へロー・マイ・アース

秋田川緑

へロー・マイ・アース

 アダム・ブリムッシュ少年は太陽の眩しさに目を覚ました。

 人工のライトではない、強くて温かい光である。

 身体を起こそうとしたが、どうも上手くいかない。同時に混乱したのは、とても強い重力を身体に感じたからだった。


「目を覚ましたんですね? 良かった」


 女性の声に顔を上げたが、頭がクラクラした。頭でも打ったと思ったが、痛みがないのでそうでもないらしい。


「あの、どうして僕はここにいるんでしょうか?」

「空から宇宙船が降りて来たんです。そしたら中に、君が」

「宇宙船?」


 アダムはそう言われても何も思い出せなかった。


「ごめんなさい。ちょっと記憶が混乱していて。ここはどこなんですか? スペースコロニーじゃないみたいだけど」


 木材で出来た建築物の中にいることは間違いない。

 いや、家具もみんな植物の素材のようだ。

 触った感覚だとベッドのシーツも科学繊維ですらないらしい。

 だとすると宇宙にあるスペースコロニーではなかなかお目にかかれない、とてつもない高級品が自分の周りにある事になる。

 何よりも重力である。スペースコロニーは円柱型の建造物が回転し、遠心力によって擬似的な重力を形成していたが、今感じているこれはそれよりもずっと強く自分の体を重くしている。この強さは衛星レベルの小惑星居住区でもありえない。

 ふと、視界に、花瓶に飾ってある花を見つけた。


「花?」

「ごめんなさい。造花なんです」

「ああ、そうなんだ。でも、とても綺麗だと思う」

「本物は外に咲いてますよ。窓の外からも見えます。良かったら持ってきましょうか?」


 アダムはジッとしていられずに起き上がった。やはり頭がくらくらとしている。だが、陽の差し込んでいる窓の外を見ると、黄色や赤、青や白と、様々な色の花が咲き乱れる花の楽園が広がっていた。


「すごい」

「ええ。ちょうど咲いていて良かった。あ、すいません。私、イヴって言います」


 アダムは気がついたように声の主へ視線を動かした。ニコニコと笑顔を見せたイヴは優しい雰囲気で少年を見ている。

 彼女ははつらつとしていてとても若く見えた。おまけに美人である。大きな目に、少し高い鼻。金色の髪。一体何歳なのだろう。アダムは今年で十五歳である。自分よりは年上、少なくとも二十代であるのは間違いない。が、女性に年齢を聞くことは躊躇われた。礼儀の問題である。


「ありがとう、イヴ。僕はアダムって言うんだ。アダム・ブリムッシュ。でも、ごめんなさい。記憶の混乱があって、自分のことで覚えているのはそれだけみたいなんです」

「無理なさらないで。……そっか。アダム君って言うんだ。素敵な名前ね、アダム君」

「そうかな? 変わった名前だってずっと言われてた。綴りとか発音とか。父が別の星系の人だったから、それで……」


 言いかけて思い出す。そうだ。一緒にいたはずの父は、一体どうしたのだろう。ここはどうやらどこかの惑星のようだが、いったい何処にある星なのだろうか。自分はなぜここにいる?

 記憶を掘り起こそうとした。が、次々と蘇って来た物に肝心の記憶はなく、思い出したのは悲しい出来事だけだった。


「あの、どうしたんですか? アダム君?」

「ごめん。覚えていることもあるんだけれど、悲しいことばかりだったから」


 アダムは気持ちを切り替えた。


「イヴさん。宇宙船に僕以外の人はいなかった?」

「いえ、君だけでした。誰かと一緒にいたんですか?」


 その部分はアダムも思い出したかった。


「その宇宙船、見させてもらっても良いですか?」

「ええ。かまいませんよ」


 イヴに案内されて建物を出ると、その眼前に広がる満ち溢れた生命の数にアダムは圧倒されることになった。


「すごい」


 それしか言葉が出て来ない。

 風。草木。鳥。木々のざわめき。緑の匂い。

 自分の知っている世界とはまるで別の世界である。

 頭のふらつきはもう無い。

 ただただ全てが新鮮で、アダムの胸はそれだけで一杯になった。


「こっちです。すぐ近く」


 前を歩くイヴを見て、アダムは改めて美人だと思う。

 金色の髪が光を反射してとても綺麗だった。また、それがエメラルド色に輝く植物達に溶け込み、とても素敵だと感じた。


「どうしました?」


 振り返ったイヴの純真な顔を見て、アダムは我を取り戻す。


「宇宙船って言うのは、あれですか?」

「はい。あれです」


 宇宙船と言うのは、どうやら脱出艇の降下ポットのことだったらしい。

 一部、装甲が破られているが、イヴがやったのだろうか。

 確かに、ハッチを開けるには内部からの操作が必要だが、いったいどうやったのだろう。

 だが、そう思ったその瞬間、アダムは全てを思い出していた。

 家族のこと。自分のこと。今までのことである。


「そうか。ここに来たのは、僕一人だ」

「アダム君?」

「思い出したんだ。全部」


 そして、記憶が蘇ったとたん、酷い疲労感がアダムを襲った。それだけのことがあったのだ。


「少し、疲れたみたいです」


 アダムは正直に言った。


「そうですか。では、戻りましょう。お食事でもとって、もう少しお休みになってください」


 イヴの優しさも、また素直だった。

 小鳥のさえずりが遠くに聞こえ、柔らかな陽の光と、涼しげな風が吹いている。

 その暖かな自然の中、二人は歩いて家へと帰った。


 ――イヴの食事は塩気こそ薄いものの、アダムがなかなか食べることの出来なかった希少な食材ばかりだった。

 複数の種類の葉を和えたサラダは新鮮そのものでみずみずしく、歯ざわりも心地良い。ドレッシングは旨みのある植物のオイルと果物から作られたフルーツビネガーをベースに、すりつぶした薬味で風味を豊かにしたものだ。これがまたサラダにとても合っている。豊かに肥えている豆のスープはトマトベースの酸味が利いていて、これもまた目の覚めるような味わいだった。


「おいしい」

「私が育ててた野菜なんですけど、口に合ったみたいで良かった。でも、その、簡単なものでごめんなさいね。私の料理、いつか誰かに食べさせたいな、なんて思ってはいたんですけど。急だったから」


 アダムが現れたのが予定に無かったのは当然である。


「ねぇ、アダム君。思い出したって言ってたけど、君の事、聞いても良い?」

「ええ。僕はアダム・ブリムッシュ。父は軍人で、母は工場勤務者でした。生まれも育ちもスペースコロニーで、妹と兄がいて、五人家族です」

「へぇ、家族がいたんですね。五人家族って素敵だと思う」

「でも、父が任務で地上に住んでいたので。四人家族みたいなものでしたけど。でも、戦争に巻き込まれて。……イヴさんも知ってるでしょう?」

「戦争?」


 アダムは驚いた。知らないはずが無い。


「第十三次大戦です。五年前に始まった、宇宙中が戦争になっている今の戦争ですよ」

「ごめんなさい。分からないです」


 ……この惑星の座標はどこなのだろうか。

 大戦に巻き込まれていない星系はありえるのかもしれないが、戦争の情報そのものが入ってこない場所などありえるのだろうか。

 アダムには検討のつけようが無かった。


 第十三次銀河大戦。一つの星系と星系が資源の奪い合いを始めたその戦争は、瞬く間に全宇宙へと広がっていた。

 十三回目になるこの宇宙規模の戦争は、戦いの準備をしていなかった星系にとっては不幸と呼ぶより他は無かった。アダムが暮らしていた星系もその一つである。


「とにかく、戦争です。コロニーがいくつか毒ガスで全滅したって聞いて、それで疎開することになったんです。地上にいた父のいる場所まで。軍人だった父の特権もありましたし。でも、降下シャトルでなんとか地上に降下したのは良いのですが、そこからが大変でした。敵も僕達の後に降下して来たんです。宇宙軍は抵抗したみたいなんですが、止められなかったみたいで」


 イヴは黙ってアダムの話を聞いていた。


「父のいる場所までの交通機関がストップしたので、僕達は自力でその場所まで行かなくてはなりませんでした。でも、母は民衆の暴動に巻き込まれた時に……兄も市街戦が起きた時、流れ弾で動けなくなった妹を助けようとしたところを爆撃に巻き込まれて、妹と一緒に。父の元に辿り着けたのは、僕だけでした」

「ごめんなさい。無理して話さなくても良いから」


 気がつくと泣いていた。家族の言葉を思い出すと、止められなかった。


『待っててね。今日こそは何か食べ物、もらってくるから』

『好きな男の子だっていたよ。離れ離れになっちゃったけど、でも、いつか会えると良いな』

『志願しないかって、また誘われたよ。未成年の徴兵も始まるって噂もあるみたいで。でも、父さんのところまで行けば、きっと大丈夫さ』


 母は三十八歳。妹は十三歳で、兄は十七歳だった。


「父は宇宙に転属になりました。僕を一緒に連れて宇宙に上がったんです。そして、脱走しました。父の友人や部下達と、偽装した貨物船で。……人口が四割も減って、敗戦は目に見えているのに、軍の首脳部が戦闘継続を決定したからです。追っ手を振り切って、敵の包囲網の一番弱い場所を突破して。それで他の星系に亡命する手はずでした。父が元々住んでいた星に。でも、銀河航行中にトラブルがあって」


 何もかも順調のはずだった。追っ手は全て撒いたし、包囲網の脱出にも成功した。

 だが、世が乱れると必ず出没する連中がいる。過去の大戦時でも急増し、その後の時代にも影響を与え続けている存在。宇宙海賊である。

 貨物船が強制的に亜空間からワープアウトして通常空間に出された時、すでにアダムら脱走兵の乗っていた偽装貨物船は戦闘艦に包囲されていた。

 戦える力は無い。唯一デブリ粉砕用の装備はあったが、戦闘用に武装した戦闘艦に勝てる戦力など、こちらにはなかったのだ。


「僕と父以外は全員、先に他の脱出艇で脱出しました。海賊達の目的は積み荷だったみたいなので、無事に脱出できたと思います。でも、貨物はただの偽装だったので積み荷なんて最初から積んで無かった。そしたら、積み荷がないのがばれたらどうなるかわからないから時間稼ぎをするって父が。それで、僕一人を最後に脱出させたんです。最後の脱出艇でした。それから海賊達の追っ手に追われて。それからどこをどう移動したかわかりません。亜高速移動を繰り返して、それで偶然にこの星を見つけたんです。でも、無理をさせすぎたんですね。脱出艇のシールドが限界になって航行不能になりました。それで、一か八かでしたが、脱出艇の降下ポットに乗って大気圏突入することにしたんです。ただ、脱出ポットの推進力じゃ、惑星到達まで食料どころか酸素も足りなさそうだったので、生命維持モードで自分を仮死状態にさせて眠りました。後はコンピューターに任せて。記憶が混乱してたのが何でなのかは分からないんですけれど、起きたらイヴさんに助け出されてて。あの、今更になるんですが、ありがとうございました」


 一気に話した。

 それが全てだった。

 アダムは父が最後に言った言葉を実践したのだ。


『お前はなんとしても生き延びろ』


 死ぬわけには行かなかった。

 母のため、妹のため、兄のため、自分を生かそうと必死になった父のため。

 そして、無我夢中で逃げ出した先。この惑星がここまで自然豊かだと言うことは、本当に意外だった。

 そもそも感知可能範囲に惑星なんて無かったのだはずなのだ。

 至近距離まで近づいて、初めて知覚出来たのである。

 あらゆるレーダーに反応しない星。それがなぜなのかはアダムには知る由も無い。

 ただ、通常の銀河航行をしていては、とても発見出来なかっただろう星に自分がいると言うことに、何か運命めいた物すら感じていた。


「辛いことを思い出させてごめんなさい。でも、話してくれてありがとう」


 イヴは全てを聞き終わるとテーブルの上に何かをゴトリと音を立てて置いた。

 銃器のようだった。


「これは?」

「ショックガンです。それと、もう一回ごめんなさい。記憶の混乱、私のせいかもしれないです。その、降りて来たのに気づいて、慌てて宇宙船の前まで行ったんですが。農業を手伝ってもらってるロボットが宇宙船を解体し始めちゃってたみたいで。多分、ゴミだと思ったんだと思います。それで、怖い人が乗ってて怒ってたらどうしようって、これを持って宇宙船の中に入ったんです。そしたら、物陰から急にあなたが出てきたので、とっさに撃ってしまいました。頭に当たったから、心配で。とにかく、ごめんなさい」

「ああ、それで」

「大変だったでしょう」


 イヴはアダムの頭を撫でていた。


「イヴさん。その、イヴさん以外の人はここにいないんですか?」

「私は、ずっと一人です。昔はそうじゃなかったけど、みんな死んでしまったから」

 イヴが言った先ほどの言葉が甦る。

『私の料理、いつか誰かに食べさせたいな、なんて思ってはいたんですけど』

「アダム君。ずっとここにいて良いからね」


 それからの生活はアダムにとって幸福だった。

 食べ物の心配もない。銃弾が飛ぶことに怯えることも無い。夜、安心してぐっすり眠ることが出来る生活は、久しぶりに迎えた平和そのものだった。

 何よりも、一緒にいる女性。イヴと言う存在が、アダムの心をとても満ち足りたものにしていた。

 イヴは知性的で様々なことを知っていた。農業、工作、調理。そして医療までも。

 力仕事そのものはロボットの補助があったようだが、驚いたことに、ここにあるほぼ全てのものをイヴは自作していた。

 家具、建築物、衣服や小物まで、ほぼ全てである。

 ガラスの食器。石造りのかまど。鉄で出来た調理器具。それらの材料は資源回収用のロボットが集めて持ってきてくれているようだった。


「このロボット達は昔、一緒に暮らしていた人たちが残してくれたんです」

「でも、なんて言うか、すごい年季入ってるね、このロボット。ところどころ改良とか改修とかされてるみたいだけど、見たこと無い形だし」

「ええ。思いついたことは全て取り入れたりしてやってみてるんですが。思い入れもありますし、形を変えるなんて事、私には出来なくて」


 イヴが遠い目をしている時、アダムは複雑な気持ちになる。

 嫉妬しているわけではない。だが、それでも、自分がいることの無かった思い出と言うものが気になって仕方がなかった。


「イヴさん。昔の事を聞いても良い? イヴさんのこと」

「ええ。良いわよ。昔、他の星への移住をする計画があって、私はその船に乗っていたの。冷凍睡眠で眠りながら人が住める星を探して、皆でそこに住もうって。それでこの星を見つけて降りたんだけど。通信機がみんな使えなくなってしまって。それで、とりあえずは皆で人が住めるように色々と施設を作ったの」

「畑とか、そう言うもの?」

「そうね。もっと他のものもあったけど、でも、旅に出た人もいたし、どんどん人が減っていって。最後には私一人で暮らすことになってしまったの」

「そっか。でも、僕と言葉が通じてよかったよ。生きてた星が違ったら言葉が通じないなんて、けっこうあるから。こうして会えても、会話できないんじゃ困ってたと思う」

「私もアダム君と話せてとっても嬉しいよ。ロボットは一杯要るけど、ずっと一人で寂しかったんだもん。いつか旅に出た誰かが帰ってくるんじゃないかって思ったり、他の星から会いに来てくれるんじゃないかってずっと思ってたけど、それでも来てくれたのはアダム君だけだったから。だから、ほんとに嬉しくて、その……」


 突然の静寂が訪れた。

 イヴの大きな目がアダムの目を見つめて、数秒。

 その後、二人は同時にその沈黙を打ち破ろうと必死になった。


「い、イヴさん」

「あ、あの、変な空気になっちゃいましたね。すいません」


 恥ずかしそうに視線を逸らしたイヴを見て、アダムは、これが恋なのかと思った。

 初恋だった。

 とは言え、アダムはまだ十五歳である。その好意をどうしたら目の前の女性に伝えられるのかは、何も思いつかなかった。

 ただただ農作業について回り、ロボットのメンテナンスを手伝う。それだけしか出来なかったが、一緒にいれるだけでとても幸せだった。

 だが、その幸せも長く続かなかった。

 ある日のことである。アダムは農作業中、ロボットの一体が機能を停止していることに気づいた。

 それは見るからに外部的な要因によるものだった。破壊行為である。すぐさま犯人を探したが、探すまでもなく、犯人はアダムの前に現れた。

 それは、ボロ布をまとい、鈍器を持った見知らぬ少女だった。


「君は、誰?」


 アダムの声に反応した少女はアダムの姿を認めたものの、言葉そのものは理解はしていないようだった。

 ただ、持っている鈍器を突きつけると、アダムを威嚇しているように何かを話している。

 少女はイヴとはまるで違った。浅黒い肌で黒髪の少女である。年は十三歳くらいだろうか。ちょうど死んだ妹と同じくらいの年代に見えた。

 その少女が鈍器を振り上げ、アダムに迫って来ている。


「アダム君、伏せて!」


 救援に現れたイブがショックガンで少女を狙撃した。

 少女は倒れこみ、動かなくなった。


「あの、この子は?」

「現地民の子、だと思う。滅多にやっては来ないんですけど、農作物を荒らしたり、ロボットを壊していくんです」

「現地民?」

「はい。近くに住んでいるわけではないみたいなんですが、言葉が通じないから交渉も出来なくて。とりあえずその子、家に運びましょう」


 年下の女の子とは言え、人一人を運ぶと言うのはとても大変だった。


「この子、どうしよう」


 空いていた部屋のベットに寝かせてから、二人は考え込んだ。


「見張るのは大変ですよね? ドアに鍵をかけて閉じ込めて置くって言うのも、可哀想だし」

「でも、そうするしかないかも。とりあえず目覚めるのを待ちましょう? そしたら、なんとかなだめて、住んでいたところに帰ってもらって」


 だが、それは無理な相談だった。

 目を覚ました少女は、暴れてアダムをめちゃくちゃに殴りつけたのである。

 イヴは、再びショックガンの引き金を引かなければならなかった。


「どうしましょう」

「困ったね。とりあえず、可哀想だけど縛っておこうか。ねえ、アダム君、怪我とかしてない? 大丈夫?」

「うん。この子、凄い痩せてるし、それにやっぱり女の子だからね。派手に暴れてたけど、あんまり痛くなかった。縛っておけば動けないし、大丈夫じゃないかな? 落ち着くまで待ってみよう。お腹も減っているだろうし」


 だが、空腹感とは別の問題がそこにはあった。

 少女は再び目覚めた後、紐で縛られていたので今度は暴れることが出来ず、それが出来ないと分かると今度は怯えて震えだした。


「怖がっている?」


 アダムはその姿に、過去の自分を重ね合わせていた。

 戦争を恐れていた時の自分である。


「大丈夫だよ。怖くないから」


 優しい言葉をかけて、果物のジャムを塗ったパンを差し出す。


「お腹、空いてるでしょ? 今から手のロープ外すけど、暴れないでね」


 少女は拘束を解かれても警戒していた。


「大丈夫」


 アダムはパンの端をちぎって美味しそうに咀嚼すると、飲み込んだ。


「甘くて美味しいよ。ジャム、たっぷりつけたから」


 少女は恐る恐る少しだけ口に入れると、次には一気に頬張ってむしゃむしゃと食べ始めた。

 見事な食べっぷりだった。


「おかわり持ってくるよ」

「あ……あ」


 少女はアダムの服を掴む。


「アリガト」

「喋った?」

「?」


 単語だけしか聞き取れないのかもしれないと思い直して、ゆっくりと聞いてみる。


「言葉。分かる?」

「スコシ。ヒサシブリ、オイシ、デシタ。アリガト」


 少女はそう言うとボロボロと涙を流し始めた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「マジョ」

「何?」

「マジョ、ノロイ、ムラ」


 言っている意味が分からなかった。

 と、ちょうどそこへイヴが入ってくる。

 少女が突然に目を見開いて、暴れ始めた。


「マジョ! コイツ!」

「落ち着いて! マジョって魔女? イヴさん、何を言ってるか分かる?」

「……さぁ、私には、何とも」


 本当に分からない様子でイヴは首をかしげた。


「とりあえず、私は部屋に入らないほうが良いみたいだね。アダム君、任せて良い?」

「はい」


 イヴに向けて威嚇の視線を投げている少女は、イヴがいなくなっても落ち着きを取り戻さなかった。


「待って。落ち着く。大丈夫」


 必死に言葉を投げかける。


「ムラ。シンダ。マジョ。ノロイ」


 魔女のせいで村が死んだ? 呪い? アダムは言葉をパズルのように組み合わせて、その意味を憶測した。

 魔女。少女の様子を見る限り、イヴのことである。


「大丈夫だよ。このパンだって、あの女の人が作ったんだから」


 だが、少女はそれでも納得しなかった。

 アダムがいなければ落ち着いた様子を見せず、イヴの顔を見れば暴れていた。


「困ったわね。あの様子じゃ、部屋から出せないし。それにあの身体、痩せすぎだと思う。多分、長い間、まともな食事をしていないんじゃないかしら。どう見ても栄養失調よ。このままじゃ帰すに帰せない」

「ええ。そう思います」


 アダムは食糧不足で飢餓にあえぐ難民の姿を思い出していた。


「しばらく、このまま様子を見ましょう。きちんとご飯を食べさせて、回復すれば、心だってすぐに良くなると思います」


 ようやく警戒を解いたのは、少女が高熱を出して倒れた後、薬草を配合して作った薬をイヴに処方されてからだった。

 その頃にはアダムが毎日会話を試みていたせいか、言葉を理解し始めていた。

 利発な少女だった。また、ガリガリだった身体はイヴの食事のおかげで、段々とその健康らしさを取り戻していった。

 回復してみれば可愛らしい、年頃の少女である。


「ごめんなさい。私。リィリス」


 少女が謝罪しながらアダムとイヴに名前を教えたのは初めての接触から三ヶ月後のことであった。


「魔女。魔女だけど魔女じゃない。分かった」


 言葉は発音も良いものとなっていたが、まだ片言である。


「イヴが魔女って、何で?」

「ここ。怪物。いっぱいいる」

「怪物? ああ、ロボットのことか」

「それに。ズットいる。だから」

「ずっといる?」

「……アダム君。リィリスちゃん、何言ってるかわかる?」

「分からない」


 リィリスはまだ何か言いたそうな複雑な表情を見せたが、それっきり何も言わなかった。


 ――これは、アダムが後年知ったことだが、リィリスの住んでいた村は全滅していた。

 原因は不明である。ただ、生き残っているものは誰一人としていなかった。

 ただ、その廃墟に文明的な物が残っていたところを見ると、旅に出たと言うイヴの仲間が、その村に何らかの痕跡を残していたのは間違いない。

 少なくとも、リィリスがアダムの話している言語を少しだけ話せたのは、その影響によるものが大きいのだろう。

 そしてイヴのことをこの村の人々が知っていたのも間違いはなく、魔女と呼ばれていたのも、後から考えれば納得のいく物だった。

 ただ、この時、アダムは知らなかった。知らなかったのだ。


 終わりは急速に近づいてきていた。


 ――何日後かの夜。アダムは夜中にイヴの寝室に侵入すると、着替えようとしていたその身体を抱きしめた。


「アダム君? こんな時間に何しに、ん……」


 目と目、手と手。口と口。

 アダムにとってキスは初めてで、しかも無理やりだった。正直上手くやれた自信は無い。

 だが、我慢の限界だった。

 その日、つい先刻。リィリスがアダムの部屋に尋ねてきて、こう言ったのである。


「アダム。私。アダムのこと、好き」


 それは、恋をしている少女の目だった。

 寂しかった。会えて嬉しかったと言っているイヴの目とは、少し違った。

 それまで、アダムはイヴも自分のことを憎からず思ってくれていると信じて疑っていなかった。

 だが、リィリスの表情を見て、すれ違っていた心をはっきりと認識してしまったのである。

 それは何かの間違いだと思いたかった。同時に、アダムはイヴのことが欲しくてたまらなくなった。少年の、性の目覚め。家族を失い、愛に飢えた人間の渇望。

 だが、アダムが身体を強く抱きしめようとすると、イヴは拒絶した。


「やめて」

「どうして?」

「アダム君のこと、嫌いじゃないよ。でも」

「僕はイブのことが好きなんだ。愛しているんだ」

「だめ。それは」

「どうして?」

「……怖いの」

「そんな。怖いことなんて、僕は」

「違うの。あなたが怖いんじゃない。私だって本当はあなたが好き。そう見えなかったかもしれないけど。……でも、今日は自分の部屋に帰って。もう少し考えさせて。お願い」


 アダムは何も言えなかった。そして、部屋を出た時、リィリスが廊下に立っていたのに気づいた。


「リィリス」


 リィリスが部屋を覗いていたのは明白だった。

 リィリスは泣いていたのだ。静かに、ひっそりと。


「アダム。私は。アダムは、あの」

「リィリス。ごめん」


 その日、アダムが言えたのはそれだけだった。


 そして、翌日。イヴが死んだ。

 あまりにもあっけない最後だった。

 朝、アダムが起きると、昨晩の行動に、とんでもない罪悪感を感じてしまっていた。

 謝りたかった。時刻はまだ早朝だったので迷惑かもとも思ったし、実際には合わせる顔もない様な物だったが、それでも。

 アダムはイヴの寝室に向かったが、廊下でその部屋のドアが開いているのに気づいた。

 続いて物音である。それは、何かが争うような不吉な音だった。


「イヴ?」


 部屋の中に入ると、調理用の包丁を持ったリィリスが震えていた。

 そして、床には金色の髪の毛をした女性が息も絶え絶えに転がっているのである。


「そんな」


 アダムの混乱した顔を見て、リィリスが刃物を落とした。


「ごめんなさい。私。でも」

「リィリス! なんで、なんでこんなことを、ああ、イヴ!」


 だが、駆け寄ったアダムに、イヴはゆっくりと言うのだった。


「違います。包丁じゃありません。私、刺されていませんから。でも、刺されてたって別に良いんです。そんなんじゃ、死にませんし、どっちみち、もう、長くないって分かってたから。それが今日だったのは、私も意外だったけど」


 良く見ると、包丁に血がついていない。


「イヴ。言っている意味が分からないよ。長くないって、どうして?」

「経年劣化、なんです。改良と改修は、時々試してもみたんですけど。どうしても、今の形を変えたくなかったから」

「経年劣化?」

「ごめんなさい。私は、ロボットなんです。人造人間なんです。Eタイプ。Ⅴ(5)番目の試作機、ヴァージョンE。EVE。通称としての名前がイヴです。人間らしく、人間の心と変わらずに思考して、睡眠し、共に食事を取り、友達や恋人として様々な種類のコミュニケーションを取れる。長い宇宙生活の中で必要不可欠な存在と考えられて作られた。それが私です」

「な、何を言ってるんだよ」

「作り物なんです。私が他の人とこの星に降りてきたのは3821年前。その時に乗っていた最後の人が死んだのが、3763年前です」


 リィリスが以前に言った『ずっといる』と言う言葉が蘇る。

 作り物。この言葉をアダムは理解した。

 イヴは、本当に長い間、ずっと一人でこの場所で暮らしていたのだ。

 リィリスの親の世代、祖父の世代、それよりもずっと長く。


「イヴ……そんな」

「ねぇ、アダム君。お願い。もう見ないで。私も、アダム君のことが好きだった。昨日だって、本当は嬉しくてたまらなかった。でも、私の、この心も作り物なんです。怖かったんです。あなたに拒絶されるのが。本当は、命を持ってない、私のことを知られるのが。私は、作り物なんです」


 仕組まれた人格。でも、それでも。


「……でも、綺麗だよ」


 アダムは心の底から正直に伝えた。


「綺麗なんだ。間違いなく人間だよ。君は、誰よりも優しい心を持った人間なんだよ。血と肉を持った身体を持ってたって、宇宙中で戦争やって殺しあってる奴らを僕は知ってる。僕の家族を殺したあいつらに比べたら、例えロボットでも君の方がよっぽど人間なんだ。ロボットだなんて関係ないよ。好きだよ、イヴ。君のことがとても。もっと、君と話がしたい。死ぬなんて、嘘なんだろ? だって、いきなりすぎるじゃないか。君が死ぬなんて、そんな」

「ああ、アダム君。あなたに会えて、本当に良かった。こんな幸せな気持ちになれたから。……最後に、伝えたいことがあります。農園の倉庫に、隠し扉とエレベーターがあって、そこから地下に降りられます。そこに、私が管理する権限が無かった施設があるんです。きっと、そこに宇宙船もあります。そしたら」


 ……


「……イヴ?」


 話の途中だった。でも、それが最後だった。

 イブは、時間が停止したかのようにその表情を凍りつかせ、そのまま動かなくなった。



 アダムは酷く悲しんだ後、リィリスを地上に残したまま、イヴの言っていた施設を見に行った。

 地下のとても深い場所に、それはあった。

 惑星を外部から隠す大掛かりな偽装システムと、年代は古いようだったが宇宙船。それからさまざまな装置の製造機械。

 イヴを修理する機械を探したが、その場所には無かった。

 だが、チェックした限り、施設の全ては生きている。今も一部は稼働中だ。

 アダムから見ても旧時代の永久炉。そして惑星偽装装置。

 なるほど。至近距離まで近づかなければ補足出来なかったのは、そう言うことだったのか。

 三千八百年。時代から言うと、一番初めの銀河大戦と二番目に起きた大戦の、ちょうど中間の時代。

 この偽装装置を作った人間は、この星が資源の奪い合いや、人間の私利私欲の舞台になるのを予想してしまい、なんとしてもその存在を隠したかったのだろう。

 この星は戦い合う人間たちの歴史の裏側で、ひっそりと平和な星としてここに存在していたのだ。

 そして、施設の全てを管理するコンピューターもまだ生きている。


『へロー、マスター。以前のアクセスから3766年が経っています。お久しぶりですね。どうしますか?』


 宇宙船は見たことの無い形だったが、施設の格納庫にあった。

 だがしかし、アダムの心は決まっていた。


「惑星偽装装置の継続」

『はい。引き続き偽装を続けます。ところで、以前、この惑星の名前をつけると言う会議が中断した際に、命名の箇所に何も記入されていません。そろそろ名前をつけてはいかがでしょうか?』

「名前か」


 別に決めなくても良い気もしていたが、アダムは名前をつけたいと思った。

 イブが生きていた星。これから自分が生きていくこの星に、名前が欲しかったのだ。


「『アース』にする」

『了解しました。これより、惑星名をアースとします。それでは次の命令をどうぞ』

 アダムはエレベーターで地上に戻ると、リィリスの待っている家。

 イヴと暮らした思い出の場所へと帰っていった。


〈了〉

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