第一話 長瀬君は分からない。 二
今、この状況を冷静に分析している長瀬修一らしき人物はいったい誰なのか。
物理的にはどう考えても前衛芸術のような形状となった長瀬修一のほうが『本体』である。しかし、長瀬修一本人の感覚としては、どう考えてもこちらの立ち尽くしている自分が、オリジナルの自分である。
ただ、なんだか自分自身が死んだという自覚に乏しいのと、そのことを悲しいとも感じていない自分が、実に怪しい。少しだけ頭が痛くなったので、修一はふとこんなことを考えた。
――幽霊でも頭痛はするんだな。
あまりにも自然にそう考えることができたので、修一はかえって驚いた。
なるほど、そうであれば突風に身体が小揺るぎもしなかった理由がはっきりする。あの瞬間、修一の精神と肉体が分離したに違いない。
――いやいやいや。
なんで自分がそんなに冷静に考えられるのか、やはり分からない。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。そしてそれはだんだんこちらに近づいている。
かつて修一だった骸には、人々が群がっている。そしてそれはだんだん数を増してゆく。
それを他人事として眺めている修一がいる。彼はやはり呆然としていた。あまりにも呆然としていたので、過去の出来事を思わず思い出した。
*
それは、かつて彼が平日の昼に、閑散とした駅のホームで特急の通過待ちのために停車していた電車の中に座っていた時のことである。
修一は電車の進行方向左側に座っており、電車の扉は進行方向右側が開いていた。ちょうど日差しの差し込む時間だったため、修一の向かい側の窓は、殆ど日よけが降ろされていた。
そして修一の視界の先、ホーム上には荷物を抱えた十代後半ぐらいの少年がいて、なにやら薄笑いを浮かべながら歩き回っている。それ自体は、どうということもない日常の風景といえないこともない。
少年が荷物をホーム上に置いたのが見える。
そして、彼は日よけの向こう側に消える。
それと同時に特急列車が駅に入ってくる。
甲高い急制動の音。
それに遅れてホームに鳴り響く非常ベル。
それで修一は、目の前で起こった出来事が何であるのかを理解する。だが、彼が最も衝撃を受けたのは次の瞬間だった。
同じ車両に乗っていた他の乗客達が、慌ててホームに飛び出していき、向かい側の特急列車に群がり始めたのである。その行動を目にしながら、修一は身動きが出来なくなってしまった。
*
今もその時と同じように、修一の身体が動かない。これは物理的なほうではなく、精神的なほうである。
修一の身体に群がった群衆の何人かは、スマートフォンを取り出し、彼の前衛芸術のような身体にそれを向けている。
それでも修一は動けない。これは物理的なほうと精神的なほうに共通している。
救急車がサイレンを鳴らしながら近づいてくる中、彼は黙ってその場に立ち尽くしているしかなかった。
救急車から飛び出した救急隊員達は、群集を手早く押し退けると、元修一の身体を手早く布でくるむ。
そうこうしているうちに、今度はパトカーがやってくる。
パトカーから飛び出した警官は、事故直後からまったく車の中で身動きできなくなっていた老人に近づき、車の窓を叩く。老人は怯えたような顔をしながら、窓を下げる。
あちらこちらで同時進行する出来事を、修一は見守ることしか出来ない。
誰も彼の存在を気に止めることはなかった。まるで彼がいないかのように、誰もが傍らを通り過ぎてゆく。
そして――修一が背後に気配を感じると同時に、男性が彼の身体の後ろ側から前方へとすり抜けていった。
風すら感じないほどにあっけなく、である。
その瞬間、修一はやはり呆然としていた。
生前の自分なら心臓が跳ね上がるほどに驚いたに違いない。
――生前?
修一は自分が自分の死を自然に受け入れていることに気づく。
と同時に、唐突に妹の読んでいたライトノベルのことが頭をよぎる。それは「人助けをしたことで死んだ青年が、女神の力で異世界に転生する」話だった。
彼は周囲を見回してみた。特にそれらしき人物はいないので、なんだかがっかりである。いたらいたで驚きだが、まあ、空想の話だからなと納得する。
――いやいやいやいや、だからちょっと待て!
異世界転生のほうは駄目で、幽霊のほうは構わないという論理が既におかしい。
まあ、実際になってしまったものは仕方がないので受け入れるしかないのだが、それにしても「すんなり」というのはおかしい。
混乱した思考により麻痺したようになりながら、彼はその場にしばらく立ち尽くした。
そうこうしているうちに、元修一だった身体が救急車の中に収められたのだろう。再びサイレンが鳴り出したので、修一は狼狽した。
「あ、待ってください!」
しかし、その声はもちろん届かない。救急車は無慈悲にも――これは修一の主観だけの話で、実際にはそうではないのだが――その場を速やかに立ち去ってゆく。
「……待って」
そう呟いた修一は、右手を救急車が去った方向に伸ばしたまま、しばらく呆然としていた。
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