二十代後半の女武官、蛇神様をぶん殴る

しきみ彰

一話

 蛇神様の花嫁に選ばれた。


 そんな名誉ある報告を父親から聞いたとき、あさぎの胸によぎったのは喜びではなく、怒りだった。

 ともに報告を聞いていた親族に至っては、号泣していた。それは悲哀の涙である。

 親族一同の気持ちを代弁し、あさぎは叫んだ。


「どうして……どうして今なわけ!?」


 そんな重大な報告、前もって言っておけよーー!!


 あさぎの悲痛な叫びは、屋敷だけでなく隣り近所一帯にまで響いたという。











 小此木(おこのぎ)あさぎ、二十八歳独身。

 彼女が蛇神様の花嫁に選ばれたのは、そんな状態から脱却した後のことだった。


 そう。あさぎはつい先日ようやく、婚約者を見つけたところだったのである。


 小此木家は武官の一族で、女であろうと武官を目指す。あさぎもそのしきたりに反することなく、むしろ望んで武官になった。体を動かすことも、戦うことも好きだったのである。


 武官としてはとても優秀で、次期将軍に抜擢されるほどの実力を兼ね揃えていた。

 術者ではなかったが、身体に宿る力を繰るのが上手かったのである。それゆえに彼女は、男以上の怪力を扱えるのだ。


 しかしここで問題となってくるのは、一族存続の危機である。

 なんと。あさぎの両親の兄弟が全員死没してしまったがために、あさぎにはいとこもはとこもいなかったのである。

 つまり、いるのは祖父祖母だけだったのだ。


 しかも、あさぎ以外の兄弟は全員男で、さらに言うなら武術以外には興味を示さない筋肉馬鹿である。そのため、あさぎに白羽の矢が立ったのだ。


 世話になった両親、祖父祖母に泣かれれば、さすがのあさぎも考える。

 それゆえに、既に二十八歳という嫁ぎ遅れながらも見合いをし続け、ようやく婿養子になってくれる相手を見つけたのだが。


「蛇神様の花嫁に選ばれちゃったら、婚約を解消しないといけないじゃない……!!」


 あさぎは、自室で頭を抱えた。

 蛇神様の花嫁に選ばれた女性は、蛇神様のもとで五年間過ごさなければならないのだ。さすがに五年も待たせるわけにはいかなかった。

 未婚の女性でなければ、花嫁にはなれない。ゆえにあさぎは、結んだばかりの婚約を解消しなければならないのである。


 これには、さすがのあさぎも堪えた。つらすぎる。


 いくら蛇神様の花嫁に選ばれた娘の家に、多大な報酬が支払われるのだとしても。

 役目を終えた花嫁は、引く手数多なのだとしても。

 そういう問題ではないのである。


(というか、今までは十代の娘が選ばれてたでしょう? なんで二十歳後半のわたしが選ばれたんだ……)


 舐めているのだろうか?

 それとも、喧嘩を売っているのだろうか?


 五年後、あさぎは三十三歳だ。嫁ぎ遅れどころの話じゃない。いくら縁起ものとして扱われるからと言って、婿が見つかるのだろうか。甚だ疑問である。


 あさぎは明日には迎えに来るという皇宮の使者の横暴さを、心中でなじる。

 どうやら明日の朝に、花嫁衣装に着替えた状態で駕籠かごに入れられ、蛇神様のいる社(やしろ)に送られるらしい。


(なんだなんなんだ……この唐突さは)


 もしかしなくとも、花嫁が逃げないようにという保険だろうか。ゆえに、白無垢も送ってきたのだろうか。

 それにしたって面倒臭すぎる。


 あさぎは今日の昼間に婚約者のもとへ行き、頭を下げてきたところだった。

 向こうはとても驚いてはいたが、素直に受け入れてくれたのが救いだ。怒鳴られたって仕方のないことをしたのだから。


 あさぎはしとねに突っ伏し、朝が来ることを待ち望む。


(絶対に、絶対に一発、蛇神様を殴る……)


 そのときの目はまさしく、獲物を狩る前の目であった。



 ***



 次の日。

 あさぎは朝早くから白無垢に着替え、駕籠に押し込められた。

 普段は袴姿で生活しているだけあり、白無垢が歩きにくくて仕方がない。

 それでも素直に社へ向かっているのは、今のあさぎの原動力が「蛇神様を殴る」ただそれだけであったからだ。


(不敬とかなんだとか言われようが、知らん。神様なんだからそれくらい許容しろー!!)


 あさぎが仕えていた皇公(すめらぎこう)が聞けば、卒倒しかねない内容であった。

 しかし彼女にとって今回の婚約は、それほどまでに労力を費やしたものなのである。


 女物の着物を着て。髪を結って、化粧をして。

 したくもない女らしいことをして、やっと見つけた相手。


 見つけるまでに一年以上かかった。ゆえに余計腹が立つ。


 あさぎは戦場に赴く前のような心境で、駕籠に乗っていた。


 駕籠に乗ってから、一刻二時間ほどが経っただろうか。揺れが止まるのを感じた。

 駕籠がおろされ御簾が開かれると、目の前には膨大な広さを誇る社がある。


 あさぎはその大きさに圧倒され、ぽかーんと口を開いてしまった。


(何ここ……皇宮よりも広い……?)


 広い上に豪奢だ。目の前には朱塗りの鳥居があり、その奥には同様の屋敷が。どれもこれも立派で、呆然としてしまう。


(というかこんな場所、この国の一体どこに……)


 この国の象徴たる蛇神様の社だ。おそらく、人の目から隠れる場所にあるのだろう。あさぎはそう自分を納得させた。今さら何が起きようと、驚きはしない。なんせ彼女は、戦場を駆け巡った猛者なのだから。


 しかしどうやらここからは、あさぎひとりでいくようだ。

 あさぎは裾の長い花嫁衣装を引きずりながら、鳥居をくぐった。


 すると、どういうことだろうか。あさぎの目の前に、黒猫が現れたではないか。


 高貴な気風を感じさせる黒猫は、つやつやの毛を風になびかせながら尻尾を揺らす。そしてあさぎを一瞥すると、「こい」とでも言いたげな目をして屋敷の中へ入ってしまった。


「猫の道案内……」


 あさぎはげんなりしながらも、履き物を脱ぎ屋敷に上がる。廊下の床もよく磨かれており、使用人たちの仕事の良さがうかがえた。


(でも、ひとけがないわね……)


 それが、なんとも言えず気味が悪い。これだけの広さだ。何かしらの気配がしても、おかしくないのだが。

 しかし時折、何かにじぃっと見られているような気がするのだ。そのねっとりした視線に、背筋がぞわぞわした。


(気にしたって仕方ないし、行こう)


 あさぎは猫の後ろ姿を追って、歩をはやめる。やはり、着物の裾がとても邪魔だった。

 何度目かの角を曲がり、奥へ奥へと誘われたあさぎは、とある襖の前で猫が座っているのを見て目を丸くした。


 黒猫はその襖の前に座り、つんっとした態度をしている。


 どうやら、「ここに入れ」ということらしい。


(いよいよ、お出ましってわけね……)


 あさぎは右の拳を握り締めた。

 息を吸い、吐き出す。背筋をピンッと伸ばした。

 そのとき、襖がひとりでに開いていく。


『いらっしゃい。入っていいよ』


 部屋の奥から、青年の声がした。

 その美声に、あさぎは片眉をあげる。


「……失礼します」


 彼女はそう言い、戦場へと乗り込んだ。


 部屋の中は、とても暗かった。

 どうやら明かりをつけていないらしい。

 しかしなんとなくだが気配はした。それに、あさぎは安堵する。


(さてさて……蛇神様の顔ってやつを、拝んでやろうじゃないの)


 そう思い瞳をすがめたあさぎは、ずるずるという不審な音に首をかしげた。


 なんだろうか。この音は。何かが這うような音だ。

 しかも背後から、何者かの気配がする。

 あさぎは拳を握り締め、迫ってくる何かをじっと待つ。


 ずるずる。ずるずる。


 何が迫っているか分からない恐怖に、あさぎは目を閉じた。

 見えないのであれば、見なければいい。見ようとしなければいいのだ。

 そしてひたすら音にのみ集中し。


「やあ」


 背後から、耳元に向かって声がかけられた。

 あさぎはその瞬間、カッと目を見開き拳を振りかぶる。


「悪漢撲滅ーーー!!」

「え? ごふぅっ!!」


 あさぎの拳は見事、相手の顔面をとらえた。

 勢いが良すぎたせいか、相手が軽く飛んでから倒れ伏す音が聞こえる。

 あさぎは達成感で満ち満ちていた。


(なんだか知らないけど、なんだこの達成感! 最高!!)


 そう思いながら、悪漢の面を拝んでやろうと音のしたほうに向かった。


「……へ?」


 あさぎはその人物を見た瞬間、ぽかーんと口を開いてしまう。


 白目を剥いて倒れていたのは、青年の上半身と蛇の下半身を持つ。


 蛇神様であった。











 それからしばらくして。

 あさぎは明かりの灯った部屋で、土下座をしていた。その相手は言わずもがな、蛇神様である。

 彼は上座に座り・・、へらへらと笑っていた。

 いや、それが座っているのかどうかさえ、あさぎには分からない。ただ一応、とぐろを巻いてはいた。座っているのだと思う。


「本当に、本当に申し訳ありませんでした……」

「いやいや。いいんだよ。僕のほうだって悪いしねえ。花嫁が来るたびに、毎回ああいうことをしてるんだ。反応が千差万別で楽しくって」


 まさか、殴られるなんて思ってなかったけど。


 そう言いにっこりと笑う美形男子の顔には大きなあざがあり、あさぎの頬がひくつく。


(許してもらったのはいいんだけど、なんだろうこの釈然としない感じ……!!)


 あさぎは内心頭を抱えた。


 そんなあざがあっても、蛇神様は美しかった。


 長く伸びた白銀の髪は毛先のほうが結われ、瞳は熟れた柘榴のように赤い。体の線は細く儚げで、純白の着流しをまとっている。

 しかしそこよりも視線が向いてしまうのは、彼の下半身である。


 それは、蛇の下半身であった。

 純白の鱗が、きらきらと輝いている。尻尾の先が楽しげに揺れていた。


 あさぎはそんな蛇神様の様子をうかがいつつ、はあ、とため息を漏らす。

 蛇神様はそんなあさぎを、愉快そうに見つめていた。


「さてさて。まずは自己紹介をしておこうか。僕の名前は保白(ほしろ)。この国の守り神であり、水を司るものだ。君は?」

「……小此木あさぎ、と申します。もともとは武官をしておりました」

「あさぎか、良い名前だね。美しい色の名だ。……ああ、なるほど。だからあんなに綺麗な打撃ができたんだね」


 ますます気に入った。


 蛇神様――保白の口端がつり上がるのが見て取れた。

 あさぎは目をそらしつつ、はたりと気づく。


(そういえば、蛇神様の花嫁って何をする仕事なんだろう……?)


 上からはもちろん聞いていない。バタバタしすぎて、聞く暇がなかったのだ。聞いたところで教えてもらえなさそうだが。


 あさぎが知っている蛇神様の花嫁は、何十年かに一度選ばれて彼のもとで五年過ごし、そして戻ってくる。ただそれだけである。


 あさぎは恐る恐る口を開いた。


「あの……蛇神様の花嫁とは、一体どのようなことをするのですか?」

「うん? ……ああ、簡単簡単。五年間、ここで過ごせばいいだけ。と言ってもこっちと向こうじゃ時間の流れが違うから、五年もいるって感覚じゃないと思うけど」

「……へっ?」

「うん。だいたい五ヶ月くらいだと思ってくれたら良いよ」

「ご、五ヶ月……」


 あさぎは、自身の常識と噛み合わない現実に、唖然とするほかない。

 一方の保白は、愛おしそうに自身の頬に出来たあざを撫で、うっとりとした顔をする。


「今まできた子たちはどの子も萎縮してつまらなかったんだけど、君は僕のことを楽しませてくれそうで嬉しいよ。――これからよろしくね? あさぎ」


 瞳を糸のように細めこちらを見る保白に、あさぎは苦笑いをした。そして勢い良く首を横に振る。


「楽しいことなんて、何も、ありませんから」


 こうしてあさぎと保白の共同生活が始まったのである。



 ***



 あさぎがこの屋敷で暮らし始めてから、早一週間。

 彼女は自室を与えられ、衣服も袴を一式揃えてもらい、何不自由ない生活を送っていた。


 やることと言えば、自身の食事を用意することと服を洗うことである。あとは、保白と話をするくらい。

 そればかりでは体がなまるので、時折外で素振りやらの何やらの練習をしていた。


 そこまで聞けば、とても平和である。

 しかし問題は、そこではない。

 その問題は今、廊下を歩くあさぎのすぐそばにいる。

 彼女は自身の周りでふよふよと浮く、提灯の形をしたおばけにげんなりとしていた。


「提灯おばけ、分かったから、ちょっと待ってて。あとで遊んであげるから」


 提灯おばけはあさぎの言葉にカラカラと音を鳴らすと、楽しげにどこかへ飛んで行ってしまう。彼女はそれを見て、ふう、と息を吐いた。


(まさか、ここの使用人やら住人やらが全員、物の怪の類いだったとは……)


 まさかまさかの展開である。まぁ、あり得ない話ではなかったが。

 あさぎがこの屋敷で暮らすにあたりまず慣れなくてはならなかったのは、そんな物の怪たちのいたずらであった。


 あさぎは、物の怪自体の存在は知っている。見たこともあるし、あったこともあった。邪気に飲まれ正気を失った物の怪は、武官や術者にとっての討伐対象であったのである。


 初めて会ったときは身構えたが、ここにいる物の怪は皆優しく働きモノで、あさぎはすぐに警戒を解いた。

 困る点と言えばいたずらが過ぎるところだが、それはご愛嬌というものだろう。


(にしても、物の怪って可愛いんだね。正気を失ったのしか見たことなかったから、びっくりしたわ)


 そんなことを思いながら、あさぎは保白の自室へと向かっていた。

 日に数度、保白はあさぎと話をしたがる。その会話の内容はとても他愛ないもので、保白が一方的にあさぎに質問をするのだ。あさぎはそれに答えていく、という感じである。

 会話というよりも、尋問に近いかもしれない。


(外の人が、そんなに珍しいのかな)


 あさぎはその反応を不思議に思いながらも、一度台所へ寄り茶と茶受けを用意した。今日は団子だ。腕の良い米研ぎじじいがいるらしく、団子はもっちもちで美味しいのができた。ちなみに、あさぎは未だに米研ぎじじいの姿を拝んだことはない。どうやら、かなり恥ずかしがり屋なようだ。


 一応感謝の思いを込めて、手紙とともにひとつおすそ分けをして、次来るときにはなくなっているのだから、美味しく食べてもらっているのだと思う。


 彼女がなぜこんなことをしているのかというと、それは少し前の話になる。


 二日前。あさぎが気分転換に菓子でも作ろうとしたときのことである。

 匂いにつられてやってきた保白が、あさぎの作ったおはぎを食べていたく感動したのだ。

 それからはことあるごとに菓子をねだるため、日に一度は茶受けとして出していた。


(まさか、女らしい唯一の趣味がこんなところで役立つとは……)


 世の中、何があるか分からない。

 あさぎは自他共に認める甘党であった。

 褒美は何が良いかと聞かれたら、必ず「砂糖」と答えるほど。

 金より何より砂糖。それさえあれば、生きていける。

 それゆえに、菓子作りに走ったのである。


(それにしても、さすが蛇神様の社。なんでもある)


 台所の道具は一式揃っているものの、使い手がいないらしくぴっかぴかのまま鎮座していた。埃を取るためだけに洗ったり拭いたりするのかと思うと、悲しくなる。

 材料もたくさんあり、食料に困ることはなかった。


(それにしても、ほんと不思議だよなーここ)


 あさぎは周囲を見回し、肩をすくめる。廊下から見える庭はそれはそれは見事で、たくさんの花が咲いていた。

 かと思えば、雪が降っている場所があるから驚きだ。どうやら区域ごとに季節が違うらしい。


 春夏秋冬。

 すべての季節が楽しめる庭は、あさぎの目を楽しませた。時々雨が降るが、それも情緒のひとつである。

 不思議だとは思うが、「蛇神様の社だし」と割り切ってしまえばそうでもない。

 あさぎの性格が、大雑把過ぎるのもあるが。


 幾度となく角を曲がり、屋敷の奥の奥にある保白の部屋に着く。


「保白様。入ります」


 そう声をかけ襖を開けると、床でごろごろと寝転がる保白の姿があった。しかしあさぎがやってくると一変し、表情を明るくする。


(まるで犬ね)


 あさぎはそれを見て、苦笑した。


「いらっしゃい! あさぎ!」

「はい。今日はお団子を持ってきました」

「わーい!」


 保白はそう言い瞳を輝かせると、前に置かれた団子を早速頬張った。


「ん〜美味しい〜」

「……それは良かったです」


 気恥ずかしくなりながらも、あさぎは茶をすする。他人に菓子を振る舞うことは滅多にないため、余計に恥ずかしかった。それと同時に嬉しくもあるのだから、不思議なものである。


 保白は団子を頬張りながら、あさぎに質問した。


「そうだ。あさぎはもう二十八だって言ってたけど、どうして結婚しようと思わなかったの?」

「人の心を的確に刺してきますね……まぁ、あれです。武官として働いていたほうが、楽しかったんですよ」

「でも、僕のところに来る少し前に婚約したんだよね?」

「ええ。そのせいで、ものの見事にお断りする羽目になりましたけどね!!」


 嫌味を込めて言ってやったが、保白には通じていないらしい。残念なことだ。

 そんな保白のそばにいつの間にかあの黒猫がおり、尻尾で床を叩いていた。


(というより物の怪ばかりの社なのだから、あの猫も物の怪の類いなのかしら?)


 団子を口に入れながらそんなことを考えていると、保白がくすくす笑う。


「はいはい、分かった分かった。心配しなくても良いよ」


 そう言いつつ猫を撫でると、猫はそれが気に食わなかったのかするりと逃げてしまった。

 その上、気づけばいなくなっている。

 あさぎはそれを見て物の怪だな、と思った。


「あの黒猫は僕の側近みたいなものなんだけど、本当に心配性でさ。困っちゃうや」

「付き合いは長いんですか?」

「そうだね。生まれたのと同じくらいかな」

「それは長いですね。保白様がどれくらい長く生きているのか、わたしは知りませんが。少なくともわたしよりは生きてますでしょうし、それ相応の絆があるのでしょうね」

「……ふふ。そうなんだ」


 保白は曖昧な笑みを浮かべた。あさぎは首をかしげる。

 そんな彼女の疑問をかき消すかのように、保白が口を開いた。


「ねえ、あさぎ。もっともっと、君のことを教えてよ」


 そう言う保白の言葉に。

 あさぎは「教えられる範囲であれば」と苦笑した。


 保白との生活は、武官をしていたときよりもずっと穏やかで。

 なぜだかとても、安心できた。


(おかしいな……武官でいたかったはずなのに。結婚なんて、したくなかったはずなのに。保白様との生活は、何か、違う)


 あさぎはそれがとても、不思議だった。



 ***



 それから数日したある日。

 あさぎは外を見て「あれ?」と首をかしげた。


「ここ最近、雨が多いわね……」


 そうなのである。ここ最近社の空は、重たい雲に覆われていた。雨が絶え間なく降り、外はけぶっている。確かに時折雨が降ってはいたものの、ここまでではなかった。

 お陰様であさぎも、部屋の中で稽古をしている。


 それと同様に気になるのが、保白の様子だ。


(なんていうか……雨が降り始めた辺りから、様子がおかしいような気がする)


 何がおかしい、とは言えないが、何かがおかしいのだ。言葉にできない何かが、そこにはある。それは日を追うにつれて大きくなっていた。


 しかしそれを聞こうとするたびに、保白が遮ってくる。

 あさぎのことは知りたがるくせに、自分のことを教えてくれようとはしないのだ。あさぎはそれが不満だった。


「……さすがに今日は聞こう」


 そう思いつつ、いつも通り茶と茶受けをお盆に乗せて保白の元へ向かう。

 そしていつも通り声をかけた。


「保白様。入ります」


 あさぎは襖を開けた。

 その瞬間、目を見開く。


「保白様!?」


 あさぎは盆を投げ出し、床に倒れ伏す保白の横で膝をついた。

 彼の体に触れ、眉をひそめる。


 熱い。


 意識もなくぐったりしており、今にも死んでしまいそうだった。


「な、何がどうしてこんなことに……っ」


 あさぎは保白の体を抱き寄せ、唇を噛む。そこで彼女は「そう言えば保白様は、わたしに触れてこようとはしなかったな」と思った。

 もしかしたら、ずっと前から体調が悪かったのかもしれない。

 体調が悪いのに、無茶をしていたのだろう。


 しかし、何が原因で。


 神様が熱を出すということがどれほどの危機なのか、あさぎにだって分かった。

 だが何をしたら良いか分からず呆然としていると、どこからともなく声が聞こえてくる。


『邪気が、たまりすぎたのだ』

「……え?」


 慌てて辺りを見回してみれば、そこには黒猫がいた。どうやら猫がしゃべっているらしい。

 黒猫はあさぎを見て、その金色の瞳をすがめる。


『我が主人が言うなと命じたため言わずにいたが、もう限界だ。言おう。あさぎ。お前の役目は、我が主人の邪気を流すことだ』

「……邪気を、流す?」

『そうだ。蛇神様の花嫁は代々、我が主人と触れ合うことで邪気を流す役目を担っているのだ。我が主人はこの国の邪気を一身に背負う、言わば泉。花嫁は、その泉を浄化する道具といったところだ。毎回力の循環が上手いものが選ばれるからな』


 あさぎはそれを聞き、眉を寄せた。


「待って。じゃあなんで保白様は、あんな嘘をついたの!」

『そんなこと、わたしに分かるわけないだろう』


 黒猫が、冷めた声でそう言った。あさぎは「この猫毒舌だな」と半眼になる。

 しかし黒猫は『だが』と言葉を繋げた。


『これはわたしの推測だ。あくまで憶測に過ぎない。だが……我が主人はおそらく、お前をもののように扱いたくなかったのであろう』

「……もののように?」

『ああ。蛇神様の花嫁など、はたから見ればただの使い捨ての道具にすぎない。しかし我が主人はお前には、そんな扱いをしたくなかった。大切にしたかったのだ。だから』


 猫はそこまで言ってから、口を閉ざす。

 一方であさぎは、唇を震わせた。


(何よそれ、どういうこと?)


 大切だから。だからこそ、あさぎを花嫁として扱おうとしなかった。そういうことらしい。

 保白はそれだけのために、自分を犠牲にしたのだ。


「わたしの気も知らないで、何よ、それ……意味分かんないわ」


 あさぎはこぼれそうになる涙をこらえ、黒猫のほうを睨んだ。


「わたしはどうしたら良いの」


 黒猫は、金色の瞳を丸くする。


『もうダメだとは思わないのか?』

「何もしてないのに、諦めることなんてしない」


 あさぎはできる限り、保白の肌に触れるようにしながらそう言った。触れ合うことで、邪気が流れると聞いたからだ。

 黒猫はその様子を見て、はあ、とため息を吐く。

 あさぎは「なんだこの人間じみた猫」と憎らしく思った。

 その上とんでもないことを言ってくる。


『接吻(せっぷん)』

「……はい?」

『接吻をしろ。そういう場所のほうが、邪気が流れやすい。房事のほうがなお良いが、』

「そういう生々しいことを言うな! こんな状態の相手とできるか!!」


 あさぎは侮蔑の眼差しを向けつつ叫んだ。この猫、いささか配慮が欠けている。

 あさぎはとりあえず、頭を整理した。


(そういう場所に触れたほうが、邪気が抜けやすいってことか)


 しかし口づけとは。

 あさぎは苦笑いをする。


(まあ良いか。別に大したもんじゃないし)


 そろそろ三十路を迎える女の、初めての接吻だ。まさかあさぎのほうからやるとは思っていなかったが、やるしかないだろう。


 あさぎは目をつむり、青ざめた保白の唇に口づけを落とす。


 彼女はそれを、彼の顔色が良くなるまで続けた。



 ***



 十数回口づけを繰り返すと、保白の熱が引きなんとか持ち直した。

 猫は『なるほど、これが想いの力か』などとのたまっていたので、速攻外に放り出してやった。しばらくは帰ってこないはずだ。


 しかしそうはいっても、不安なものは不安で。

 あさぎは保白を褥に寝かせた後、その手をずっと握っていた。


(こう、寝ずの番をしてると、武官だったときのことを思い出すわね……)


 こちらの感覚的にはそろそろ一月経つが、向こうだとそれが一年だという。

 ともに戦場を駆け抜けた仲間は今、どうしているだろうか。この国は周辺諸国と常に睨み合い、その上凶暴化した物の怪を退治する日々を送っている。それゆえに女が武官であったとしても、さしたる差別がなかったわけだ。


 思い出は頭によぎるが、不思議と寂しくなかった。彼らなら大丈夫だという信頼があるからだろう。


 しかし保白と離れるのは、怖かった。

 気付いたらどこかへ行ってしまいそうで。消えてしまいそうで。

 とても、恐ろしかった。


 あさぎはぎゅっと固く目を閉じる。

 保白の通常の体温は低く、どこを触ってもひんやりとしていた。それが、あさぎの熱を奪っていく。


 握っていた手がぴくりと動いたのは、それから三刻六時間ほど経ってからだった。


「……あさ、ぎ……?」


 かすれた声を聞き、あさぎのかすみがかっていた意識が浮上する。

 彼女は目を見開き、身を乗り出した。


「保白様!!」

「う、ん……? あれ、僕どうして……」

「邪気が溜まりすぎて、倒れたんです」

「…………そう」


 保白はあさぎのその一言で、彼女が全てを知ったことを悟ったようだ。あさぎの手を離そうと腕を引いている。

 声を低くし頑なに拒絶しようとする保白に、あさぎはカチンときた。


(この男はこっちの気も知らないで……)


 あさぎは、保白の両頬に手を伸ばし顔をがっちりと固定した。


「保白様? 良い加減にしてくださいな」

「なに、が」

「何がって……は? そんなことも分かんないの!? ふざけないで!!」


 ぷちりと、あさぎの堪忍袋の尾が切れた。

 彼女は保白の頬をつまみ伸ばす。


「倒れてるの見たとき、わたしがどんだけ心配したと思ってるのよ……このあんぽんたん! しかも花嫁が何かも言わないで……それでわたしが喜ぶとでも? ああ?」

「あ、さひ、こわ、」

「そりゃあ怒るわ! だって何もできずに見てるだけのほうが、道具扱いされるよりつらいもの!!」


 あさぎは、保白の両頬を叩いた。

 驚く保白に、あさぎは言い放つ。


「というより本当に大事にしてくれてるなら、本当のこと話しなさいよ! じゃないと、なんの判断もできないでしょ!? まったくもう!」


 あさぎはそう言い切ってから、ようやく緊張を緩めた。


(ああ! すっきりした!)


 正直言うと、戦場にいるときよりも緊張した。

 何もできないまま、起きるのをただ待っているだけ。それがこれほどまでにつらいとは。


(勘弁して欲しいわ……)


 分かりやすく守れる力がつくからこそ、武官になったのだ。なのに近くにいるものすら守れないなど、情けないにもほどがある。

 あさぎがすべてを言い切りホッとしていると、白い手が伸びてきた。

 軽くとん、と押され、体が後ろに倒れ込む。あまりにも軽い動作に、理解が追いつかなかった。


「え?」

「じゃあ」


 あさぎの顔に、影が落ちる。

 押し倒されたのだと気付いたときには、もう遅かった。彼の長く伸びた尾が、あさぎの体を絡め取る。

 両腕も。軽く添えられただけで、動かさなくなってしまった。


 あさぎは抵抗することなく、上を見る。

 保白の赤い瞳が、濁っていた。


「こんなことしても、嫌がらないの? 怖がらないの? 僕はあさぎとは違うんだ。だから、簡単に君を捕まえられる。閉じ込められる。そんなの、嫌でしょう?」


 何が言いたいのか、よく分からなかった。

 もしかして、脅しているのだろうか。

 あさぎは、真っ直ぐと保白を見た。


「保白様よりも怖いもの、たくさん知ってるもの。だから、怖くない。保白様はわたしが嫌がることをしないって知ってる。だから、嫌じゃない」

「……あさ、ぎ」

「捕まえられるとか閉じ込められるとかはよく分からないけど、恋愛ってそういうものじゃないの? そばにいて欲しい。一緒にいたい。そういうものじゃないの?」

「……違う。これは、そんな綺麗なものじゃないんだ……」


 あさぎは顔を歪める保白に、再びイラッときた。


(こぉんの男は、いちいちねちねちと……)


 なんだ。蛇だからか。蛇だからねちっこいのか。

 あさぎは満面の笑みを浮かべ、声をめいっぱい低くする。


「保白様? ――歯ぁ、食いしばれ」

「……え?」


 あさぎは唯一動かせる頭を使い、保白に勢い良く頭突きをした。なかなか良い音がした。

 それにより、腕の拘束がなくなる。

 保白は、額を抑えていた。

 あさぎはそれを見て、鼻で笑ってやった。


「そんくらいの痛みでわたしの拘束を外すんだから、全然まだまだ! そういう言葉は、わたしのことを全力で絡め取った後に言うことね!」


 保白はその言葉を聞き、目を見開いた。そして破顔する。


「……ふ、ふははっ。……やだな。あさぎには敵わないや」

「分かったなら、とっととその尾どうにかして。起き上がれないから」

「うん。今外す」


 あさぎは保白の拘束からようやく解放され、ふう、と息を吐き出した。やれやれである。


(というか、こんなダメ男に恋しちゃったんだから、わたしもアホだよねぇ……)


 頭突きした額をこすりつつ起き上がれば、保白の顔がスッと伸びてきた。

 額に、柔らかいものが当たる感触がする。

 唖然としていると、保白がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。


「はい、治ったよ」

「……治せるの!?」

「うん。僕は神様だからね。……でも、あさぎがいないとなんにもできない神様だからさ。――ねえ、あさぎ。ずっとここにいて? 僕に囚われていて?」


 あさぎはそれを聞き、頭を抱えた。どうやら自分も、なかなか重症らしい。


(この告白を聞いて「ずっとここにいたい」とか思ってる辺り、もうダメだこれ……)


 まぁそれも良いか。楽しいし。


 あさぎはそう思い、笑った。

 なんせ今回の守りたいものは、この神様である。守り甲斐がありそうだ。


(女らしく生きるより、全然良いや)


 そう。こっちのほうが、わたしらしい。


「じゃあわたしからも言わせて。――これからもずっと、わたしにあなたを守らせて?」


 あさぎがそう言うと、保白は今まで見たことがないくらい幸せそうな笑みを浮かべた。

 そしてあさぎの両頬を、自身の両手でそっと包む。


「うん。これから、ずーっと一緒ね?」


 そう言い重ねた唇は、とろけるほどに甘かった。











 それから、あさぎのもとに皇直筆の手紙が送られてきたり。

 その手紙の内容が「国が大変なことになるから、頼む。ずっと蛇神様の花嫁でいてくれ」というようなものだったり。

 それゆえに国家公認の異類婚姻をすることになるのだが。


 それはまた別の話である。

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