第13話

 5月の終わり、県庁所在地の総合運動公園の陸上競技場において、我が県の高等学校総合体育大会陸上競技大会が開催される。平たい話がインターハイの県大会だ。我が校の陸上部において色々なすったもんだがあったが、誰かが参加辞退するということもなく無事に大会へ参加する運びとなった。もっとも参加するのは女子2名だけで他は応援と見学だが。県大会は三日間の日程で実施され、柚梨と沖の出る中距離の部は二日目に開催される。そのため初日は開会式の参加だけとなり、顧問の武田先生、競技を見学したいごく少数の部員、そして柚梨だけが残ることとなった。ついでに俺も居た。暇だったし。幸いなことに俺を疎んじる人間はあまり居らず、柚梨や部長と雑談をして過ごすことができた。


 そして、大会二日目こそが本番だった。


「朝5時前に起きるのは流石にきっついな……2日連続だし……」


 俺はその二日目の早朝、柚梨の家の最寄り駅で待ち合わせをして一緒に現地へと行くことにしていた。

 今の時間は朝五時五十分を過ぎたところだ。流石に眠すぎる。こういう状況では実際に大会に参加するメンバーの補佐を参加しない人間がするものだが、俺もう陸上部辞めてるんだよね。ま、可愛い彼女のためだ、この程度の早起きは我慢しよう。しかし待ち合わせの六時より少し早く到着してしまった。


「……起きてるよな」


 一瞬、不安が脳裏をよぎった。まさかこんな大事な日にまさか寝坊するわけはあるまいとは思ったが、念には念を入れて携帯で電話をかける。出ない。チャットツールで「起きてます?」と送信する。既読が付かない。この時間にまだ寝ているとなると待ち合わせの時間には確実に遅れるだろう。柚梨が参加する種目は朝一番に開始というわけでも無いが、だからといって悠々と寝坊というのもまずい。アップの時間が減る可能性もある。……念のため、直接迎えに行くべきだろうか。

 柚梨の自宅はごく普通の分譲マンションだ。今俺が居る駅から歩いて五分程度という素敵な立地にある。実は日曜に柚梨が喫茶店に来てくれた帰りに、一度だけ家の近くまで送り届けたことがあった。駅までの道のりもほぼ真っすぐなので、迎えに行って間違えてすれ違ってしまうということもないだろう。

 しかしこんな早朝から他人の家に行くというのも気が引ける。親御さんに迷惑が掛からないだろうか。というかあまり柚梨の口から親の話を聞いたことが無いな。物凄い過保護な父親が居たりすると怖い。

 などとつらつら考えつつも歩いている内に到着してしまった。マンションの入口は、設置された機械に暗証番号を入れるか、あるいはインターホンで住人を呼びドアを開けてもらうかしないと入ることができない。そして柚梨の携帯にはつながらない。俺は意を決して、インターホンに柚梨の部屋番号を入力する。親御さん寝てたらごめんなさい。


「……どちらさま? ええと、柚梨の友達?」


 恐らく監視カメラか何かがあって、俺の姿を見たのだろう。若干声が不機嫌だ。そりゃそうだろうな、まだ朝六時だ。


「……すみません、こんな朝早くに。その、柚梨さんが今日、陸上の大会に出るので迎えに……」


 と、そこまで言いかけたあたりで、耳をつんさくような絶叫が聞こえた。


「あああーーっ!?」

「え?」

「あの子、今日も大会!? 昨日だけじゃなくて!?」

「むしろ今日が本番なんですが……」

「ちょ、ちょっとまって、今開けるから! 柚梨! あんたなにゆっくり風呂入ってるの!」


 ブツッと言う音と共に通話が終了し、少し遅れてマンションの入り口のドアが開いた。


 えーと、入って良いんですかコレ。


「まあ良いか……」


 だらだらしていたらドアが閉まってしまう。覚悟を決めて入ろう。

 建物そのものに足を踏み入れるのは初めてだが、部屋の番号は教えてもらっていた。605号室だ。エレベーター乗り場の横に貼られている地図を見れば場所も十分にわかる。共用スペースでウォーキングの準備体操をしている高齢者の脇をすり抜けてエレベーターで6階へと上がる。眠気眼のままゴミを捨て、その足で出社するのであろうサラリーマンに会釈をしつつ、御法川家の前へとたどり着いた。玄関の前で突っ立っていても不振に思われそうで呼び鈴を押す。


「あー、蓮くん! ちょっと中で待ってて!」

「え? あ、はい」


 玄関を開けてでてきたのは、恐らく柚梨の母だ。恐らく俺の母さんと同じ世代だから間違いはなかろう。こっちこっち、と手招きしている。なんかもう俺のことを十分に知っているかのような様子だ。俺は柚梨母に促されるままリビングの椅子に座る。落ち着いた色合いのカーテンや暖色のクッション、テーブルには可愛らしいマグカップ。女性中心の家に特有の、柔らかい佇まいの部屋だった。


「コーヒーでも飲んで待っててね。まあ本職の人には敵わないけど」

「あ、いえ、お構いなく……というか、俺のことご存知なんですね」


 俺はあんまり自分の親に恋人のことは話したくない方なんだが、柚梨はそうでも無いらしい。俺のことなど重々承知と言った様子だ。母親とは仲良いんだろうな。というかなんでお母さん俺にこんなにフランクなのだろう。

 そして柚梨母は俺にコーヒーを淹れた後、恐らく柚梨の私室らしき部屋へと行き、


「ちょっと柚梨! 蓮くん待ってるからね!」

「ちょ、ちょっと、待ってよママ!」

「待たせないの! こんな朝っぱらから外で待たせるわけにいかないでしょ!」

「そ、そうだけど!」


 などと柚梨を急かしていた。


「あ、えーと、あんまりのんびりもしてられませんけど、余裕もった時間で来てますし……焦らなくて大丈夫ですよ。むしろ自分が早く来すぎてしまったんで」


 唯一心配があるとすれば、本番に弱く初参加の県大会でテンパっているであろう沖が、冷静に行動できるかどうかだ。部長も顧問も放任主義だしな。まあこっちが遅れてもちゃんと審判団の指示を聞けばあまり問題ないとは思うのだが。

 そんなとりとめのないことを思いながら柚梨を待った。数歩の距離で柚梨が身支度をしていると思うと正直言ってやましい妄想が止まらない。しかもそんなときに柚梨によく似た母親が俺に雑談を振るものだから色んな意味で落ち着かない。大事な試合の日だと言うのに煩悩が消えなくて困る。


「すまないな、待たせた」


 十分ほど待ったところで柚梨は現れた。我が校の陸上部のジャージ姿だ。

 少し声が上ずっている。


「あんまり寝れなかったとか体調悪いとか、そういうのはありませんか?」

「ちょっと睡眠は浅かったが、まあ問題ないとも」

「わかりました」

「柚梨、あなた人を待たせておいて「待たせた」じゃないでしょ。ちゃんと謝りなさいよ」

「か、母さん、やめてよ」


 あ、照れ隠しで声が上ずっていただけか。俺に気にせずママと呼べば良いと思います。と口に出すのは避けておこう。君子危うきに近寄らずだ。今日は大事な大会なのだから雑事は棚上げするに限る。


「えーと、それじゃそろそろ行きましょうか。10分後くらいの電車なら乗れますね」

「ああ、車出すからもうちょっとゆっくりしてていいわよ」

「え、良いんですか?」


 車なら十分に間に合う。電車で現地へ行くとなると電車に乗ってバスに乗り換えてと微妙に面倒なのだ。自転車で行くにもやや遠い。というか運動公園や総合体育館などは駅から遠い位置にあるものだ。それを見越していたのでわざわざ朝六時という早すぎる時間に待ち合わせをしていた。


「遠慮しなくていいのよ。それじゃ車の準備してくるから待ってて」


***


 一時間以上かかる道のりが三十分程度でついてしまった。柚梨のお母さんはその足で仕事へ向かうらしく、競技会場付近の道路傍で降ろされて慌ただしく別れた。車内で雑談に興じたのはもっぱら俺と柚梨のお母さんだったため、急に二人きりになると微妙に気まずく感じる。


「そ、それじゃ行きましょうか」

「ああ」


 が、柚梨はすぐに気を取り直した様子だ。


「えーと、お母さんに今日試合だって言ってなかったんですか?」

「母さんも忙しくてね。昨日帰ってきたのも夜遅くだったし……」

「大変ですね」

「いや、その、携帯で連絡が来たときは起きてたんだぞ。ただ、ちょっとシャワーを浴びながら考え事をしてて」


 柚梨はあさっての方向を見ながら頬をかいた。

 そういえば待っているときにドライヤーの音が聞こえた気がする。

 ……ちょっと生々しい想像をしてしまった。


「焦って家まで来ちゃってすみません」

「いや、良い。こっちこそばたばたしてすまないな」


 そのまま二人並んで歩道を歩き、会場へと目指した。もう既に集まっている学校もあり、トラックの周囲の観客席には既にどこかの学校の陸上部が陣取って思い思いに過ごしている様子が見える。だが我が校の人間はまだ来ていないようだ。少し遅れそうかと思ったが車のおかげでやや早く付いてしまった。


「あ、そうだ、これ、返しておこう」


 柚梨は鞄から何かを取り出して俺の鞄に突っ込んできた。


「ああ、お守りですか」

「おかげで体調も万全さ」

「おかげってほどでもないですけど、ベストが出せるなら何よりです」


 そして俺達は、一日目に我が校が陣取っていたスペース……には行かずに、観客席のはずれのベンチに腰掛けた。流石に高校生の大会で観客席が全て埋まるはずもなく、開いているスペースは多い。

 ここからは他の座席やトラックが一望できる。三々五々と参加者が集まってきており、強豪校からこんなところが進出したのかという無名校まで様々だ。気の早いことに試合用のウェアを着てサブトラックへと向かっている者もいる。朝一番で出場するであろう種目の人間がウォーミングアップをするのだろう。

 自分の力を試したいと闘志を剥き出しにする人間も居れば、今日という日が一刻でも一秒でも早く終わりますようにと請い願う心の弱い人間も居る。自分が敗けたときの想像ばかり膨らむ者も居れば、こんなところには眼中になく地方大会や全国大会を見据える猛者も居る。自分がどんな記録を出すかよりも、自分がどんな相手と戦うか、どんな相手に勝ちたいかに思いを馳せる者も少なくない。どんな規模の大会であれ、全ての参加者に対して無慈悲に順位とタイムが裁定される。その日の天候がなんであれ、大会の日はいつも張り詰めたような風を感じる。既に陸上を辞めた俺ですら峻厳な何かを感じるのだから、今現在現役であり、そしてこれから引退するであろう人間にとっては尚更何かを感じ取っているだろう。隣りに座る柚梨の顔を見る。意外な事にその顔は、妙ににやけていた。


「なんか面白いものでも見えました?」

「いや、そういうわけじゃない。……ちょっと昔話でもしようか」

「はぁ」


 俺の気のない返事に、柚梨は露骨に不機嫌な顔をした。


「はぁとはなんだ、はぁとは。人が真面目に話をしようというのに」

「わかりました、ちゃんと聞きます」


 俺は柚梨の方に向き直ると、柚梨は満足そうに頷いた。


「……私が陸上を初めて、8年くらいになる」

「じゃあ小学校の頃から続けてたんですね」

「ああ」

「実は、母さんは離婚しててな」

「……そうですか」


 いきなりヘヴィな話題に来ましたね。


「なんで、って聞いて良いんですか」

「良いけど秘密だぞ」

「いや離婚の話の時点で秘密にしますけど」

「……私はな、けっこう凄い体してたんだ」

「それエロい意味でですか」

「ばか!」


 怒られた。いやでも私脱いだら凄いんですみたいな言い方で言われたら誰だってやましい想像すると思うんだが。


「そういう意味じゃなくてな、太ってたんだよ」

「……そうですか」

「ああ、凄かったぞ。横幅が」


 俺の昔の友達も、相当太っていた。最初の頃は数百メートルも走れずにバテて倒れそうになるくらいだった。


「でも、それと離婚の話と関係あるんですか?」

「あるさ、離婚の原因が私の体重だったからな」

「え」


 思わず柚梨をまじまじと見る。涼やかな微笑みをたたえているが、嘘や冗談の色はそこにはなかった。


「母さんは普通に正社員で働いていて、けっこう忙しい。だから父方の祖母がよくご飯を作ってくれたんだが、それがなぁ……滅茶苦茶多いんだ」

「量を加減してくれなかった、と」

「しかも全部食べないと祖母が泣く。私が母親じゃないから食べないんだろうってさめざめ泣く。で、父も親不孝者とかお前は恵まれてるんだぞと怒る」

「……それは、キツいですね」

「父が健啖でな。唐揚げだのとんかつだの焼肉だの、肉の無い日が無かったくらいだ。デザートも毎日あった。果物とかじゃなくてケーキとかな。いやー、相撲部屋よりも凄かった。それでまあ、当然太るわけだ」

「でしょうね……」


 俺の母さんも看護師であるためか食事や運動には割とうるさい方だ。俺に運動部に入れと言ったのも母さんだった。


「……まあ、口に出せば笑い話に聞こえるかもしれないが、昔の私にとってはとてもとても、冗談じゃなかったよ」


 そう呟く柚梨の声には、隠しきれない苦味があった。


「食べれば褒められるし食べなければまるでひどく悪いことをしたかのように怒られる。でもそんな体をして食べる量も多ければクラスメイトからもからかわれる。運動音痴だし、あと太ったせいで喘息もひどくなった」

「……」

「そのうち母さんが父と祖母を相手に喧嘩するようになった」


 俺の家は、幸いなことに父さんも母さんも仲が良い。じいさんはあんなことになってしまったが、それでも仲の良い家族だったと思う。そういう意味では俺は幸運な部類だ。もし家族間の仲が悪かったら、離婚や親権問題に発展していてもおかしくはなかった。だから、仲が悪い両親の話というのは他人のことでも心が痛む。


「ただ、どれだけ母さんが怒っても父と祖母は改めるつもりが無い。それで母さんが私を連れて父と別居して、最終的には離婚した」

「……大変だったんですね」

「お互い色々とあるものだな」


 諧謔味のある台詞だ。そういう柚梨のさらっとした毒が俺は好きだった。


「まあ別居し始めたときは気が楽になったよ。ご飯をおかわりしなくても怒られないんだから……ただ、問題もあってな」

「問題?」

「肥えるだけ超えた自分の体さ。医者にも注意された。ダイエットの始まりが即ち、私の陸上入門ってわけだ」


 思わず、柚梨の体を見た。鈍重とは反対の、猫科動物のようなしなやかな体。細く引き締まりながらも柔らかさをたたえた、生き物の神秘を感じるきれいなライン。


「ずいぶん……鍛えましたね」

「まるで見てきたみたいな言い方じゃないか」


 俺の露骨な目線に気付いたのか、いたずらっぽく柚梨は笑った。それがあまりに眩しいものだから、俺の方が恥ずかしくなってしまう。


「おかわりしなくても良いのは楽だけど、いきなりご飯の量が減るのは辛かったし、何より身体を動かすのが辛かったよ。運動して褒められたことなんて、それまで一度もなかったからな。走ればドンケツだし踊れば誰かとぶつかる。そのたびに笑われた。だから学校で運動するのは絶対嫌で、学校のクラブとかも入らなかった。水泳クラブも同じ学校の人間が多くて結局辞めた」

「でも、走ることはできた」


 俺がそう呟くと、柚梨は目で頷く。


「そのとき通ってた病院は大学病院でね、ジム設備やジョギングコースとかもあったから……。同じ学校の人も居なかったし、リハビリで運動してる人は私のことを馬鹿にしたりもしなかった。でも」

「でも?」

「一番大きかったのは、私より年下の子が馬鹿にせずに褒めてくれたんだ」


 柚梨は、空を見上げた。そこに思い出すべき過去があるかのように。


「ジョギングコースを歩かずに完走できたって。タイムが上がったって」

「うん」

「息切れしてへたりこんでた私を馬鹿にすることもなかった。太ってるってことを馬鹿にすることもなかった」

「……うん」

「その子は……友達は、おばあさんの御見舞に来てたんだが、おばあさんが他界して病院に行く暇がなくなって、会うことがなくなった。まあしょうがないけどショックだったな」


 俺は、小さく頷いた。


「あーあ、ショックだったな」

「それを言わると辛いというか反論のしようがないんで勘弁してください」

「はは、冗談だよ」


 絶対嘘だ。柚梨の表情には冗談じゃなく本気だよと書いてある。


「……その後も、走るのは辞めなかったんですね」

「すぐには痩せなかったけど、やっぱり走れるようになるって自信がついたのが良かったんだろうな。いきなり痩せたりはしなかったけど、体重が変わらないまま身長が伸びたんだ」

「そりゃ実質痩せてますよ」

「そうだろうな。で、それと一緒に脚も速くなった。割と動けるデブから、クラスで一番脚が速いくらいになった」

「努力の賜物です」

「私の悪口を言ってたことを忘れみたいに、学校のみんなは褒めてくれたよ。虫の良い連中だなって思った」

「まあでも、悪い気はしないじゃないですか。俺だったらむしろ天狗になるかもしれません」

「……天狗か。天狗になったんだろうな」


 柚梨は空からトラックに目を移した。俺もトラックを見る。


「小学校中学校と陸上を続けたよ。中学のときはもう少しで地方大会に行けるくらいには記録を伸ばせた。高校でも……自分なりに頑張ったよ」

「柚梨が頑張ってたのは、俺もよく知ってます」

「……一年生のころはただがむしゃらに走ってた。二年になって後輩が入部してきた頃、友達と再会したんだ」

「そうですか」

「向こうは気付かなかった」

「……そうですね」

「私は、名前を聞いてすぐにわかった」

「最近もしかしたらって思ってたけど、それまではちっともわかりませんでした」


 この、眼の前に居る御法川柚梨という女の子が、俺の幼馴染、アキノミカンであるということに。


「名字変わったんですね」

「病院に通ってたときはまだ離婚が成立してなくてね……蓮は、どのへんで気付いたんだ?」


 柚梨のことは忘れていたけど、さっき会った柚梨の母さんの顔で確信に至った……とは言いにくい。三十六計しらばっくれるに限る。


「ごく最近ですね」


 お守りにやけにこだわったり、友達についての端々の言葉でなんとなくそんな予感がしていたというのもあるのだが、車で運転してる最中の雑談で「あ、やっぱりこの人、ミカンちゃんのお母さんだ」と気付いてしまった。彼女のお母さんは俺のことをまるで知っているかのような調子で話していた。俺が柚梨と付き合っていることは知っていても、俺が柚梨の過去のことを思い出していないなんて知らなかったのだろう。やけにフランクだと思ったんだよ。

 

「懐かしいなぁ蓮くん。お前が私のことをなんて呼んでたか覚えてるか」


 俺を揶揄するように柚梨は不敵に微笑む。昔は純朴な子だったのに。


「……「柚」って、いまひとつイメージわかなくて、それで柚梨が「みかんの仲間だよ」って教えてくれて、それじゃあミカンちゃんで良いだろうと俺が適当にあだ名を付けた……ですよね?」

「本当に安直だな」

「小学生にハイセンスを求めないで下さい。ていうか年上でしたっけ……てっきり同い年だったかと」

「誕生日のタイミングで、同い年になる時期があるんだよ」


 まあ俺と柚梨で学年が違うといっても、誕生日の差で考えれば数ヶ月だ。

 ほぼ同年齢と言っても差し支えはないが、てっきり同学年の子だとずっと勘違いしていた。


「お前があのときの、子供の頃に会った蓮だってわかって」


 柚梨は、膝の上で組んだ手を組み直し、息を漏らすようにささやかな声を出した。


「……実は、がっかりした」

「あー……」


 そうでしょうね、と言うのはやめたが、相槌からして俺が納得していることは伝わっただろう。


「部活にやる気は無いし、しょぼくれてるし、私より遅いし」

「そりゃ悪うございました」

「勝手に、もうちょっとしっかりしろよって思ってた」

「勝手に思う分には構いません」


 そう言うと柚梨は黙った。

 目をつぶり、苦みに耐えるような、そんな表情をしていた。


 そしてその苦みを、言葉という形で漏らした。


「……あのとき、お前が帰る時に声をかけて、びっくりするくらい罵られて、気付いたんだ。自分が勝手に失望してあんなことを言うなんて、おかしいって。辛い時に助けてもらっておきながらお前を守ることもせず、全部が終わった後にしゃしゃり出るなんて……厚顔無恥だったって」


 それは、本人としてはそうなのだろう。だが俺は別に柚梨を恨む筋合いも無かった。むしろ自分の羞恥心やフラストレーションを柚梨にぶつけただけだ。そんな事情があるなんてこと、あのときの俺は全く知る由もなかった。


「がんばってたつもりだったんだ。蓮が、私を励ましてくれたから。だからきっと蓮も、頑張っているだろうって思っていた。私と同じ人間であるはずなのに。辛いことも経験するし傷つきもする、そんな当たり前のことを直視できなかった」

「……その後色々と助けてくれたじゃないですか。十分ですよ」

「だが……」

「むしろそのせいで今こんな状況になってるわけですし、申し訳ないくらいです。それに」

「それに?」

「俺は中学の時点でファンランナーだったし、家の問題が起きる前の時点でファンランナーでした。ぶっちゃけ、頑張ってなかった。でも柚梨は頑張った。滅茶苦茶頑張ったんだろうなってわかる。人を誘ってけしかけておいて怠けてたんだから、失望するのもある意味当然ですよ」

「でも……」

「というか、良いですか柚梨」


 結局、俺の生き様が柚梨を失望させたのは事実だ。そして失望しながらも、俺を助け、そして労ってくれた。

 過去の友達だったと打ち明けられて、より一層凄いと思った。

 この人を綺麗だと思った。

 ただ綺麗なだけじゃない。一途に、一心不乱に、今まで努力を重ねてきたのだ。

 欠点がない万能人というわけじゃない。

 迂闊なところもあるし打ちひしがれることもある。

 だが才能にあぐらをかいた強者でもない。

 誰かに好意を寄せられることを当然と思うようなアイドルでもカリスマでもない。

 自分の力で少しずつ積み上げ、自分というものを形作っていった人なのだ。


「あなたを好きになっちゃったんだから、俺の敗けです。許します」


 すると柚梨は虚をつかれた顔をして、俺を見た。

 あんまり俺の方をまじまじと見るものだから、あさっての方を見る。眩しい太陽がトラックを照らし、冷え冷えとした空気が徐々に暖かさを帯びてくる。最近は雨続きだったが、今日はとことん暑くなりそうだ。


「いいや、引き分けだよ」


 くすくすと、心底おかしそうに柚梨は笑った。


「ずっと好きだった。迷ったときはあったけど、やっぱりまた好きになった」


 そして柚梨は、少しだけ距離を詰めた。

 肩と肩が触れ合う。


「ずっと、言いたかったんだ。ずっと、言えなかったんだ」

「そこは俺の鈍感さを責めて良いんですよ」

「そのうち、嫌というほど責めてやるさ」


 柚梨の小悪魔じみた微笑みが、あまりにも綺麗だった。


「……お、そろそろウチの学校の連中も来たな」

「ですね」


 我が校のジャージを来た人間が、昨日陣取っていたのと同じ座席にぼちぼち集まり始めていた。今俺達がいる場所からは反対方向で、トラックの方に出るか外に出るかしないと向こうには渡れない。


「よし、行くか」

「あ、いや、俺は一人で応援しようかなと」


 気まずいんだよなー、沖と会うの。

 柚梨との件で利害が一致しただけで、それが片付いてしまえば敢えて仲良くしようとはあんまり思わない。向こうも気まずいだろうし。何より今日は、柚梨との勝負だ。男の俺が茶々を入れるのも気が引ける。


「おいおい、敵地に一人で向かわせる気か? まったく彼氏甲斐の無い奴だな」

「敵って……まあ、敵か」


 柚梨は、沖の方とはある程度和解したとは思ったんだが、やはりそう上手くはいかないか。であれば拙者も助太刀するにやぶさかではない。


「わかりました」


 柚梨と共に座席から立ち、トラック反対側の座席へと動こうとする。

 一旦トラックの方に降りて行くのが近道だが、何故か柚梨は会場の外側へと出て、遠回りな道を選んで歩いて行く。


「あの、トラックの脇を歩いた方近くないですか? この時間ならまだ邪魔にもならないですし」

「ん、いや、ちょっとな」


 すると、人気のないあたりで首根っこを掴まれた。

 この人、俺の髪とか首とか予告なしに掴むものだから困る。

 が、今回は困った以上に驚いた。柚梨の顔が、俺の目の前に迫っていたから。


「……ん」


 唇の柔らかい感触が、何が起きたかを自覚する頃には離れていた。


「やっぱりここまでで良い。それじゃあ行ってくる!」

「あ、ちょ、柚梨!」


 俺が何か気の利いたことを言おうと思っている内に、柚梨は踵を返して走って行ってしまった。なんて不意打ちだ。いつだって俺に予告もない。子供の頃の素直さとは似ても似つかぬ小悪魔ぶりだ。

 朝日を背にして颯爽と駆けていく姿も、子供の頃にみた彼女とは重ならなかったけれど、それでもそのときと同じ気持ちを強く抱いた。

 がんばれ、と。

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