消しゴム君が思うこと

夕辺歩

第1話

 机に向かうあなたに、もう少し顔を上げてと伝えたい。

 理解できるまで学ぼうとする姿勢は結構だけれど、あと二十センチほどノートから目を離した方がいいのでは? 下がり続ける自分の視力について少しでも考えたことがありますか? まったく。あなたには受験より先の未来というものがろくに見えちゃいないんだから。

 この古い机の引き出しの奥にスペアの目玉でも仕舞ってあるならともかく、そのままじゃあなたは遠からずメガネを新調する必要に迫られて、ただでさえ苦しい家計をいっそう圧迫する困った子になってしまう。眉間にシワを寄せた難しい顔で辺りを見回す、とっても近寄り難い人になってしまう。

 その努力に意味はありますか?

 ねぇ、僕の持ち主殿、あなたはそうまでして、一体何のために勉強なんか――。

『消しゴム君、持ち主殿を睨み付けるのは止したまえ』

『シャーペンさん。……誤解です。僕は別に、睨み付けてなんか』

『君が考えていることなどお見通しだよ。文具にあるまじき態度だな』

 シャーペンさんがいつも通りのはっきりした物言いで僕をたしなめる。

『私たちが案じるべきは何を置いてもまず持ち主殿の学力だと、少し前にもそう確認し合ったはずだぞ。健康や将来のことはあえて二の次三の次、まして家庭の経済状況なんか、よろしくないと分かっていたって埒外というものだとね』

 この家の文具の大先輩であり、これまでに何人もの手を渡り歩いてきた見識の広いシャーペンさんに対して、まだまだ角の目立つ若輩消しゴムの僕は一向に頭が上がらない。見透かされて返す言葉のない僕に、シャーペンさんはことさら冷淡な口調で続ける。

『つくづく、文具としての自覚に欠けるところが目立つね、君は。一週間後の受験当日が思いやられるよ。そんな調子で持ち主殿の力になってあげられるのかい? 棒線一本すら満足に消せずに足を引っ張った、なんてことにならないだろうね? 急遽私の頭に備え付けの消しゴムで対応、なんて運びになったら君、不名誉なことこの上もないぞ』

『拾ってもらった恩を仇で返すようなことはしません。絶対に。だけど』

『だけど何だね』

『だけど……、どう言えばいいんでしょう。持ち主殿は、確かに頑張っている。それは分かっているんですけれど、学ぶっていうのは、勉強することっていうのは、その……』

 すぐには上手く言葉にできずに、僕は口籠もった。仕様がない奴だとばかりに溜息をついたシャーペンさんは、それでも若造の意を汲んでくれたらしい、学ぶことの意味かね、とひどく静かに呟いた。苦手な数学の教科書に目を落としたまま頭を抱えている持ち主殿の、その真剣な横顔を見上げた。

『こんなにもひたむきな持ち主殿の前で、我々が論じて良い命題とは思えないな。わきまえたまえよ』

『すみません。でも、どうしても考えてしまうんです。大切な目を悪くしてまで、他の楽しいことを我慢してまで、勉強した先に何があるのかなって。いつか就職して社会に出る持ち主殿に、たとえば何かを微分する機会があるでしょうか。虚数解を求められたり、連立方程式を立てなければ解決しない問題に直面したりすることが、本当にあるんでしょうか』

『勘違いしてはいけない。持ち主殿は大学受験に向けて勉強しているんだ』

『分かっています。けれど、それでもやっぱり疑問です。数えるほどしかない設問でもって、大学は持ち主殿の何をどう試すというんでしょう。この通り努力の人だ。良い導き手を得たなら、……いえ、たとえそうでなくても、これからいくらでも伸びて行ける方だ。そうに決まっています。違いますか? 紙切れ一枚で、持ち主殿の人物までも評価することはできないはずじゃありませんか?』

『入学を許可するに足る学力を有しているかどうか。大学側はそれを試すんだ』

 シャーペンさんはいくらか口調を和らげた。

『君にだって、それくらい理解できているはずだろうに。今夜は一体どうしたんだ。何がそんなに不満なんだね。消しゴム君、何が君をそうさせているのだね』

 質問に答えるためには、少し時間が必要だった。真摯に向かい合ってくれるシャーペンさんに対して、いい加減な言葉を返すわけにはいかなかったから。

 僕は自分の心の中を隅から隅まで探りながら、まだまだ教科書から目を上げそうにない持ち主殿を見上げた。粗大ゴミ置き場から拾ってきたという古びた勉強机の上から、狭くて薄暗い部屋全体を見渡してみた。

 机の他には本棚と箪笥が一竿しかない四畳半だ。いつもなら隣の部屋にいる持ち主殿の母君は、今夜は夜勤の仕事があるので朝の八時まで帰って来ない。清貧を絵に描いたようなこの家にあって、持ち主殿が受験に挑戦できる機会は決して多くない。

 ――チャンスを下さい。受かったら、学費はアルバイトを掛け持ちして自分で稼いでみせるから。もしもダメだったら、そのときは少しでも早く就職先を見つけて、母さんを助けるから。だから――

 何度だって挑戦して良いと母君は言ってくれたけれど、きっと持ち主殿は自分自身にそれを許さない。追い込んで追い込んで、たった一度にすべてをかけている。

『持ち主殿はきっと、本当に、心の底から、大学で勉強してみたいんでしょうね』

 そうだね、と応えてくれたシャーペンさんは、どうやら持ち主殿が書いた数字の羅列を眺めているようだった。いくつかの単純な計算ミスが持ち主殿の学力を無言のままにさらけ出している。

 悲しいかな、その旺盛な向学心にもかかわらず、持ち主殿はお世辞にも成績が良いとは言えない方だ。分けても数学は大の苦手。設問からすんなりと有効な解法を導き出すことができず、丸暗記している公式はあっても、それがどのような根拠で成り立つのかという肝心要の部分を曖昧なままにしている。

 不謹慎なこととは知りつつ、僕はつい失笑してしまった。

『こんなに一所懸命なのに、何だかとても、とても、不憫ですね』

『悔しいが同感だよ』

『でも、もしも受からなくても、こちらの持ち主殿はきっと、僕を窓から投げ捨てたりはしません。物を大事に扱ってくれる方だから』

『ああ消しゴム君……、君は、そういえば通学路で拾われてきたのだったね。そうだったのか。前の持ち主にそんな乱暴な真似をされたのか』

『ええ。もう、何年前のことなのかも忘れてしまいました。僕を投げ捨てた、前の持ち主殿、やっぱり受験生でしたけれど、いつか大学の教授になる、なんて漠然とした夢を抱いていて』

『その夢、叶ったのかね』

『どうでしょう。とても諦めの悪い方だったことは確かです。何度も何度も受験に失敗して、その度に悔し泣きして、物に当たって……。今思うと、ちょっと粗暴で、人の話を聞かないところがありましたね』

 ペンの持ち方も特徴的だった、と僕はどうでもいいことを思い出す。中指にあってしかるべきところ、僕の前の持ち主殿は人差し指にペンだこがあった。

『八つ当たりされる物にしてみれば迷惑千万な持ち主殿だな。なるほど、そしてある日、受験失敗の腹いせに、君は窓から放り投げられたと』

『またダメだったと分かった途端、頭に血が上ったんでしょうね。力任せにカバーを引き裂かれて。どこをどう飛んで、どう転がったのか、気が付いたら電柱の陰でした。そうして夜になって、僕は初めて星空を見たんです』

 星空? とシャーペンさんが怪訝そうにこちらを向いた。持ち主殿はまだ数学と格闘中だ。僕はデスクライトに淡く照らされた染みだらけの天井を見上げた。

『夜空一面、瞬く星でした。何の音も聞こえて来ないのが不思議なくらいの。色とりどり。大きさも位置も様々。けれど、どの星も、何か厳粛な決まり事に従って、ゆっくりと回っているのが、僕にははっきりと分かりました』

 捨てられた消しゴムに過ぎない自分と遠い夜空に瞬く星々は、見えないけれど確かな力で繋がっている。離れていながら同じ不文律の中にある。そう気付いた瞬間、世界が変わった気がしたのをよく覚えている。

 近くの公園の木々の無数とも思える枝葉は、それぞれよく似ていながらどれ一つとして同じものはないという、当然だけれど途方もない多様さの事実を示して僕を打ちのめした。電柱脇の溝を薄い緑に染めた苔の一群は、ミクロの視点に立てば彼らも大森林さながらであり、逆に実際の大森林であってもマクロの観点からは地球に生えた苔も同然だという、あらゆるものの背後にある入れ子構造の神秘を匂わせて僕を驚かせた。あれは本当に特別な夜だった。

『部屋の中で机に向かったままではきっと出会えない、そんな素晴らしい眺めを見て、思ったんです。こうして外に出て、いろいろなものを見て大きな視野を持つことの方が、教科書から学ぶよりもずっと意味のあることなんじゃないかって』

『消しゴム君、君は』

『分かってます。情けない。僕は文具としての自覚に欠けています。でも信じてください。持ち主殿を応援する気持ちは間違いなく本物です』

『もちろん信じるよ。いやね、違うんだ、私が言いたいのは』

 慌てて否定したシャーペンさんは、彼にしては珍しいことに、しばらく言葉を探すような間を置いてこう言った。

『君はおそらく、そのとき何かこう、もっと大きな意味での学びに触れたんじゃないだろうか』

『大きな意味での学び、ですか?』

『学校の教科書から得られることがすべてだなんて、そんなことはありえない。しかし、だからと言って何の準備もなしに外へ放り出されたところで、すぐに何かを手に入れられるわけじゃない。誰だってそうだろう? 受け止めるための基礎も何も、初めは持たないんだから。君が見た星空は……、大きな意味での学びっていうのは……、ああ、何と言えばいいんだろう』

 しばらくもどかしげだったシャーペンさんは突然、そうだ手掛かりだ、と明るい声を張った。

『消しゴム君、教科書で学ぶことの多くは、きっと学びの手掛かりなんだよ』

『手掛かり』

『ああそうさ。一生を学び続けるさだめの人間が、より高いどこかへ至るための、より深いどこかへ到達するための、より大きな何かに触れるための、最初の、小さいけれどとても大切な、手掛かりなんだよ。分かるかい?』

『シャーペンさん』

『もっと抽象的な言い方を許してもらえるなら、君が見た星空のような、自分を引きつけて止まない何かを、胸を打つ何かを、誰もが目指しているわけだよ。見上げた夜空にそれぞれの目標が瞬いている。どうしても手にしたい物がある。何としても辿り着きたい場所がある。だからこそ今は、一見真逆とも思えるけれど、下を向いて、机に齧りついて……。お? うわっ!』

 互いに興奮していた僕たちは、持ち主殿の手がこちらへ伸びてきたことに気が付かなかった。

 ほぼ同時に持ち上げられたシャーペンさんと僕が、普段ならあり得ない距離にまで急接近した。僕の背中に鋭い芯が押し付けられた。

『シャーペンさん! い、痛い! 痛い! 止めて下さい!』

『これは、何ということだ。持ち主殿、それだけは! それだけはいけない!』

 あまりに唐突な、感じたことのない痛みの連続。シャーペンさんの悲痛な叫び。

 遠のいていく僕の意識が最後に捉えたのは、持ち主殿の冷たい指先の、その微かな震えだけだった。




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