第23話 快哉を叫べ






「悪いけどここから先は一人で行ってくれるかい。施しの剣の影響で魔法が使えなくなってるから飛行は無理だし、私はあのバカたちの面倒を見なきゃいけない」

「はい。ビトカさん、でしたっけ。本当にありがとうございました」

「何、どうってことないさ。私は誰にも後悔して欲しくないだけだよ」

 可愛らしい色の髪を持つ老婆は昔を思い出すように笑うと、来た時と同じようにして物凄い速さで去って行った。

 さて、とウトラはシャイアドがいるという森を睨みつけた。正直見つけられる気がしない。だがやるしかない。見つけ出すしか、シャイアドを救う方法はないのだ。

 意を決して一歩踏み出した、その瞬間。何者かに後ろから腕を掴まれ、引っ張られた。悲鳴をあげる間も無く、その何者かの顔が目に飛び込んでくる。

「どうしてお前がここにいる!」

 よく知った声だった。

 ずっと夢に見た顔だった。

 髪型も、服装も、雰囲気も、何もかも違うけれど……それでも、そこにいたのは。

「ラ……ランギ……?」

「ウトラ、お前は徴兵されてないはずだ! さっさと帰れ、取り返しのつかないことになるぞ!」

 この森は幻影でもみせるのだろうか。状況が飲み込めずウトラが突っ立っていると、しびれを切らしたランギが腕を強く引っ張ってどこかに連れて行こうとした。

 そこでウトラはやっと思い出した。自分はシャイアドを救うためにここまで来たのだと。

 ランギの隙をついて、ウトラは腕を振り払い駆け出す。

「お前ッ……!」

 ランギはウトラにすぐさま追いつくと、懐からナイフを取り出して振り上げた。

 やはりこのランギは幻影だったのか。この森には昔からおかしな出来事が起こるという噂がある。これもきっとそのうちの一つなのだ。

 ウトラが思いっきり目を閉じると、金属がぶつかり合う甲高い音が響く。顔を上げると、ランギがどこかから飛んでくる矢を弾いていた。

「伏せろ、お嬢! ッチ、この様子だとローバリの先遣隊……いや、反アズドルの危険分子といったところか……? なんにせよめんどくせえタイミングで来やがって」

 コートの下に仕込んでいた投げナイフを牽制として投げてから、ランギはウトラを引っ張って逃げる。

「ねえ、どういうこと? あなたは本物のランギなの? なんでここにいるの?」

「ランギじゃない。俺の本当の名はヴェーテルだと言ったはずだ。……どうも嫌な予感がして偵察に出たらお前がいた。声をかけずに気を失わせて連れ帰るべきだったな」

「そういうことじゃなくて……ヴェーテル……? というかランギってそんなに強かったっけ?」

 ランギは木陰に隠れると、ウトラに静かにするよう合図を送る。しかしウトラが黙れるはずもなく、「私、幻覚でも見てるの?」と小さな声で尋ねた。

「お嬢、頼むから静かにしてくれ」

 出会った直後には全くの別人に見えたランギだったが、なんだか少しずついつもの調子に戻っているように感じた。多分、本物。

 周囲の様子を見てから、ランギは「そうだ」と何か思い出したかのように首元に手を突っ込むと、懐かしいペンダントを引っ張り出し、視線をこちらに向けないままそれを差し出した。

「お前に渡せって頼まれたんだ。一回くらいは危険をどうにかしてくれるだろうから持っとけ」

「これ……シャイアドのやつ! ねえ、どうしてランギが持ってるの⁈ シャイアドに会ったの? 今どこ⁈ まさか、あの子は──」

 苔色の、雫型のペンダント。ウトラはこれをよく知っていた。シャイアドがいつもつけて、何よりも大事にしていたものだ。ランギの手にあるはずがない。あってはいけないのに。

 最悪の事態が頭の中を駆け巡る。もう、遅かったのか。

「バカ、動くな!」

 ウトラが思わず身を乗り出してペンダントをひったくると、ランギは体勢を崩した。その瞬間にどこかから何かが飛んできた音がして、ウトラとランギの手元をかすめる。

 素早く起き上がったランギは続けざまに飛んできたものをなぎ払っていたが、ウトラはそれどころではなかった。

「シャイアドのお守りがっ……」

 飛んできた矢のようなものは、ウトラとランギの手の中にあったシャイアドのお守りを弾いていた。親友の宝物は無情にも背後に広がっていた谷に落ちていく。思わず追いかけて飛び込むも、器用にこちらも注視していたランギに抱えられ、ペンダントは掴むこともできず指の先で踊っただけだった。

「お守りのために死んでどうする! シャイアドはお前に生きて欲しくてあれを寄越し……ああもう、さっきからぱらぱらぱらぱらと下手くそな矢を撃ちやがって……」

 なおも続く追撃にしびれを切らしたランギは、コートの下から小さな弓矢を取り出して三回ほどそれを撃った。遠くでかすかに何かが地面に倒れる音がする。

 ウトラは何もできなかった。ただただ宙を舞って谷の底に呑まれていくお守りを眺めているしかなかった。

 シャイアドが……シャイアドが遠くに行ってしまった。

 私のせいで。

 私が一緒に逃げなかったから。

 胸に大きな杭が打ち込まれたような気分だった。一生消えることのない杭。広がるひび割れ。

 胸から始まったひびがじわじわと登り、それが頭に達した時、ウトラの目から熱い熱い涙が吹き出した。

 もう友達は戻らないのか。

 シャイアドの優しい声は、もう聞こえないのか。

 ウトラが絶望に暮れていると、突然、どこかから、何かが煌めいた音がした。

 ペンダントが消えた谷の、底のほうからも、眩しいそれは湧いてきた。







 リャットは、レキンが魔力をぶつけるに都合のいい場所を探している間、考え事をしていた。

 もし自分が失敗し、魔力源もないままに施しの剣がこの世から消えてしまったら、己はどうなるだろう。

 不安というよりは、幼い子どもが覗き込んでくるような、純粋な疑問だった。

 責任感に押しつぶされてしまうだろうか。世界中の人の恨みを一身に負って、暗闇の中を生きていくだけの覚悟が自分にはあるだろうか?

 多分、ない。

 今こうして必死に忙しなく動いているレキンにはあるのだろう。だってこいつ、俺が知ってる誰よりも真面目だからなぁ。

 リャットのこの心情を吐露すれば、彼は間違いなく怒る。怒るというより、生理的嫌悪を見せるだろう。信じられない、と、自分の行いに責任を持たずに事が進められると思っているのか、と。

 リャットには、暗闇の中を生きる覚悟なんてない。そんなの嫌じゃないか。わざわざじめじめとした光のない洞窟に住みたがる人間なんていないだろう。必ずどこかには青空と心地よい風が待っているのに。

 だから、リャットにはどんな結果に転ぼうとも、全身全霊を持って人々を救おうという覚悟があった。人の恨みを買っても、絶対に逃げたりしない。罪悪感に苛まれることはあるだろうけど、それでも、下を向いてただただ申し訳なさそうにするだけなんて絶対にしない。それがリャットの決意だった。

 そこにシャイアドがいれば、どれほどいいだろう。彼女の冷静で一歩下がった視点、リャットを見張ってくれる目がなければ、現実はもっと難しくなる。

 きっとシャイアドがいなくなってしまっても、リャットはなんだかんだと生きていくのだろう。しかし、素晴らしい未来を想像したとき、そこには必ず彼女がいる。逆に言えば、彼女がいなければ、素晴らしい未来は訪れないのだ。

 リャットは、ずっとシャイアドについてきた。それはシャイアドのためでもあるが、自分自身のためでもあったのだった。

 乾いた岩を掴んで体重を預け、あちこちにペンデュラムをかざしていたレキンが、ひときわ大きく反応する場所を見つけ、「ここだ!」と叫ぶ。

「リャット、準備をしろ。この土が黒っぽくなっているところ、ここに死なないギリギリの量の魔力を、一度に、いいか、一度にだぞ、ぶつけるんだ」

「あたしも手伝ってやるよ」

 上から降ってきた声に顔を上げると、ビトカが器用に箒で旋回して降りてきたところだった。

「び、ビトカさん、ウトラは?」

「あの子にはあの子のナイトがいるからね。それにあっちの星は大丈夫だよ」

「星……?」

 星とは、運命の巡り合わせのことを言うアレだろうか。

 とにかく三人は、ペンデュラムが指し示した場所を睨みつけた。なんの変哲もない、ただの地面の一部だ。ここにありったけの魔力をぶつければ世界平和が訪れるかもしれない、なんて、はたから聞けば子どもが考えた遊びの設定に思うだろう。

「きっともうすぐ時はきます。魔力の流れを少しでも感じたら、そこに思いっきりぶつけてください」

 レキンはアーデラールにもらったという魔石を握りしめている。”時”がくれば、投げて割るのだろう。

どこまでも真剣なレキンを眺めて、リャットの胸の奥からぽつりと疑問が湧いて出る。

「……なあレキン、どうしてお前はここまで来れたんだ? どうして、シャイアドのためにそこまでできる?」

 リャットは手のひらにありったけの魔力を集めながら、レキンに問うてみた。手のひらがかつてないほど熱い。火傷しそうだ。こんなに愉快な火傷が存在するなんて。

「あの子のために、世界のために、議長のために……僕は僕にできることをしたいだけだ。そういうお前はどうなんだよ」

「俺は……」

 リャットはずっと思っていたことを口にした。

「みんなと同じだ。ただあの子に生きていてほしいから」

 その時、谷の上のほうから何かが落ちてきた。太陽光を反射し煌めくその物体は、三人に見覚えがあるものだった。苔色の雨。あれは、シャイアドのペンダントだ。

 どうしてここに、と驚きと疑問に顔をしかめたレキンとリャットだったが、ビトカはこの場の誰よりも驚いたように目を見張る。

「まさか、先生……」

 森の奥の方、いや、きっとどこかもっと遠くの場所から、朝日が昇る時のような音がした。その音が弾けたと同時に、ペンダントは地面に落ち、粉々に割れる。

──時が、来た。





 木陰に立ちながら、シャイアドは言葉を失っていた。

「シャイアド。大きくなったね。君からすれば会うのは初めてだろうが」

 鬱蒼と茂る、暗い森の中。背の高い木々が避けてよく陽のあたる場所に、その人は無感情に立っていた。無感情であるのに、どんなものよりも──生まれたばかりの赤ん坊よりも、強い生命力を感じる。まだかろうじて声が届くだけの距離を取っているのに、シャイアドは彼の前から逃げ出してしまいたくなった。死にたくない訳ではなく、ただただ彼という存在が恐ろしかった。畏敬の念、とはまさにこのことを言うのだろう。

 だが、それだけではない。

「私はアーデラール。偉大なるミーシャルム……今の人々がサントーシャムと呼ぶひとの弟子だ」

 アーデラールは、あまりにも若かった。

 彼は、マーリアより年上のはずなのに。七百年も生きているはずなのに。

 真っ直ぐな目でこちらを見据えるアーデラールは、どう見繕ってもシャイアドとそう変わらない年齢に見えた。それがこの世の何よりも不可解だった。若すぎる。若すぎるのだ。彼の途方もなく強く固い意志、覚悟が、彼の肌や髪──とにかく全てににじみ出ていた。

 圧倒的。

 その言葉が世界で一番ふさわしいと言い切れる。シャイアドは今まで見てきたどんな立派なひとだって、彼の前には矮小に思えた。威厳は彼のためにあり、力もまた彼の中にある。

 シャイアドが何百年生きたって、彼のようにはなれないだろう。

「君がここに来るのを待っていた。……これが、施しの剣だよ」

 アーデラールは少し語気を和らげると、傍の地面に刺さっている赤茶色に錆びた剣を見せた。

 シャイアドは何か言おうとしたが、言葉が彼に恐れをなして喉から出てこない。胸をなんとか押さえつけて、手で押し上げるようにしてなんとか口をきく。

「あの、わたしは……わたしが死ねば、戦争は終わりますか」

 彼はただ一言、「ああ、約束しよう」と頷いた。

 それだけなのに、シャイアドは安心してしまった。彼は本当に戦争を止められるだろう。だって、アーデラールなのだから。

「さあ、おいで」

 アーデラールが手を差し出し、シャイアドはふらふらと彼の元に歩み寄った。

「大丈夫。痛くも苦しくもない。君は眠るように、マーリアや兄様のところへ行けるだろう」

 彼はシャイアドに剣を抱くよう指示すると、少し離れて死の呪文を唱え始める。無意識のうちに涙が出てしまうほど、透き通った、美しい詠唱だった。

 彼にとって魔法など詠唱も無しに自然に発現できるものであろうが、しかし、どんな偉大な魔導師であっても、死というのは呪文でしか授けることはできない。そしてその呪文というのが長かった。対象をどのように、どのくらい痛めつけて殺すのか指定しなくてはならない。アーデラールは念入りに、丁寧に、シャイアドが苦しまなくて済むような呪文を構築している。それに施しの剣のすぐ近くでは魔法は無効化されてしまうので、アーデラールは何よりも真剣に、全神経を集中させて唱えている。シャイアドはぼんやりとそれを眺めていた。綺麗なひとだな、と思った。

 彼の口が閉じられた時、自分は死ぬのか。

 死とは、どんなものだろう。意識はどこへ向かうのだろう。暖かいのだろうか、冷たいのだろうか。軽いのだろうか。重いのだろうか。それとも、何もないのだろうか。不思議と怖くなかった。むしろ、アーデラールのもとで、彼の手で死ねるということが、何よりも誇りに思えた。何よりも安心できた。

 これで、ウトラたちは、サムドランが遺したあの街は、戦争に駆り出された人々は、飢えで苦しむ人々は、救われるだろう。また穏やかな世界が訪れて、みんな苦しくも楽しい世界で四苦八苦しながら笑い合うのだろう。

 シャイアドは穏やかな気持ちで目を閉じた。

(ごめんね、マーリア、サムドランさん。わたしは、あなたたちにもらった命で、大切な人を守りたい)

 彼らはそれでもいいと笑って、シャイアドを受け入れてくれるだろう。もしあの世があったら、よく頑張ったねと、抱きしめてくれるだろう。それはシャイアドが何よりも願った報酬だった。生きていては絶対に手に入らないものだった。

 それから、ウトラを思った。あの子はきっと、あの街で目まぐるしい人生を、鮮やかに営んでいくのだろう。どうか彼女の途上に光がありますように。

 そして、レキンを思い出した。変な人だけれども、でも誰よりも努力家で、シャイアドのために尽くしてくれる。彼はきっと、いや間違いなく、いずれ世界でも指折りの魔導師になるだろう。その姿が見れないのが残念だった。

 シャイアドは最期に、リャットを思い出した。誰にも負けないくらい、大切な人。彼を置いていってしまうことになるが、レキンも、ビトカさんもいるから、きっと大丈夫だ。それに彼は強いから。わたしがいなくても、アーデラール議長に並ぶ偉大な魔導師になるだろう。そう、大丈夫なんだ。わたしがいなくても。

 しかし、心の奥底、懐かしい場所から、声が聞こえた。


『ガラルさん、リャットは確かに、あなたが亡くなっても、いつかは立ち直ることのできる人です。でも、それでも、とても大切な人が死んでしまうのは、辛いことです。あなたもお父さんを亡くして理解しているのでしょう、なのになぜ、まだまだ若いリャットにまた同じ苦しみを味わわせるんですか。リャットはとても優秀な魔導師なので、あなたを救うことだってできます。ですが、患者であるあなた自身が諦めてしまえば、リャットはあなたを救えない。大切な人を救えなかったという、一生胸に刺さって消えない棘を、リャットに遺したいんですか』


 シャイアドは思わず目を開けた。

 この言葉は、いつ言ったものだったか。リャットなら自分がいなくても大丈夫だと笑う兄ガラルに、シャイアド自身が言った言葉だ。

 そしてその言葉が、かつての自分が、こちらを見ている。

 リャットは、アーデラールに並ぶほどの資質を持っている人だ。彼は、恐ろしいくらいに眩しい人だ。

(でも、わたしが諦めれば、リャットはわたしを救えない?)

 胸に刺さった棘というのは、埋もれてしまえば取れることはない。そしてその痛みは、人格にも、人生にも影を落とす。

──解決する方法が見つかってないのなら、一緒に探そうよ!

──俺たちなら、絶対に見つけられるから!

 リャットは、そう言っていた。剣を割れだなんて、とんでもないことも言っていた。

 そう。そうだ。彼はいつも、真っ直ぐで、暖かくて……危なっかしくて。座学が少し苦手で、シャイアドが見ていなければ重大な事故を起こすところだったことが何度あったか。

 彼はシャイアドを信じてくれた。どんなに険しい道でも、理不尽な運命でも、最後まで笑顔でついてきてくれた。施しの剣のことも、自分のことではないのに、本当に一生懸命になってくれた。だって、二人一緒なら、きっとなんでもできるから。

 途端、シャイアドの中を、たくさんの人、たくさんの場所の思い出が勢いよく駆け巡った。これまで築いてきた全てが、シャイアドの中で熱を持ってどこか大いなる場所に刻まれていく。シャイアドはそれが走馬灯であることを理解していたが、あまりにも鮮やかで、そして溶けてしまいそうなほど暖かかったので、静かに整理されていたはずの全ての感情が、一度に舞い上がった。


 施しの剣を割りたいリャットを信じたい


 たとえリャットの言っていたことが嘘であったとしても、最後の最後に、彼への信頼を示したい。


 シャイアドは、生きたいと願ってしまった。


ちょうどその時、アーデラールの口が閉ざされる。

 ああ、ああ、遅かった。こんな最期になってしまうのか。感情を舞い上げた風が蓋をされたように消えていく。煌めいたものは、はらりはらりと、地に落ちていこうとする。

 だが、死は訪れなかった。

 親指のお守りが、音を立てて砕けた。

 シャイアドの生きたいという願いに、死への恐怖に、指輪が応えたのだ。魔導師でもない者が作ったお守りが、世界の頂点に立つ魔導師の呪文を弾いた。


 シャイアドは確信した。

 運命が、やれ、と言っている。


 かすかに目を見開いたアーデラールの目の前で、シャイアドは持っていた剣を振り上げ、足元にあった岩に思いっきり叩きつけた。

 剣は、朝日を思い出すような大きな音──実際は音なんてなく、音に錯覚するほどの魔力があふれていたのかもしれない──を立て、まるでこの瞬間が用意されていたかのように真っ二つに割れる。

「っなんて、ことを……! 剣の破壊は、君の死とも同義だぞ!」

 シャイアドは、初めて感情を見せたアーデラールに笑いかけてみせた。

 全身から力が、魔力が流れ出る気配がする。あっけなく折れた伝説の剣は、虚しく地面に転がった。なんだ、大したことないじゃないか。こんな簡単なことだったのか。

 水の入ったバケツを逆さまにした時のようにあっという間に力が抜け、立っていることもつらくなり、よろけたシャイアドを、アーデラールが受け止めた。

「……きっと大丈夫。わたしは、みんなを信じてるんです」

 シャイアドを抱くアーデラールは、マーリアとよく似た魔力を持っていた。マーリアとよく似た匂いだった。さっきまであれほど遠くにいた彼は、本当はずっとシャイアドのそばにいたのだ。

 シャイアドと剣を中心にして溢れた魔力が、どこかに流れ着いた。

 そして、夕焼けに赤く染まる遠くの空に一本の大きな光の柱が立った。手を伸ばそうとすら思えないほど遠くにあるはずなのに、目が潰れそうなほどまばゆい。

 龍みたいだ、とシャイアドは思った。





 剣が、溶けていく。大地に、自然に、まるで誰かが折ってくれるのを待っていたかのように馴染んでいく。

 そう、そうだ。

 あれは、七百年の呪縛から解き放たれたのだ。

「……先生」

 空に昇る目を焼く光に、アーデラールはあの日を、あのひとを見た。かすかに震えた声は、それ以上出てくることはなく。

 自分はまた、この瞬間を見上げている。





 世界に魔力が溢れていく。

 リャットは、リャットたちは成功させたのだ。彼の言っていたことは嘘ではなかった。信じてよかった。シャイアドは、彼を裏切らずに済んだことに心底ホッとしていた。それだけでよかった。もはや自分の命が尽きようとしていることなど、些細なことに思えていた。

 奇跡は起きたのだ。

 マーリアは奇跡という言葉を無闇に使うのを嫌っていたが、でも、今なら彼女も気負うことなく奇跡が起きたと言うだろう。

 何もかも、満足だった。

 だから、アーデラールが己の魔力をシャイアドに分け、延命処置を試みているのを他人事のように眺めていた。

「……議長、どうしてわたしを生かそうとするんですか。さっきまで、殺そうとしていたじゃないですか」

 世界にとろとろと溶けていく意識の中で、かすれた声で尋ねると、アーデラールは辛そうに少し笑った。ああ、彼も笑うんだ。辛そうに顔を歪めるんだ。

「私は君を殺したい訳ではないんだよ。こんなことを言うのは無責任だが、本当は、君を生かしたかった。マーリアと兄様もそう望んだ。それに……」

 アーデラールは何かを言おうとして、やめた。その代わり、それまでの芯の強い顔に戻って、こう続けた。

「施しの剣は消えた。もう君が死ぬ必要はない。だから、私は君を死なせない。君だって愛しいローバリの子だ。アーデラールという名にかけて、私は、君を救ってみせる。もう誰も、私の目の前で死なせるわけにはいかない。シャイアド、君だって、君を待ってる人に、会いたいだろう」

 多分、無理だと思った。確かに心から会いたい。今すぐみんなに駆け寄って、喜びと感謝を叫び伝えたい。この喉で、この言葉で。だが、魔力はとっくに底を尽きている。アーデラールほどの人だって、こんな絶望的な状況をどうにかできるわけがない。

 それでも。

 奇跡は起こるかもしれない。

 この世の全ては奇跡でできている、とマーリアは言っていた。なら、また起きても不思議ではないかな。ちょっとニュアンスが違うよ、とマーリアは笑うだろうけど。

 まあ、奇跡が起きようが、起きまいが、どちらでもいい。

 シャイアドは、とにかく気分がよかった。これ以上ないくらい痛快だった。この世界一の魔導師アーデラールにも、伝説の魔導師サントーシャムにも不可能と言われていたことが、今こうして現実になったのだ。大切な人を信じた先に、この結末が待っていてくれた。尽きる意識や魔力に反比例するように腹の底から湧いてくるこの喜びを叫べないのが、少し悔しいけれど。

 この瞬間は間違いなく、人生で一番、清々しい。

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快哉を叫べ はもの @katsuta-hamono

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