第2話
――しゴムくん。――消しゴム君。
『消しゴム君。……おお、ようやく気が付いたね』
気遣わしげなシャーペンさんの声は、どこか聞き覚えのある喧騒の中にあった。
『シャーペンさん、……ここは、学校ですか?』
『ああ。心配したぞ消しゴム君。何せ君はこの一週間、一度も目を覚まさなかったんだからな』
『一週間。ということは、ここってまさか』
シャーペンさんの無言の同意が僕の予想を裏付けてくれた。
試験会場。県立大のキャンパスだ。
辺りを埋め尽くす人、人、人。世の受験生すべてが今ここに集まっているのだと言われたら、世間の狭い僕はすんなり信じたことだろう。多種多様な学生服の生徒、あるいは私服の青年たちが、あっちへうろうろこっちへうろうろ、座り込んだり話し込んだりスマホの画面を覗き込んだり、それはもう大変な騒ぎになっている。
『もうそろそろ試験会場へ向かう時間だ。移動が始まっている』
シャーペンさんと僕は、キャンパス内にあるロータリーの、冷たいブロックの上で剥き出しのまま風にさらされていた。隣に座った持ち主殿を見上げて、僕は痛ましさに愕然とした。明らかにやつれている。目が血走っていてひどく顔色が悪い。僕が気を失っている間、一体どれほどの無理を重ね続けていたか、確かめるまでもなく分かる顔つきだった。
持ち主殿が目を落としているのは数学の教科書だ。
『シャーペンさん、ひょっとして』
『そうだ。午前中のテストはすでに終わって、午後は数学を残すのみ』
『数学……、うっ!』
ふいに背中が焼けるように熱くなった。思わず呻いた僕の前でシャーペンさんも辛そうだった。
『大丈夫か、消しゴム君。きっと書かれたものが反応したんだな』
『書かれたものって、まさか』
そうあって欲しくないと祈りながらも、僕にはそれ以外の何かを思い浮かべることができなかった。
数学の苦手な持ち主殿が、限られたチャンスを何としても掴むために、あの日、震える指先で僕の背中に刻んだもの。
僕はもう一度呻かずにはいられなかった。心が締め付けられて、痛くて痛くて仕方なかった。人よりずっとずっと、物を大事に扱ってくれる持ち主殿、優しくて思いやり深いこの人を、受験勉強の孤独な戦いが変えてしまったのだと思うと辛かった。
『君の背中には数学の公式がびっしりと書き込まれている』
込み上げてくる何かを強く押さえ付けるように、シャーペンさんの声は震えていた。
『決して取るべきでない手段だ。卑怯者の技だ。こんなに悔しいこと、何かの間違いに決まっている。我々の持ち主殿は、持ち主殿はもっと、もっと気高くて、誠実で、もっと、もっと……!』
シャーペンさんは涙を流さずに泣いていた。
それから先は、まるで幻の中にいるような感覚だった。会場に入ると、さっきまであんなに騒々しかった辺りは呆れるほど静かになって、遠くでノートをめくる音さえはっきりと聞こえてきた。
整然と並んだ机。そこに座って俯いたままの制服たち。配られる答案用紙と問題用紙。持ち主殿の目は泳いでいた。忙しい鼓動がこちらにまで伝わってくる。僕は机の上に仰向けのまま、成り行きに任せるほかない自分の無力さを呪っていた。
監督官の声が聞こえていたかどうか、周囲の生徒が一斉に動き出したことに随分と驚いた様子で、持ち主殿はシャーペンさんを握った。
僕は問題用紙に向かう持ち主殿の目をじっと見つめた。
何て真剣なのだろう。当たり前だ。今日この日のために努力を重ねてきたのだから。思えば、自分の学力が振るわないことをこの人は一度も嘆かなかった。投げ出すことをしなかった。持ち主殿にはきっと見えていたはずだ。彼方に瞬く星々の手招きが。そこへ向かって、これまでずっと自分を高めてきた。それなのに。
どうか僕を裏返さないで。そう心の底から祈った。
僕の背中を見てはいけない。そのままの自分で戦い抜いて。
カンニングなんかで導き出した答えがあなたに何を教えてくれるっていうんだ。
しばらく経って、持ち主殿の手が止まった。見つめているのは最も苦手とする分野。三角関数、指数関数の公式を用いる、高い計算力が求められる設問だ。いたずらに時間だけが流れていく。監督官の一人が近付いてきた。
残りの試験時間が少ないのは明らかで、周囲には文具を仕舞った生徒も目立ち始めた。持ち主殿の手が僕に伸びてきた。視線は問題用紙と答案の空欄部分とを行ったり来たりしている。僕の用途は明白だ。
背負わされた物のおぞましさとあまりの緊張に、僕は再び気を失いそうだった。止せ、止めるんだ、と叫ぶシャーペンさんの悲痛な声が遠ざかっていく。時間がない。監督官は通り過ぎた。今ならきっと誰にも分からない。
必死な持ち主殿を責める言葉なんか、僕は最初から持ち合わせていない。震える持ち主殿の手が僕をつまみ上げ、胸元へと引き寄せた。裏返されることを覚悟した、そのときだった。
僕を摘んだ持ち主殿の手が止まった。稲光にも似た刹那の葛藤が、指先を通して僕にまで流れ込んできた。
持ち主殿の脳裏をよぎったのは教室で健闘を誓い合った友人たちの笑顔だった。忙しい仕事の合間を縫って神社で願掛けをしてくれた母君のことだった。そして何より、狭い部屋で一人、黙々と机に向かう自分自身の姿だった。
持ち主殿は僕を裏返すことなく、そのまま胸ポケットへと真っ逆様に落とし込んだ。
やった! 僕とシャーペンさんは同時に快哉を叫んだ。
突き抜けるような喜び。けれどその一瞬、僕の目は絶望を捉えた。
――何ということだろう。答案用紙には持ち主殿の名前が記されていなかった。
受験から何日も過ぎて、僕はようやく胸ポケットから出してもらえた。
ポケットの中にいる間、持ち主殿は公式を刻んだ僕に触れたくないのかもしれないとか、このままどこかへ放り投げられてしまうのではないかとか、ずっとそんなことを考えていたのだけれど、心配することはなかった。僕が戻ってきたのはあの四畳半の部屋、古びた勉強机の上だった。
『お帰り』
シャーペンさんが優しく声をかけてくれた。ただいま帰りました、と僕は小さく応えた。シャーペンさんは誇らしげだ。
『消しゴム君。我々の持ち主殿は、やっぱり気高い人だったな。誘惑に耐え、苦しみ抜いて、とうとう自分に打ち
『もちろんです』
シャーペンさんの言う通りだろうと思う。持ち主殿はあの得難い体験を通して、教科書との睨めっこからは学べない何かを学び取ってくれたはずだ。けれど――。
『けれど……、だからこそ悔しいですね。あんな致命的なミスをしていたなんて』
『ん? ミスというと?』
『シャーペンさんは気付かなかったんですか? 数学の答案用紙には、持ち主殿の名前が書かれていなかったじゃありませんか』
『ああ、そうか! そのことか! ポケットにいた君は見ていないんだな!』
思いもよらないことだったけれど、シャーペンさんの声はとても朗らかだった。
一体どうしてだろう。僕はありもしない首を傾げてしまった。
監督官がね、とシャーペンさんは笑い含みに続けた。
『ネームプレートに助教授とあったからあの大学の教員だろうと思うが、近付いてきたその監督官がね、持ち主殿の隣に立って、何も言わず記名欄を指差してくれたんだよ。いやまったく、あのときの持ち主殿の慌てようといったら』
『そうだったんですか? じゃあ、名前はちゃんと』
『ああ書いたよ。間違いなく書いた』
ほっとしたあまりに、僕はそのまま自分が溶けてしまうのではないかと思った。
『良かった。本当に良かった』
『ああまったくだ。きっと持ち主殿の日頃の行いが良かったんだ』
『もしもその監督官に会うことがあったら、お礼を言わなきゃなりませんね』
『そうだな。顔は忘れたが、手を見れば分かる。すぐにその人と知れるだろう』
『なぜです?』
『ペンだこが人差し指にあったからだよ。そんな人物、あの大学の助教に、きっと何人もいないさ』
『え?』
ややあって、ようやくその可能性に思い至った僕はしばらく笑い転げた。
何という巡り会わせだろう。僕は何という一瞬を見逃してしまったんだろう。
『おいおい、一体どうしたんだ消しゴム君』
『いえ、その監督官、よほど放っておけなかったんだろうなって』
やっぱり努力は人を裏切ったりしないらしい。
挑戦する者の前に道は必ず開ける。そう信じていいんだと僕は思う。
持ち主殿、喜ばしい報せがきっと来ます。
あなたの笑顔が、今から待ち遠しくてなりません。
了
消しゴム君が思うこと 夕辺歩 @ayumu_yube
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