エピローグ

 6月も半ばを過ぎ、蒸し暑さが徐々に増してきた。とっくの昔に春の気配は過ぎ去り、エアコンの冷気がとても愛おしい。雨が降る日も多いが、それでも涼を求めて来る客も少なくない。しかし豆から挽いてアイスコーヒー作るの面倒くさいんだよなー。


「良いから作れ」

「へいへい」


 柚梨がぶーたれながら俺をせかす。

 まだ開店したばかりの時間だと言うのにいきなり柚梨が遊びに来た。そんな有名ラーメン屋じゃあるまいし……とも思うのだが、俺自身柚梨と遊びに行く時間があまり取れていないのだからこうして通ってくれる彼女に対し申し訳ない気持ちもある。

 柚梨は部活が無いと暇なようで時間を持て余している様子だった。無理もあるまい。小学生のころからずっと陸上部一筋だったのだから。


「勉強でもしたらどうすか」

「夢のないことを言うな」

「いや勉強って夢を実現する一番手堅い手段だと思うんですけど」

「じゃあ言い換えよう。もっと気分のよくなる発言をしてくれ」

「我儘だなぁもう」

「大学に入るまでは自堕落に過ごすぞ。肩の荷も降りたからな」

「いや、勉強はしましょう」

「保護者みたいなことを言うな、まったく。まあでも、大会も終わったからな……部の仕事も沖に引き継ぎしたし」


 そう、柚梨は夏を迎える前に部から去った。

 あの日の大会で、沖に敗けてしまった。


 沖は本番に弱い。少なくとも大会の前日まではそうだった。誰もが認めるところだ。

 だが今回ばかりは条件が違った。思い返してみれば、柚梨に勝負をすると決めた日から様子が違っていた。単に立ち振舞いが違うといったことだけではなく、まず外見が大きく変化していた。


「しかし沖の姿にはちょっと驚きました」

「髪をばっさりと切ってくるとはなぁ」

「ポニーテールの印象が強かったから、会場で見たとき一瞬誰かわかりませんでした」

「おいおい、薄情だな」


 沖の特徴的だったポニーテールは消え、ベリーショートと言って良い髪型になっていた。

 大会に備えて気合を入れた、と一言で言ってしまうのは簡単だが、スポーツというものは選手のメンタルに常に左右される。万が一のあるはずのない勝ちが起き、あるはずのない負けが起きる。甲子園には魔物が居るというが、実を言うと花園にもいるし代々木第一体育館にも居るし、全国の陸上競技場にも跳梁跋扈している。今回、魔物が牙を向いたのは柚梨だった。

 ただ弁護しておくと、柚梨は決して手を抜いたとか不調だったとか、そういう柚梨の手落ちによる敗北ではなかった。ほんの少しだけ、自己ベストを上回り、準決勝まで上り詰めた。これまでに無い好記録だった。沖が、それ以上の躍進を見せた。その一言に尽きる。柚梨以上の力を見せ、そして周囲の県大会進出の常連を抑えて入賞した。我が校の陸上部が初めて、地方大会進出を決めたのだ。


「地方大会はどうします?」

「そりゃ応援くらいは行くさ。後輩を陰から見守るのも引退した先輩の役目だからな。お前はどうする? 無理にとは言わんが」

「あいつが主役ってのも悔しいけど、まあ見に行きますよ」


 沖は勝った後に、笹原とその仲間を俺と柚梨の下に連れてきて謝罪をさせた。以前のような渋々の謝罪ではなくきっちりとした詫びを入れさせ、そして部内でペナルティを言い渡した。練習メニューの追加や雑務雑役、タイの弁償などだ。全て沖が取り仕切って決めた。先輩や俺からの叱責や友人の暴走に右往左往して泣きついてきた沖の姿はそこにはなかった。

 一体何があったのかと聞けば、「あなたが御法川先輩と勝負しろって言ったんでしょ」と、呆れたように答えた。それが沖にとっての天啓だったらしい。勝っても負けても柚梨は部から離れる。それを自覚した瞬間にこれ以上無様な姿を見せられないと言う思いが募り、本番での緊張など吹っ飛んでいったとのことだ。今は沖の号令の下で陸上部は動いている。来年はもっと強くなっていることだろう。


「沖はダメなところも多い。向こう見ずだしテンパるし、真面目さが災いして視野狭窄している。成長したとは思うが、まあそういう欠点が完全に治ったわけじゃない」

「そうですね」


 俺なんて脅迫されたしな。


「でもな」

「はい」

「……走ってる姿を、綺麗だと思ってしまったんだ」

「……してやられましたね」


 沖は、全力を、いや、全力以上の力を出して勝つことを選んだ。

 そして約束通り柚梨に引退を言い渡した。

 あれだけ慕っていた柚梨と距離ができることも覚悟して。

 自分が泥を被って後輩達を謝らせ、先輩を追い出した。

 この選択肢を選ぶことのできた沖には、やはり俺も柚梨もある意味では負けたのだろう。少なくとも柚梨は覚悟を持って行動した沖を評価していたし、俺自身もあいつのことを見直さざるをえなかった。


「あーあ、敗けた敗けた。まったく面白くもない!」


 そんな言葉を言う割に、柚梨はとても面白そうにくすくすと笑っていた。


「……陸上、これで辞めるんですか?」


 俺がそう尋ねると、柚梨は顎に手を当てて真面目な顔をした。


「そうだな、大学に入ったら辞めようと思ってたが……続けるのも良いかもしれないって思ってきた」

「へぇ」

「あいつに敗けたのは初めてだが、この先続けていればまた勝負になる可能性もあるしな。諦めない限りチャンスは来るさ」

「ポジティブですね」

「負け惜しみとも言う」

「それ自分で言わないで下さいよ」

「細かいことは良いんだよ」


 俺は、そんな柚梨の悪態を心地よく噛み締めながらコーヒーを淹れた。いつものように。


「なあ、蓮。お前もやったらどうだ。別に部活だとかサークルだとかに入れとは言わないが、走るのはいつだってできるだろう? 特に長距離なんて一生モノじゃないか」

「……そうですね。夏休みになったら走ろうかな」

「そうしろそうしろ」


 柚梨は面白そうに俺をけしかける。だが、夏休みに頑張らねばならないのは俺よりもむしろ柚梨だった。


「俺のことよりも柚梨は受験勉強してください」

「うっ……せっかく話を変えたのに」


 ばつが悪そうに柚梨は俺から視線を外した。


「勉強なら付き合いますから」

「部活中心からいきなり受験モードに切り替えるのも中々難しくて……」

「部活を引退した三年夏以降の追い上げが凄いんじゃありませんでしたっけ」

「細かいこと気にする男だな、まったく」


 まったくってのは俺の台詞なんですが。


「……まあでも、そろそろ真面目にやるか」

「おっ、やる気になったんですか」

「大学に入って陸上を続けると考えると、あまり浪人したくないからな」

「結局そこですか」

「結局とはなんだ。見透かしたような台詞はよくないぞ」

「いや、見透かしたってわけじゃなくて……」

「じゃあなんだ」


 柚梨は組んだ手に顎をのせて、ジト目で俺を見つめる。


「安心したっていうか……柚梨が走ってるの、俺は好きですから。なんとなくそうなってほしいなって思ってました」

「もっと好きになって良いんだぞ」


 そう言って柚梨はからからと笑い、俺も釣られて笑った。

 雑談もほどほどにして、俺は仕事に戻った。

 コーヒー豆を挽く軽やかな手応えと鮮やかな香りを楽しみながら、この人のためにコーヒーを淹れる。俺が彼女をもっと好きになるように、彼女も俺のことを好きになってくれますようにと願いながら自分なりの最高の一杯を淹れることが、なによりの喜びだった。

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