてしまうと、底から抜け出すのが難しいらしい。経験からその仮設を導き出した修一は、努めて心を平穏に保つことにする。彼は昔からそのことには慣れていたので、さほど困難は感じなかった。
ただ――それでも足は前に進まない。家の中で起こっているであろう出来事のことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。
彼が逡巡していると、家の前の通りの向こう側から中年女性が歩いてきた。
名前は知らないが、何度か見かけたことがあるご近所さんである。彼女は特に何の表情も浮かべることなく、修一の家のほうに向かって歩いていたが、家の門の前まで来ると急に眉を潜めた。
小さく頭をたれる。
その一瞬、眉間に数本の皺が寄る。
そして、無言のまま彼女はその場を立ち去ってゆく。
一連の動作を、修一は驚きをもって見つめた。特に何のつながりもない、顔見知りというには薄すぎる関係性しかない彼女が、自分の師を認識して、悲しみを浮かべていたことに、修一は当惑すら感じた。そして、自分の死が周囲に与えている影響を、先ほど以上に重く受け止める。
これは並大抵のことではない。
足はさきほどまでよりも一層重くなったが、それでも修一は前に踏み出した。門を開いて家の敷地内に入る。重い気持ちとは裏腹な軽い足取りで、前に進む。
そして――家の玄関に貼ってあった紙に気がついた。
その紙には、修一の通夜及び葬儀の日時が書かれている。しかも、通夜の日時は今日だった。修一は、肺が空になるのではないかないかという勢いで息を吐く。そして、通夜の会場がいつもの通学路の途中にある、散々見慣れた建物であることに気がついた。
――よし!
彼は再び、行くべき場所を脳裏に浮かべる。
いつもは人影もないのに、たまに車と黒い服の人々が密集する、白っぽい建物。
部分的に剥がれ落ちた外壁のタイルまで、鮮明に思い浮かべることが出来る。
そして、そのことを考えつつ、修一は頭の片隅で別な出来事を認識していた。
自分の家の窓――カーテンの向こう側から二つの目が修一を見つめている。
見えないはずの修一の姿を、疑いようもないほど明確に捉えている。その眼を認識した修一は、即座にその持ち主が誰なのかを悟った。
――ニヤ……
彼が可愛がっていた三毛猫である。彼女が窓辺から修一のほうを見つめていた。
古来、猫には不思議な力があると言われているが、どうやらそれは事実らしい。
修一はニヤの視線を感じながらも、頭の中で叫んだ。
――行っけええええっ!
次の瞬間、彼は葬儀場の前に立っていた。
まだ通夜の時間には早かったらしく、広い駐車場に車は殆どなかった。奥のほうに数台止められているのは、ここの従業員のものだろう。
修一は葬儀場の入口のほうを見る。そこには彼の名前が大書された立て看板があり、その黒々とした立派な姿が余計に事実を際立たせていた。
修一は正面玄関から中に入る。
直後、彼の心臓は大きく跳ね上がった。その先にあるホールの中央に、父が立っていたからである。
久しぶりに見た――何故か修一はそう鮮明に感じたのだが――父は、すっかりやつれていた。
会場の係員と話をしながら、時に父特有の優しそうな笑みを浮かべていたが、それは社交辞令のようなもので、内心はかなり無理をしていることが、修一には手に取るように分かった。
――こんなことをしている場合ではないんだけどな。
そんな父の心の声が聞こえてくるような気がする。
修一は父親のほうに手を伸ばして何かを言おうとしたが――出来なかった。
ここで父が自分を全く認識してくれなかったら、余計に辛くなるような気がしたのである。
そのため修一は黙って身体の向きを変えて、辺りを見回した。
階段の横に『ご遺族様控室』という表示があることに気づく。修一は躊躇うことなく階段に向かって歩き始めたが、足は僅かばかり震えていた。お年寄り向けに、広めに作られた階段を上ってゆく。上りきったところには広めのロビーがあり、その先には大きな扉が等間隔で並んでいた。葬儀を行うホールだろう。
向かって左側のほうを見ると、壁から『ご遺族様控室』という表示が生えていたので、そちらに向かって修一は歩き出した。
足は極限まで重い。
一歩一歩が途轍もない重労働に感じられる。
それでも前に向かって歩みを進め、控え室の扉の前まで進んだ。
ドアノブが目の前にある。
彼はそれを掴もうとする。
そして――身動きが出来なくなった。
部屋の中から、聞き覚えのある二人の声がした。
いや、正確には『声』ではない。それはいかにも『慟哭』という言葉が似つかわしい、魂を振り絞るような悲しい響きであった。きちんと締められた扉の外側にいても、感情が疑いようもなく心に突き刺さってくる。
修一がそこに立ち尽くしていると、後方から足音が聞こえ、彼の父が慌てた様子でドアノブを握り締めた。身体が二重に重なった瞬間、修一は父の狼狽を知る。父は扉を開け放ったままで、和室になっている控室に飛び込むと、右に転進して姿を消した。
暫くすると、慟哭は二重奏から三重奏へと切り替わる。
その瞬間、修一はひどく後悔した。
少女を助けたことにではない。
そのことに悔いは一切ない。
ただ、このいとしい三人だけをこの世に残してしまったことを、彼は深く後悔した。
*
そのまま暫く放心してしまったらしい。
次に彼が気がついた時には、二階のロビーは人で一杯になっていた。
よく見ると、控室に近いところには親戚がたむろしており、その向こう側には彼の同級生の姿がある。仲のよかった男友達達が、いつもとは違った神妙そうな顔をしていた。その中に家が近かったので親しく付き合っていた真崎真治の姿があるのに、修一は気がつく。そして、その後ろに隠れるようにして妹の真崎瞳が立っているのが眼に入った。
真治は目を伏せており、瞳は怒ったように前を向いている。
最近、以前のように親しげに笑いかけてくれることがなくなった瞳のことに気がついていた修一は、小さく息を吐いた。
いずれにしても、その場の誰もが修一に気がついていない。
時間になって、葬儀場のホールに全員が座った後も、修一に気がつく者はいなかった。
ホールの最前列には家族が座っている。修一はそちらに近づく。そして、気丈に頭を上げている父と、いまだ涙に濡れたままの母と妹の顔を見つめる。
やり切れなかった。
意を決して、
「ごめんなさい」
そう言って目の前で頭を下げてみたが、三人が彼のことに気がつくはずもなかった。
ただ、やり切れなかった。
正面の祭壇には、屈託なく笑った彼の写真が飾られている。それは、修一の高校入学記念に家族全員で写真館で撮影したものだった。その時の喜び――主に家族が満面の笑みでそのことを祝ってくれたことに対する喜びを修一は思い出す。
ただただ、やり切れなかった。
「導師の御入場です」
司会者の声がホール内にしめやかに響く。
ドアが開いて、その向こう側から小学校の時の担任の先生――菩提寺の住職が姿を現した時、修一は淡い期待を抱いた。
――修行をつんだ先生ならば、あるいは。
しかし、現実はそう都合良くはいかない。
住職は彼の姿に気がつくことなく、中央に設えられた席に着く。そして、読経が始まった。
自分の通夜に同席して、知り合いの住職の読経を聞くというのは、実にシュールである。しかし、修一はそれどころではない。
読経が始まった途端、再び母と妹が我慢しきれずに泣き出したからである。それにつられて、会場に居合わせた全ての人々が涙を見せ始める。中には修一が顔を覚えていない者も含まれており、彼はそのことに少しだけ狼狽した。
その中で、真崎瞳だけが頭を祭壇に向けて真っ直ぐに上げている。彼女は相変わらず口をきつく結び、怒ったような顔をしたまま――両目から滂沱の涙を溢れさせている。
その顔を見つめていた時、修一は急に『ある感覚』にとらわれた。
それは、淡雪が掌の中で溶けるような感覚だった。
身体が次第に軽くなり、足元がおぼつかなくなる。
住職の読経が緩やかなリズムを刻む。それに呼応するかのように、僅かに残されていた重力の束縛がふっと消えて、身体が宙に浮かび上がるような気がする。
いや、実際に浮かび上がる。
――ああ、これかぁ。
修一は頭の上を見回してみる。残念ながら天使はいなかった。そういう演出はないらしい。
試しに空中で一回転してみる。すんなりと世界が回転して、上下が元に戻る。スムース過ぎて自分でもどうやったのか分からない。
右に動きたいと考えてみる。やはりすんなりと右に動く。実に具合がよい。
――まあ頃合かな。
やり切れないと思っても、時に後悔し、狼狽したとしても、修一は自分の死を悲しいとは感じなかった。
ただ残された家族と友達に申し訳ないとは思いつつ、もう何も出来ない自分を受け入れていた。
修一は空中を軽く蹴ってみる。身体は煙のように浮かび上がる。上昇する。
どうやらこれで最後らしいので、修一は家族のほうを見つめた。こんな、斜め上の角度から見下ろしたことはなかったので、割と新鮮な感じがした。
――本当にごめんね。
そう考えると気分が僅かに重くなったが、身体は軽いままだった。
――でも、もう僕にできることは何もないんだ。
彼は意を決して、上空を目指すことにする。
ホールの天井を突き抜けて、彼は次第に上空へと浮かび上がってゆく。自分が暮らしていた町を見渡して、別れを告げる。既に身体は雲へと近づき、上空はなんだかいい感じに輝いている。
――綺麗だな。もう少しで雲の中に入りそうだ。
そう思ったところで――彼は急に重力の抵抗を感じた。
身体が急に落下してゆく。
唐突な変化に頭が追いつかない。
それでも落下の速度は速まってゆく。
まるで実際に身体が空中に投げ出されたかのようである。
地面が近づく。このまま叩きつけられたら前衛芸術どころの騒ぎではない。雲散霧消しかねない勢いである。
しかし、怖くはなかった。
――ああ、やっぱり。
という諦めとも納得ともつかない思いが頭の中に浮かぶ。なんとなくそんな気はしていたのだ。
修一は急速に葬儀場の駐車場に近づき、そのまま――何事もなくアスファルトの舗装面に横たわった。
衝撃はない。
実にあっけなく、実にそっけなく、実にさりげなく、彼は駐車場にただ横たわっていた。
それもなんとなく想定出来ていたことだったので、修一は空を見ながら苦笑した。
――どうやら天国には行けなかったらしいな。
それとも極楽のほうだろうか。
長瀬君は成仏できない。 阿井上夫 @Aiueo
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