第一話 長瀬君は分からない。 一

 その瞬間、長瀬ながせ修一しゅういちは『風』を感じた。

 しかも、それは穏やかな微風そよかぜではなく、猛烈な突風である。それが彼だけをその場に残し、他の全てのものをあちら側に吹き飛ばしたかのような感じがした。

 ただ、実際のところ彼は道路上に呆然と立ち尽くしている自分を意識していた。突風に小揺るぎもしなかったことが大いに不思議であったので、「もしかすると風のほうが気の迷いだったのかもしれない」と考えてみる。

 ところが、歩道から女性の甲高い悲鳴が上がったのを聞き、その女性が涙を流しながら震えた指で差している方向に視線を向けた修一は、事実が彼の感覚とは全く異なる方向に向かって進んでいることを知った。

 現実世界の『長瀬修一』は、それはもうものの見事に、疑いようもないほどの確実さで、死んでいた。

 見覚えのある服――朝、修一が自分で選んだものだから当然なのだが――を着た人物が、約十三メートル離れた路上に横たわっていた。

 手や足が、普段なら絶対に向かない方向に捻じ曲がっている。よく見ると身体も、まるで中心軸を失ったかのように――いやいやこれは客観的事実で、背骨が折れてありえない方向に曲がっていた。

 それに、思った以上に大量の血が身体を中心として広がっていた。なんだか思ったより色が濃い。

 そして、呆然として立ちすくんでいる修一から、その捻じ曲がった身体に向かって、何箇所かの血だまりが間隔を置いて存在していた。

 それは間隔が次第に狭まり、逆に血の跡が大きくなっているように見える。要するに「何度か地面にたたきつけられては弾み、最終的に着地した」ということだろう。

 修一は、そこまで冷静に状況を分析した。

 倒れているのはどう見ても自分だが、実際には立ってそれを見ている自分もいる。わけが分からない。あまりにも不条理な光景であったがために、修一は、

 ――そういえば!

 と、こうなる直前の現実の出来事のほうを急に思い出した。これは現実逃避かもしれなかったが、思い出してしまったものは仕方がないので、考えてみる。

 確か、自分は家を出て駅に向かう途中にある、交通量の多い道路の横断歩道で、信号待ちをしていたはずだった。

 ちょうど車の切れ目だったのだろう。道路の向かい側で、小さな女の子がモンシロチョウを目で追いかけているのが見えた。母親らしき女性は厳しい顔でスマホに何か喋っており、注意が完全にそちらに持っていかれていることも分かった。

 女の子がモンシロチョウに、モンシロチョウのような小さな手を伸ばす。

 それと同時に、道路の向こう側から制限速度を遥かに超過した車が姿を現す。

 後からよくよく考えてみると、本来同時に見えるはずのないものだったが、修一には確かに同時に見えていたような気がした。

 しかも、車を運転している頑固そうな老人が二つ折りの携帯電話を片手に、こちらも何かを叫んでいる。そこまで観察できたことも不思議だが、咄嗟とっさの時の集中力というものかもしれない。

 それはともかく、道端から路上のモンシロチョウに手を伸ばす少女と、携帯片手の老人が運転する車は、非常に相性が悪い。前世からの因縁ではないかと思うほどに悪い。

 ましてや、少女がバランスを崩して路上に倒れこんだとすると、なおさらである。

 修一には、少女の「あ」という顔と、老人のまったく周囲に意識を向けていない顔が、またもや同時に知覚された。

 そして、彼は生来のお人好しである。自分のことよりも他人のことを多く考える性質である。それゆえ、その時も意識する前に身体は動き始めていた。

 なんとも皮肉な条件反射であり、手前の車線に車が走っていたら先に秀一のほうがはねられていたかもしれなかったが、運の良いことに(または運の悪いことに)、そちらの車は来ていなかった。

 修一は道路を横切ると、路上に倒れこんだ少女を抱き上げる。

 そして、顔を上げると割りと体格の良い男性が目の前にいたので、そちらのほうに少女を投げる。

 この時点で修一は「二人同時に助かる」という道を放棄していたことになるが、どうして即座にそう判断したのかは彼にも定かではない。

 ただ、その判断は実に正しく、少女が彼の手から離れた直後に彼は風を感じたのである。そうしなかったとしたら、結局は二人とも巻き込まれていただろう。

 今、小さな少女は急に投げられて唖然としていた。

 今、体格の良い男性も急に投げられて唖然としていた。

 しかし、彼は自分の役割を完全に果たしていた。男性に受け止められた少女の身体には、何の問題もないように見える。

 修一は安堵のあまり息を大きく吐いたが、それと同時に、

 ――意識のほうも無傷だとよいのだけれど。

 と危惧し……そこで、やっと彼はその『感覚』が実に異常なものであることを自覚する。

 ――いや。

 いくら彼が生来のお人良しでも、それはあんまりな話だった。自分の身体があそこでおかしな具合になっているのを客観的に分析しつつ、その引き金となった少女の精神的安寧を希うというのは、いくらなんでも善人過ぎる。

 ――いやいや。 

 よくよく考えると、問題の本質はそこですらない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る