二人分の切符

 準備は万端だった。

 長旅に向けて軽食や菓子や飲み物をたんまりと買い込み、発車時刻までかなりの余裕を残して、僕は切符に指定された座席に着いた。

 隣の窓際の席にはすでに先客がいたが、その白髪交じりの男性は膝に乗せた外套と旅行鞄の上に顔を伏せて、すでに深く眠りこんでいる。寝苦しそうないびきが聞こえてくる。

 発車までまだひと歩きできそうな時間があるが、列車に乗り遅れるのはごめんだし、また手荷物をどうこうするのも億劫で、今更欲張ってまたぞろ出歩かないことにした。

 早起きしてここまで来た疲れや眠気が、体を座席へ深く沈めようとしている。隣の人のいびきを聞いていると、何だか僕まで眠くなってきた。

 うとうとし始めたころ、通路に人の気配を感じて目が覚めた。ずり落ちかけていた眼鏡を少しきつめに押し上げて、顔を上げた。

「乗車券を拝見します」

 見上げると、駅でよく見る制服を着た車掌が、帽子の鍔に軽く指をやって礼をした。列車はまだ駅に停まっているが、早くも検札を始めたようだ。指定席だけ先に済ませておくつもりなのだろうか。

 僕は手帳から切符を抜き、彼に差し出した。検札鋏を持った手を上げることすらせず、切符を一瞥した車掌は眉根を寄せ、そのまま僕に突き返した。

「この乗車券は無効です」

「なぜですか?」

 僕は受け取らずにただ訊き返した。車掌は首を左右に振り、座席から通路へと道を開けるように少し脇へ寄った。

「切符の車内販売はいたしません。発車までにご降車ください」

「なぜですか? この列車の終点、Q中央駅までは、この切符で行けるはずです。日付も、列車番号も、座席番号も間違っていません」

 僕の返事に気分を害したらしく、車掌は絵に描いたような仏頂面を浮かべた。

「なぜって、この列車は、O中央駅行きですよ」

 しまいに薄い嘲笑さえ覗かせた車掌は、まだ切符を僕に差し出したままでいる。僕もできるだけ愛想よく笑みを返して、彼の目を、色の濃い眼鏡を通して見つめ返した。

「いいえ。Q中央駅行きです」

 僕のでも車掌のでもない第三の声が返事をして、僕と車掌は一時停戦して口を噤んだ。僕の隣で眠っていた客が口を挟んだのだった。窓際の席へ振り向くと、額に赤く、外套のボタンの跡をつけた男性が、僕たちに向けて切符を差し出していた。

「私も、Q中央駅に行くんです」

 よく見ると彼の切符はしわくちゃだが、確かにその通りに駅名が印字されている。

 思いがけない援護射撃を得て、車掌の反応が気になってまた顔を上げた。彼は憤懣やるかたない表情で下唇を噛み締めたまま、窓際の席の客を見据えていたが、やがて怒りに震える声で言った。

「裏切ったな」

「だって、貰っちゃったんですもん」

 客はもう一方の手で、空の菓子袋を取り出した。僕も先ほど大量に買い込んできた、名物の菓子の袋だ。

 車掌は、歯ぎしりが聞こえてきそうなほどに食いしばった口から声を絞り出した。

「うまかったか」

「そりゃあ、もう」

「くそ……」

 窓際の客は僕に向けて片目をつぶった。もうひとつの黒い目が、昏い窓が、僕を見つめる。

 ――ああ、そうなんだ。

 僕は眼鏡を外してポケットに入れた。座ったまま姿勢を正し、車掌に向き直る。

「あなたは車掌じゃない。Qの街の鉱夫ですね」

 宙に切符を差し出したままの彼女の手首に、その古傷だらけの場所へ、僕の手の平を重ねた。

 驚くべき早さで身を翻そうとしたその手を掴み、引き寄せて顔を覗きこんだ。そこにいるのはもはや制服を着た車掌ではなく、薄汚れたつなぎを着た女性だった。

 彼女が僕の顔を覗き返した時、その目が大きく見開かれて、僕の目の片方を凝視したまま釘付けになった。

「おまえ、それは……」

「あなたが採掘した、〈夜〉の石のひとつです」

 僕の片目に縛られたまま突然彼女が膝を折ったので、慌ててその肩を支えた。僕より少し低く、近くなった彼女の耳へと、僕は言葉を吹き寄せた。

「あなたにはお礼を言わなければいけない。この義眼のおかげで、僕は第二の人生を得たのだから」

 震え始めた彼女の肩をしっかりと捕まえた。彼女は僕から目を逸らさなかった。

「知っていたのか。おまえ。そんなことをしたら、どうなるのか」

「知りたいんですか」

 見開かれたままの彼女の目から黒い涙が流れ出たのを見て、僕は口を噤んだ。彼女の肩から手を離して体を屈め、足元に落ちていた切符を拾い上げた。

「僕はQへ行きます」

 体を起こした時、くずおれたままの鉱夫の背後に、いつの間にか車掌が立っていた。今度こそ本物だろう。知らぬ間に、すでに列車は走り出していた。

 車掌は彼女を助け起こし、遠慮がちに口を開いた。

「乗車券を拝見します」

 最初に、窓際の客がしわくちゃの切符を差し出した。

「Q中央駅行きですね」

 切符に鋏が入れられて、客の手の中に戻って、またしわくちゃになる。

「次の方」

 鉱夫が物言わず祈りながら拒否している、その縋る目を痛みで感じながら、僕は自分の切符を差し出した。切符と僕と彼女を順に一瞥した車掌が、ふと笑みを浮かべた。

「Q中央駅まで、二名様ですね」

 切符に鋏が入れられた。

 一礼して去って行く車掌の背後で、僕以外の誰にも気付かれずに、鉱夫と一人の客の姿が音もなく消えた。

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夜の鉱夫はカフェにいる 家々 @ieieirie

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