前奏曲(プレリュード)

 安物の化繊が奏でる耳障りな衣擦れの音。


 篠山しのやま幸平こうへいは目を覚まし、そしてもやがかかった頭で、いつものようにこう考えた。

 ――またやってしまった。

 嘘くさいほど白い蛍光灯の明かりが、白い掛け布団を照らしている。その掛け布団を揺らしながら、すっかり細くなってしまった五本の指が幸平の頭髪を優しく撫でているのを感じる。

 大切なものに触れる時の、柔らかな指先の動き。

 ――多分、いやきっと彼女は今、微笑んでいるはずだ。

 彼が眠っている間中、ずっとそうしていたのだろう。思いを指の一本一本から感じ取ることが出来る。

 幸平はいつものように涙が出そうになったが、しかし今はそんなことをしていてよい時ではないし、そんなことをさせてよい人でもない。

 幸平は驚かさないように、ゆっくりと頭を動かした。指が頭から離れてしまうのを残念に思いながらも、彼は静かに上体を起こすと恥ずかしそうな顔で言った。

「ごめん、香織。また寝てしまったみたいだ」

 目の前のベッドに横たわっていた萱森かやもり香織かおりは、目を細めると心配そうな表情で言った。

「幸平君、とっても疲れているんだね。無理をしないほうがいいよ」

「大丈夫、俺は丈夫だから」

「病院、本当は苦手なんでしょう? 見えすぎると大変だよね」 

「そんなことはないよ。心配しなくても大丈夫だよ」

 幸平は笑って答えた。

 体質の件を人からとやかく言われるのは好きではない。仮に他の人から同じことを言われたら、条件反射で反発していたと思う。

 しかし、同じ言葉を香織から言われると、素直に聞くことが出来た。彼女の言葉には真心が籠もっている。

「それよりも香織のほうが安静にしてなくちゃ」

「うん」

 幸平に促されて、香織は掛け布団の中に潜り込む。口から上だけを外に出すと、彼女は、

「でも、幸平君の頭を撫でているの、とっても楽しかったよ」

 と、頬を少し赤くして言った。

 幸平も少し恥ずかしくなって、部屋の中を見回す。

 そして、窓際に置かれている小さな鉢植えに目を留めた。

 本来、病室に鉢植えを持ち込むのはあまりよしとされないものなのだが、

「切り花は死に近づくだけの存在だから嫌、これからも生き続ける鉢植えのほうが好き」

 と、彼女が言ったために自宅からここに持ってこられた。もっともな意見だが、幸平だけが本当の理由を知っている。

 ドラセナ・マッサンゲアナ――別名「幸福の木」と呼ばれているその観葉植物は、昔、幸平が香織に手渡したものである。彼女はそれが自宅で放置されてしまうのを避けたかったのだ。

「随分と大きくなったね、幸福の木」

「うん。なんだか私に似ているよね」

 そんなことはないんだけど――そう、幸平は思う。むしろ、香織の幸福を吸い取って大きくなっているようにも思えるのだが、香織は自分の幸福の量を現しているのだ、と言っていた。

 幸平は聞かされていなかったが、香織の病気は大層面倒臭いものらしい。彼女の母親がぼやかすような言い方をしながら涙を流していたので、幸平にもその深刻さが伝わってきた。

 ベッドの上から出られなくなって三ヶ月が経過しており、訊ねてくる者も両親と幸平以外は殆どない。両親も共働きであったから、日中は幸平だけだった。

 時刻はそろそろ午後六時。香織の母親が顔を出す頃だ。

「俺はそろそろ帰るよ」

「うん――幸平君、明日も来てね」

 いつも他人のお世話をすることばかり考えている香織の数少ないお願いに、幸平は明るく笑って頷いた。

「もちろん」

 幸平はにこやかに手を振りながら病室を出る。

 そのまま十五歩ほど真っ直ぐ病院の廊下を歩き、右に曲がったところで――両手を両膝について項垂うなだれた。

 香織の前では強がってみせたものの、病院という環境は幸平にとって正直厳しすぎる。

 香織の病室にしても、彼女が入院する前に男の子が亡くなったのだろう。彼は部屋の片隅で膝を抱えながら座り込んでおり。幸平のほうをずっと見つめていた。

 孤独な霊は自分に向けられた視線を敏感に捕捉する。視線があった途端に「見えている」ことを悟るから、それ以降は何かにつけて姿を現すようになる。

 鬱陶しくて仕方がなかったが、出てくるなと言っても無駄であるから、気にしないようにする他ない。しかし、それでも気になる。

 病院には他にも同じような霊があちらこちらに居座っており、幸平が「見えていること」に気がついて姿を現す。昔からのことなので慣れてはいるものの、数が多すぎて心の休まる暇は無かった。


 幸平が、この自分のおかしな体質に気がついたのは、小学校低学年の頃である。

 父親の転勤に従って移り住んだ借り上げ社宅で、彼は「部屋の中に何かいる」と大泣きしたらしいが、詳しいことは全く覚えていない。

 親もさすがに会社に「息子が何か見えると言って怯えているので、部屋を替えて欲しい」とは言えないから、幸平の言い分を全く聞こうとはしなかった。

 幸平が過敏に反応していると考えて、宥め、すかし、最後には怒り出す。他の事は何一つ覚えていない幸平も、その時の親の迷惑そうな顔だけははっきりと記憶している。

 それがあって、彼は「自分が見ているもの」のことを人に話さないことにした。いくら話しても理解してもらえないし、気持ち悪がられるだけだったからである。


 香織に気づかれたのは幸平の気の緩みからだった。

 幸平が中学校に進学したと同時に、親がマンションを購入して定住することになった。

 そのマンションの隣の部屋に住んでいたのが香織であり、同じ学校の同じ学年、クラスも同じという念の入れ方であったがために、自然に話をするようになった。登下校の時も、顔を合わせたら無視するのも変であるから、一緒に帰ることになる。

 その頃になると幸平もすっかり「おかしなものが見える」という体質に慣れており、街角で幽霊とすれ違う時には意識せずに自然と道を譲るようになっていた。

 相手が譲ってくれることはないし、重なるようにしてすれ違うのも何だか気味が悪かったからだが、その様子をしばしば目撃していた香織が、真相に気がついたのだ。


 ある日、いつものように学校から帰る途中、子供の幽霊が前から走ってきた。幸平は特に何も考えずに身をかわす。すると、

「幸平君、ちょっと聞きたいことがあるの……」

 と、躊躇いがちな香織の声が背中から聞こえてきた。

 幸平は怪訝な顔で振り返ると、

「いいけど、どんなこと?」

 と香織に訊ねる。そこで香織がいつもよりも真剣な表情をしていることに気がついた。

 香織が口を開く。

「ずっと前から幸平君のことを見ていて、何だかおかしいなと思ってはいたんだけど、今日になってやっと気がついたことがあるの。幸平君、今いったい何を避けたの?」

「えっ、俺は別に何もしていないし、何かが見えているわけでも――」

「誤魔化しても駄目だよ。幸平君、割と頻繁に同じような身体の動かし方をしているんだから。まるで誰かを避けているみたいな。私には分かるの。幸平君、何か見えているんでしょう?」

「そんなことがあるわけないじゃないか。俺にしか見えない――」

 そこまで口にしたところで、幸平は絶句した。

 なぜなら香織が大きな瞳からぽろぽろと涙を零し始めたからである。彼女は震える声で言った。

「誰にも言えないって、とても辛いことなんじゃないの? それを、ずっと我慢しているって、とても大変なことじゃないの?」

 幸平は、まさか「見えていること」を無条件で受け入れてくれる相手がいるとは思っていなかった。

 加えて、彼の辛さに共感して涙を流してくれる相手がいるとは、全然期待したこともなかった。

 幸平の心のガードが弾け飛び、彼は素直に認めた。

「うん。実は幽霊が見えてる。そして、とても辛いんだ」


 秘密を共有した二人は、それまでよりも一層親密になった。

 幸平が「見えているもの」のことを香織に語り、香織がそれを受け止める。それによってどれだけ幸平が救われたか分からない。

 中学生の三年間を、二人は同じさやの中に納まった豆のように過ごした。高校は学力差の関係で別々になってしまったが、そのまま世界を共有していけるものと思っていた。

 ところが、高校一年生の秋に、香織の身体に異変が生じた。

 体調を崩し、自宅に籠もることが多くなり、更には入院することになる。その時点で彼女の母親から漠然とした話を聞いた幸平は、自分の半身を切り裂かれたような痛みを感じた。

 香織の前では決して弱気なところを見せなかったが、一人になると途端に悲しみや不安が幸平に押し寄せてくる。幾度も眠れない夜を過ごし、割り切れない思いを抱きながら道を歩き、月に向かって慟哭した。

 それでも彼女の病室では明るく振舞い、元気づける役目に徹する。

 しかし、彼も「そろそろ限界である」ことに気がついていた。どう見ても香織の身体がこれ以上持つとは思えなかったのだ。


 幸平は蛍光灯で白々と照らされた病院の中を、間違えて昼間に現れた間抜けな幽霊のように歩いた。

(ちなみに、間抜けでなくても昼間に出る幽霊はいる)

 そして、頭の中にこんな思いが沸き上がろうとするのを、抑えようと必死になっていた。

 ――彼女が幽霊になってくれたら、ずっと一緒に居られるのに。

 甘美な考えだった。

 そうなれば幸平は香織と、少なくとも自分が死ぬまで一緒にいることが出来る。離れ離れにならなくてすむ。彼女は常に彼の傍らにいて、しかも他の誰もそれに気がつかない。二人だけの世界を思う存分満喫することが出来る。

 そんな風に右の脳が考えると同時に、

 ――なんという馬鹿げたことを。それが香織にとって幸せなことかどうかぐらい、考えれば分かることじゃないか。

 という声が左の脳から聞こえてくる。

 死者をこの世に留めおくことの残酷さを、これまで幸平は散々見つめ続けてきた。だからこそ、彼にはそのことが身に染みてよく分かっているはずだった。

 にもかかわらず、幸平はそれ以上の現実を見つめようとはせずに、二つの考えの間をぐるぐると回り続けている。

 香織が入院していたのはその町で一番大きな大学付属病院で、建物の内部は複雑に入り組んでいた。

 無秩序な増改築を続けた結果、伏魔殿のような様相を呈している。幽霊以外の魔物が潜んでいてもおかしくはない。

 幸平は入院患者の病棟を抜けて、静まり返った時間外の外来診察室の前を通り過ぎる。足音が廊下に響いて、寂しさが更に増した。知らないうちに瞳から涙があふれ出している。

 ――果たして香織のいない世界で自分は生きていけるのか。

 考え過ぎだと分かっていても、考えずにはいられない。どうにも思考が止まらない。

 再び香織と永遠に添い遂げる方法を模索しそうになって――


 脇から急に出てきた子供の幽霊に気がついて、咄嗟に身を捩ってかわした。


「ほう」

 そんな声が後ろから聞こえてきたので、幸平は慌てて振り返る。

 するとそこには、背の高い外国人男性が立っていた。

 白い髪と白い肌。碧眼に鷲鼻。驚くほど細い身体をスリーピースのスーツでぴったりと覆っている。見事な紳士振りだが、日本の病院の中でそれに出会うと、どうにも日常からかけ離れた場違いな姿にしか見えない。

 幸平は思わず、

 ――死神?

 と考えてしまった。

 男は多数の皺が刻まれた顔を更に皺だらけにしながら笑った。

「君にも彼らが見えるのだね」

 若干アクセントにぎこちなさが残るものの、ほぼ完璧な日本語である。

「あの――ということは貴方にも見えるのでしょうか」

 幸平は現実離れした光景にすっかり頭が麻痺していたため、思わずそう問いかけてしまった。慌てて口を押さえるが、もう遅い。

 男は落ち着いた深みのある声で笑った。

「大丈夫です。私にもちゃんと見えておりますから。それから、私は死神ではありませんよ」

「……心まで読めるのですか?」

「いえいえ、私を見た日本人は、殆どの方がそう考えるものですから」


 男は、ディミトリアス・チェンバースと名乗った。

「ディムと呼んで下さい。生まれはイングランドで、日本には十五年ほど前に来ました」

 二人は時間外窓口の前に置かれていた長椅子に腰を下ろして話を始めた。

「お仕事の都合ですか?」

「イエス。その通りです。友達になった日本人が是非にと誘ってくれたのでやって参りました」

「どんなお仕事をされているのですか」

「日本語ですと――そうですね、除霊と言えば宜しいでしょうか。英語で言うところのエクソシストです」

 幸平はディムの答えに驚く。本当にそんな職業があるとは思ってもいなかった。

 ディムは目をアーモンドのような形にして笑った。

「何を驚いているのですか? エクソシストはローマ法王も認める由緒正しいお仕事ですよ。日本にも昔から霊媒師がいるではありませんか」

「はあ、確かにその通りなのですが――しかし、実際に霊が見える人は殆どいないのでは」

「おりますよ。もちろん、大勢とまでは私も申し上げませんがね」

 ディムは『住宅問題研究会』という団体に所属しており、そこで住宅に取り付いた地縛霊のお祓いを生業にしているという。

 そもそも、霊というのは決して珍しい存在ではない。

 日本のような狭い国土に人が密集して住んでいる国の場合、かなりの高確率で地縛霊つき物件にあたる。幽霊が生きている人間に対して直接の危害を加えることは出来ないから、普通の人は気がつかない。

 しかし、稀に力の強い地縛霊が現れて、住民が頭痛や体調不良に悩まされることがある。

 賃貸物件の場合、それによって借り手が安定しないことがあるため、昔から不動産業者の間では霊媒師による除霊が頻繁に行われてきた。

 また、医療機関も地縛霊の影響を受けて、入院患者の容態が悪化することがあり、人目を忍んで除霊が行われている。

 特に、ディムのような霊媒師には全く見えないエージェントは、重宝がられて引く手あまたらしい。

 そして、幽霊が実在することが表沙汰になると不動産賃貸業者や医療関係者にとっては死活問題であるため、この件は業界内の極秘事項として厳密な緘口令が敷かれているという。

「ディムさんは霊を消してしまうのですか?」

「いえいえ、そんなことは私には出来ませんよ。私のお仕事は、幽霊さんに納得して頂くか、幽霊さんをこの世に縛りつけている誰かに納得して頂くことなのです。もちろん、少々術を使うこともありますがね」

 ディムによると、幽霊ははかない存在で、通常は自然に成仏してしまうものらしい。

 ところが、本人に何か強い心残りがあったり、周囲の人間の激しい悲しみによって引き止められたりすると、この世に縛りつけられてしまうのだ。その原因を解消してしまえば、霊は自ら成仏するという。

「そうなんですか……」

 そこまで話を聞いたところで、幸平は項垂うなだれてしまった。

 ディムは穏やかな声で幸平に呟く。

「篠山さんは誰かお知り合いの方のために、こちらにいらしたのではありませんか?」

「――はい、幼馴染の女の子がここに入院しています。彼女はもう長くはありません」

「それはお辛いですね」

「あの、ディムさん」

「はい」

 幸平は先程まで考えていたことを素直にディムに打ち明ける。

「俺はその子のことが好きなんです。彼女だけが俺のことを、俺が見えることをそのまま受け止めてくれたんです。そして、辛いでしょうと慰めてくれました。とても嬉しかった。心強かった。だから、彼女がいなくなったら、俺はどうしたらいいのか全く分からないんです。それで、こんなことを考えてしまいました。彼女が幽霊になって自分と一緒に居てくれたら、どんなによいだろうかと」

 そこまで一気に話して、幸平はディムを見上げた。

 ディムは相変わらず穏やかな表情のままで、幸平に向かってこう言った。

「人間は常にこれからを生きる動物です。だから、絶対に過去に置き去りにしてはいけないのです。特にそれが大切な人であればあるほど」

「過去、ですか」

 幸平は話が見えなくて戸惑う。ディムは小さく笑うと、話を続けた。

「貴方のお気持ちはよく分かります。特に、見えているからこそ、余計にそう思ってしまうのも分かります。かくゆう私もそんなことを考えたことがあります」

「ディムさんもですか?」

「はい。最初の妻が亡くなる前のことです。私も『このまま一緒にいられたらどんなに嬉しいだろう』と思いましたが、結局は出来ませんでした」

「それは、どうしてでしょうか?」

 ディムは背筋を伸ばすと真っ直ぐに幸平を見つめて言った。

「篠山さんは幽霊が何か食べているところや、寝ているところを見たことはありますか?」

「それは……一度もありません」

「そうでしょうとも。幽霊は食べることもなければ、寝ることもありません。それに――歳を取ることもありません」

「……」

「なんとなくお分かりになりましたか?」

「よく分かりました。そうですね、住む世界が違いすぎるのですね」

「イエス。そのお友達がこちらの世界に残った場合、貴方が食べるところを見て、貴方が寝るところを見て、貴方が老いていくところを見ていなければいけません」

 ディムの言葉はあくまでも穏やかで、それがかえって幸平に出来事の残酷さを思い知らせる。

「その、それでは二人とも幽霊になってしまったとすれば、問題はなくなるのでしょうか」

「それこそ、この世に留まる意味すらないのではありませんか。私もあちらの世界のことまでは知りませんが」

 ディムは真面目な顔で断言した。

 幸平は今までの話を頭の中でまとめる。最後の質問に他意はない。もし幸平が一緒に死んだら香織が悲しむ。

 結局のところ、幸平には一つの方法しか残されていなかった。

 ――香織のことを想うのならば、彼女が何の心配もせずに成仏できるよう、見送るのが正しい。

「有り難うございます、ディムさん。上手くできるかどうか分かりませんが、最善を尽くしてみたいと思います」

 幸平は憑き物が落ちたように、心が軽くなっていた。


 と、その時。

 病院の外で車のタイヤが鳴った。

 ブレーキの音。

 それに続いて女性が姿を現す。取り乱した彼女の表情を見た幸平の背筋に、悪寒が走った。

 その女性は、香織の母親だった。

 

 *


 幸平はディムと共に病院の中庭に立っていた。


 月が綺麗な夜だった。

 少しだけ欠けた月は、病院の少し上のところに納まって、建物全体を照らしていた。

 その下で、幸平は病院の一角を見つめ続けている。

「すみません。こういう時、患者さんの病室には病院の決まりで血縁関係にある方しか入れないんです」

 と看護婦から言われてしまった。

 香織の両親は彼が居ることに気がつかないほど慌てており、既に病室の中に消えてしまっていた。

 これでは入れてくれるように頼み込むことも出来ない。

 そこで、せめて見送りだけはしようと、幸平は病院の中庭に出た。ディムが黙って一緒についてくる。幸平はそのことがとても心強かった。

「ディムさん。彼女が逝ってしまう前に、会うことって出来るんでしょうか」

「そうですね――貴方に気休めを言いたくはありませんので率直に申し上げますが、彼女がそうしたいと願うかどうかにかかっておりますね」

「そうですか、それなら間違いありません」

 幸平はそう言うと、彫像のように身じろぎもせず、病院の中庭に立って一角を見つめ続ける。


 暫くすると、幸平が見つめていた建物の一角が、ふんわりと明るくなった。


 しっかりと閉じられた病室の窓から沁み出すように、人間の形をしたものが現れる。

 それは窓から離れると、そのまま宙に浮かんだ。

 人間の形をしたものの頭が、ゆっくりと幸平のほうを向く。

 そして、ちょうど幸平のほうに真っ直ぐに向いたかと思うと、静かに彼のほうに漂ってきた。

 近づくにつれて、ぼんやりとした輪郭が鮮やかになってゆく。

 恥ずかしそうに笑う香織の顔がそこにあった。

 ――香織らしいな。

 死んでもなお、幸平には悲しい顔を見せないつもりらしい。そんな心遣いが伝わってくる。

 香織は幸平の目の前まで漂ってくると、そこでくるりと身体を縦回転させる。

「幸平君なら、きっと近くにいて、私を見つけてくれると思ってた」

 香織がにこやかに笑う。

「こんなに『見える』体質が有難いと思ったことはないよ」

 幸平がにこやかに笑う。

「幸平君、大丈夫? 寂しくない? 辛かったら私がずっと一緒にいるよ」

 香織がにこやかな顔で言う。しかし、その瞳には涙が浮かんでいた。

「大丈夫。辛いけど我慢するよ。寂しいけど我慢するよ。いつまでも一緒にいたいけど、君が辛くなるのは嫌だから我慢するよ。だから、先に向こうに行って、俺を待ってて」

 幸平がにこやかな顔で言う。しかし、その瞳には涙が浮かんでいた。

「分かったよ。ずっと待ってる。早く来て欲しいけど、ゆっくり来て下さい」

 香織は笑いながら涙を流す。

「分かったよ。早く行きたいけど怒られそうだからゆっくり行くよ」

 幸平は笑いながら涙を流す。

「それ、じゃあ、行くね。さよう、ならは、いわない、よ」

 香織の言葉が途切れてゆく。

「有り難う、大好きだよ、俺も、さよならとは、言わないよ」

 幸平の言葉も途切れてゆく。


 香織は黙って幸平に口づけをし、そして静かに消えてゆく。


 幸平はそれを黙って見送っていた。

「ディムさん……」

「もう大丈夫ですよ。ちゃんと成仏なさいましたから」


 それを聞いた途端、幸平は決壊した。


「我慢なんか出来るわけない! 今すぐにでも行きたい、一緒に話がしたいよ! こんなにつらい事なんか他にあるもんか! 本当は、本当は、本当はここに残って欲しかった! 残酷だろうがなんだろうが、ずっと一緒に居たかった! 馬鹿といわれても構わない、愚か者とそしられても構うもんか! 香織が、香織が、香織が――ここにいないと俺は嫌なんだぁぁ!!」


 幸平の嘆きは月の光の中で解けてゆく。

 風が慟哭を彼女に届けることはなかった。

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