荒城の月
六条弥勒
荒城の月
遺書
こういったものの書き出しはどのようにするべきなのでしょうか。何分、この文章は私がこの世界に存在していたという唯一の証になるかもしれませんし、私はこのことを誰かに、というより今この文章を読んでいる貴方に知っていてもらいたいのです。私が一人で抱えるには少し大きすぎますしね。
さて、私はこれからこの中に、こういった結論に至るまでの経過を全て書き綴りますが、少なくともこの中には嘘を書きませんことを誓います。無論これは意識的に書かないというだけであって、無意識の内に自分を正当化してしまうかも知れません。それでも私は――いえ、もうやめましょう。どうか貴方、私の事を、そして彼女のことを忘れないでください。私達は確かに、幸か不幸か、存在していたのです。
全ては二年前の梅の頃、私達が舞踏会で出会った日に始まります。ご存知の通り私の父は政府の要人でしたから、時折こうして舞踏会というものに招待されたのです。が、まだ十二だった私は一人前に踊る事もできず、またそんな少女を踊りに誘って下さる殿方など居る筈もなく、その日も私は仕方なしに母の隣で退屈そうに水を飲みながら窓の外を眺めておりました。
さて、舞踏会も終盤に差し掛かり、私が愛想笑いをする父にも見飽きてきたという丁度そんな頃、私の目の前に突然手を差し出す者が御座いました。驚いて顔をあげますと――嗚呼、思えばそれが彼女との最初の出会いでした――そこには女神と見紛うような少女が立っていて、私に言うのです。
「ご一緒していただけませんこと?」
「……踊りは殿方と奥方でなすものでは?」
私は戸惑いながら尋ねました。それでもその少女は手を下ろしませんので仕方御座いません、私はその小さく、白い手に自分の手を重ねました。
確かにその姿は愛らしい少女そのものなのですが、彼女の踏むステップは殿方のもので、またそのリードも、私と変わらぬ少女とは思えぬほど強く美しいものでした。そうしてしばらく拙いながらも彼女と踊り、いよいよ疲れた頃になりますと、彼女は給仕から水を二つ貰ってきて窓際の席に座りました。私は少し迷いましたが、父と母は最後の踊りに入ってしまいましたので仕方御座いません、彼女の向かいに腰をおろしました。
「お名前は?」
私が座るとすぐに彼女は尋ねました。
「春、と申します。貴女は?」
「私はマリというの。仲良くしましょうね」
マリの微笑みは天使のようでした、いえ、天使よりも愛らしかったかも知れません。どんなに心悪しき人間でも、マリの前では善人となってしまうことでしょう。私も例外ではありませんでした。その日、その時以来、私はマリの虜になってしまったのです。
ここでマリの事を少しお話しましょう。歳は私と同じ、当時十二でした。背丈も私と同じ程でしたが、肌の色は私とは比べ物にならない程白く、西欧の女神を思わせました。そして本当に整った顔立ちをしており、いつも膝まである綺麗な黒髪を優雅に揺らしておりました。父に聞くところによると、舞踏会にはいつも必ず出席しているというので、恐らく高貴な生まれなのでしょうが、マリは結局最後まで自分の生まれについて語る事はしませんでした。
マリは舞踏会では必ず壁の花を決め込む存在でした。それがいつしか噂になり、マリは父の同僚たちのなかでも有名な少女だったようです。ただでさえ美しいマリのことですから、ましてや誰とも踊らず、誰とも話さず、たった一人で壁に凭れかかって招待客を見ているともなれば話題にならない方が不自然といったものでしょう。
そんな美しさを持っているならば奥方からは妬まれないのかとお思いかもしれませんが、マリは女性をも惹きつける不思議な魅力を持っていました。それはまるで魔法のような、不思議な魅力でした。こうして私達は、幸か不幸か出会ってしまったのです。
さて、私達が運命的な出会いを果たしてから数日のことです。私が学校へ参ろうと家を出ますと、門の外にマリが立っていました。
「どうなさったのです?」
私が思わず尋ねますと、マリは真っ直ぐに私を見つめながら呟きました。
「どちらまで?」
「私はこれから学校に参りますの。これからは学歴の時代だから、学校はとても大切なのですって。お父様が仰っていたわ」
マリは途端、私から顔を背けました。私は何か言ってはならないことを言ってしまったような罪悪感に襲われ言葉を失い、暫く黙っていましたが、少しの沈黙の後、マリは口を開きました。
「お友達はいらっしゃるのです?」
その言葉はとても冷たく、とても哀しそうでした。私は少し驚きましたが、これもマリの癖の一つなのかもしれないと思い、平静を装いながら、
「確かに今はお友達かもしれないけれど、皆いつかは競争相手になってしまうのだから、そう考えたらお友達ではないかもしれないわね。とにかく、今日は学校があるから一緒にはいられませんの。日曜日ならお休みだから、次の日曜日に遊びましょう?」
と諭しました。それでもマリは何か言いたそうな顔をしていましたが、私の後ろで鞄を持っていた女中の藤が促しましたので、マリと別れざるをえませんでした。藤は私よりも九つも年上なのに少しも気取っておらず、病弱な双子の妹の為に私が幼いころから女中として働いている、私にとっては忙しい父や母に替わる、姉のような存在でしたから逆らうことはしたくなかったのです。
「マリ、また日曜日にいらして、そうしたら遊びましょう、約束するわ」
私はそう言い残して学校へと走って行きました。
こうして私とマリは毎週日曜日に必ず遊ぶようになりました。藤はマリの事を快く思っていなかったようですが、私は正反対でした。彼女は明るくて、優しくて、話題が豊富だけれども聞き上手で、私はそんな彼女の美しさから細かな仕草までにささやかな憧れを抱くようになったのです。今になって思うとなんと愚かなことなのでしょうか、ですがその頃の私はマリに会えば会うほど彼女の事が好きになって、とにかくマリのようになりたくて、立ち振る舞いや僅かな癖までマリの真似ばかりしていました。
学校でも、私がマリの話をしましたら大半がその女神のような少女に興味を持ち、いつしか私はマリの友達であることを誇りにしておりました。また、幾人かの級友はマリと話をしたがりました(もとより舞踏会には必ず出席するようなマリなので多くの級友はマリを話した事はないまでも知ってはいました)が、マリは絶対に誰とも会おうとしませんでした。私は彼女らにマリを自慢したいという欲望と、マリが私だけの友達でいてくれるという満足感との矛盾した思いを抱きながらも、毎週日曜日が楽しみでなりませんでした。
さてもう一つ、これを読んでいる貴方が私のことをあまりよく知らないかもしれないということも考えて、藤についても書いておきましょう。もちろん、この家のことを御存じのようでしたら読み飛ばしていただいて構いませんが、何分私は誰がこの文を読むか見当もつきません。ですから藤のためにもここに書かせていただきます。
藤は先述の通り、私の女中でした。元は母に仕えていた女中だったそうですが、私が生まれたことを機に私の女中になったのだそうです。無論聞いた話ですが当時官吏になったばかりの父を支えていた母は非常に忙しく、子育てなどと言っている状況ではなかったそうで、藤は母の命の下私に仕えているのです。
藤がこの家に来る前にどこでどんな仕事をしていたのかは知りません。今となっては考えたくもありません。ただ藤は私が物心ついたときには私の家に居て、それ以外の場所で生きたことなどない、私はそう信じています。
藤には双子の妹と行方知れずの兄が居ました。妹はとても病弱で、彼女の医療費を稼ぐために藤は毎日働いていたのです。父や母もそれをよく知っていましたから、たった一人で私の世話をするという形で藤の給金を少し上げたのだそうです。妹について藤はあまり自分から語ってはくれませんでしたから、私も病弱だということくらいしか知りませんでした。が、母によると双子というだけあって見分けが付かない程に似ていたのだそうです。
兄についてはもっと語ってくれませんでした。藤からはただ一言、「行方知れず」とだけ聞きました。彼については父も母も語ってくれず、初めて出会うその日まで、私は彼について何も知ることはできませんでした。
さてそれは桜が散り始めたある日曜の事でした。私がマリと遊ぼうと玄関に向かいますと、ドアの前に藤が立っておりました。
「お嬢様、なりません」
私は驚いて藤の顔を見返しました。藤が私のする事に反対するなど、初めてだったからです。
「何故? 今日も約束しているのよ?」
藤は少し戸惑ったような表情をしていましたが、頑としてその場を離れず、
「お部屋へお戻り下さいませ」
と言いました。そこに遅いと心配したのでしょうか、運悪くマリが玄関から顔を出しまして、
「どうしたの、春?」
と尋ねて来たのです。私は驚いて哀願するように藤を見つめました。しかし藤は、私と同様驚きながらもマリに向き直って、
「お引き取りください」
と言い放ったのです。私はそんな藤の冷たい声を初めて聞いたものですから驚いて数歩後ずさりしてしまいました。ですが、マリの方も負けじと、
「日曜日は学校がお休みなのに何故遊んではならないの? 貴女に止める権利なんてないでしょう?」
と美しい顔を崩さずに言い返しました。暫く二人は黙ったまま見つめ合っていて、私はどうしようかと迷いましたが、藤がそこまで言うのには何か深い理由があるのだろうと思い、
「マリ、貴女の家を教えて。そうしたら次の日曜日は私が貴女の家に遊びに行くわ。だから今日のところは悪いけど引き取って?」
と口を挟みました。藤もマリも、今更ながら私が居ることに気がついたように驚いて私を見つめ、やはり暫く黙っていましたが、やがてマリが小さく震えた声で呟きました。
「貴女は私よりもその女中の意見を聞くのね。いいわ、私の家は教会の西にある丘の先のレンガの城よ」
一瞬、藤の顔色が驚くほど変わったのを私は見逃しませんでしたが、見なかったふりをしました。
「必ず行くわ、本当にごめんなさい。でも藤は私にとって姉のような存在だから許して頂戴」
マリは一変し、いつもの天使のような微笑を優しく浮かべ、
「分かったわ、貴女がそこまで言うのなら。じゃあまた次の日曜に」
と言って去っていきました。私は藤と二人で玄関に取り残され、ただ呆然としておりましたが、やがて藤が力無くその場に座り込みましたので、私は慌てました。
「どうしたのです? 何かあるなら私に仰って」
私は俯いた藤の顔を覗き込みながら言いました。が、藤は小さく頷くとそのまま私の肩に倒れこみました。
藤を使用人室に休ませている間に私はマリの家を調べました。父は地租関連の仕事もしていましたから付近の土地については余るほどに資料がありました。が、マリが言っていた「教会の西にある丘の先」にはレンガの城はおろか民家すらも存在せず、あるのはただ廃墟になった荒城だけでした。私はマリが間違えたのかもしれないと教会の東や丘の手前も調べましたが、やはり何も存在せず、ただ父の走り書きの字で「阿部邸焼跡」とだけ書かれていました。
藤が目覚めたのは夕方頃でした。
「ねえ藤、何故貴女はそうまでもマリを嫌うの?」
私は藤の嫌悪があまりに不自然に感じました。今まで私は何度か級友を家に招いたことがありますが、藤は誰もが羨む、模範的な女中だったのです。
「あの少女は、私の母を殺したのです」
藤の言葉に私は笑いそうになりました。
「貴女でも冗談をを言うのね、藤。貴女のお母様はマリに殺されたというの?」
「彼女の住まいを聞いて確信が持てました」
笑う私を余所に藤はあまりに真面目に言うので、私は笑うのを止め、彼女とソファに座りました。
「もうずっと昔、私と妹は、あの城の主と女中の子として生まれたのです。兄は正妻との子でした。私達はあの城で育ったのですが、私と妹が十三、兄が十五になった頃、母はあの少女と妾の美貌によって殺されたのです。彼女は幼い頃から悪魔の様な美貌を持っていて、父は彼女と、彼女の母親である西洋人の妾に夢中でした。正妻様の事はあまり存じませんが、母にはそれが耐えられなかったのです」
私がもう少し大人でしたら、憂鬱な表情を浮かべる藤のためにもマリと縁を切っていたかもしれません。しかし不幸にも私はその頃まだ、子供でした。
「馬鹿馬鹿しい、とにかく私は来週マリの家へ行くわ。約束したんだもの」
私は早々に話を打ち切ると、少し大人気無かったかと思いながら自室に戻りました。
藤が死んだのはその次の日曜でした。
私は朝起きて、すぐにマリの家へ出かける支度をし、一階へ降りて、そこで初めて父が仕事に行っていないことに胸騒ぎを覚えました。母は声を殺して泣き、父はただ数人掛けの肘掛け椅子の上に人形の様に置かれた藤の遺体を見つめていました。私は父の視線を辿って、初めて藤の遺体を見つけ、暫く状況を理解できないまま呆然としておりました。
しかし私は不思議なことに、全くと言ってよいほど哀しくなかったのです。まるでその遺体が藤ではなく、別人であるようでした。また葬式を出すまでの慌しさからかもしれませんが、私は藤が、姉の様に慕っていた人がこの世から去ったことに何の空虚感も覚えることができず、何処か遠くで生きているような気がしてならなかったのです。藤の家庭のことも考え遺体は此方で引き取り、墓を立てる代金も全て父が払いましたが、嗚呼、しかし私は告白します。私はそんな慌しい中でも尚、藤の事ではなくマリの事を考えていたのです。
そんな事、と言えてしまうほどにあっさりと藤の死は過ぎ去り、私が次にマリに会ったのは、それからさらに一週間経った日曜でした。父も葬儀の翌日には仕事に復帰しておりましたから、女中の居なくなった家から抜け出し、城へと赴くのは容易な事でした。
城は一言で言うと荒れていました。庭の木々は枯れ、蔦が周りを覆い、門には蜘蛛の巣が張り巡らされ、心なしかその場所にだけ太陽の光が射し込んでいないような気さえして私は少し心細くなりましたが、この中にマリが住んでいるのだと思うと勇気づけられました。私にとってマリはそれほどに大きな存在となっていたのです。
門に付いているベルを鳴らすと錆付いた音がして、十数秒程経ったでしょうか、マリが私に飛び付いてきたのです。
「嘘吐き、どうして前の日曜には来て下さらなかったの?」
マリの声は少し震えていました。私は久しぶりにマリに出会った歓びを抑えながら静かに藤の死について話しました。
「そうだったの」
マリは少しの間俯いて黙っていました。正直マリが悲しんでいるのは驚きでしたが、だとしたらそれ以上藤について触れるのは良くないと思い、無理に話題を替えました。
「貴女、この城に一人で暮らしているの?」
「ええそうよ。どうぞ入って」
マリは美しい瞳に溜まった涙を拭うと城の中へ私を招き入れました。
城の中も、その外見から予想できるものでした。燭台は埃まみれで、暖炉には燃え尽きた薪が積まれ、椅子や机は軋んで、私は思わず顔を顰めました。
「貴女、毎日此処で過ごしているの?」
「ええ」
マリの答えがあまりにもそっけなかったので、私は数週間気になっていた藤の母についての詮索すらも躊躇い、部屋の中のものに目を移しました。そして壁に掛けられた数枚の絵画を見つけました。
「素敵な絵ね」
私が呟くとマリは少し恥ずかしそうに答えました。
「有難う、私が書いたのよ」
私は驚いて再びその絵を見返しましたが、何度見てもそれは展覧会や美術館に飾ってあるような美しい風景画でした。
「紅茶でも飲む?」
マリの声に私が我に返ると、二人分のカップが机の上に並んでいました。
「ええ是非」
言いながら私は不気味な音を立てる椅子に腰掛けました。マリも反対側の椅子に座り、慣れた手つきで紅茶を入れ始めました。
「ねえ、あの奥にあるの、ピアノよね。弾けるの?」
「ええ、一曲弾きましょうか?」
マリは紅茶の最後の一滴を淹れ終えると、立ち上がってピアノの方へと向いました。私は何度かピアノの演奏は聴いた事がありましたが、マリが奏でるその音は何よりも澄んでいて透明でつい聞きいってしまいました。教会の鐘の音のような優しい響きと、天使のように美しいマリの姿とが重なって、荒れ果てた城内すらも趣深く感じられるような白い輝きを放っていました。
それから何分か経った頃でしょう、題名も分からない曲の最後の高い一音が静かな城内に響き渡り、私は言葉を失いました。
「どう?」
マリが遠慮がちに尋ねてきた時、私はやっと、
「素晴らしかったわ」
と呟きました。月並みな言葉ですが、その光を目の当たりにした私にはそれしか出てこなかったのです。
「有難う、今日は褒められてばかりね。これはフランツ・リストというハンガリーの作曲家が作った『La Campanella』という曲、日本語だと『鐘楼』ね。以前独逸に居た時に知り合いから教わったの」
マリは二週間前と変わらぬ、天使のような微笑を浮かべて私の元へ舞うようにやってきました。
「貴女も弾いてみない?」
マリは私を半ば無理やりピアノの前に座らせました。そうして音楽のことなど学校で習った譜面の読み方程度しか知らない私にも分かるよう易しく教えてくれました。
「ねぇ、貴女はどうして学校なんて行っているの?」
マリは突然問い掛けてきました。
「勿論勉強する為よ。これからは身分なんて関係無い、学歴によって身分が造られる時代なのですって。『学問ノスヽメ』っていう書物にもそう書いてあったわ。それに学校は月謝が高いから普通の人たちは行けないのですって、だからその方達の分も一生懸命学ばなければ、学びたくても学べない人に失礼なのだわ」
私が鍵盤に目線を落としながら呟きました。
「勉強して……それでどうするの?」
弱々しく鍵盤に指を落としたマリの顔を覗き込むと、マリは小さく震えていました。
「御国の役に立てるような人間になるのよ。できれば私もお父様みたいに政府の人間になって陛下に直接お仕えしたいけれど、所詮は私も女だし、どうなるかしらね」
暫くの間沈黙が流れましたが途端、マリはその場に崩れ去りました。
「どうしたの?」
マリはしゃくりあげながら叫びました。
「私……貴女がそうまでして学校に行っていると思わないで……明日も明後日も……毎日毎日此処に来てくれたらって……ごめんなさい……でも私……私この城にずっと独りぼっちなの……寂しいの……」
私は思わずマリを抱きしめました。マリは一瞬戸惑っていたようですが、すぐに私に縋りついて声をあげて泣き始めました。
「私を独りにしないで……寂しいの……寂しい……寂しいよ……何処にも行かないで……ずっと此処に……私の傍に居て……」
私は少し微笑んで、マリをさらに強く抱きました。
「安心して、私はずっと此処に居るわ。明日も明後日も来てあげるわ。だからどうか泣かないで」
私は言ってから気付きました。「明日も明後日も来る」という事はつまり「学校を休む」という事です。しかしその時、私の頭にはマリの事しかありませんでした。私の中に芽生えた罪悪感は一瞬の内に消え去ってしまったのです。
翌日から私は約束通り学校へは行かず、マリの居る城へと向かいました。
「そういえば貴女は最初から学校には行っていなかったみたいだけど、漢字とかは何処で習ったの?」
私はある日マリに尋ねました。
「ひらがなは書けるけど、漢字は読めも書けもしないないわ。さすがに喋ることはできるけれど、日常生活で漢字を書くことなんてないし、教わったこともないもの」
マリは当然のように言いましたが私は驚きました。
「貴女、書くのはともかく、漢字が読めなくてよく十年以上も日本で暮らして来られたわね、良いわ、これから私が毎日貴女の先生になって漢字や文学を教えてあげる。絶対役立つわよ」
そうして私達は毎日を過ごしていました。私だって漢字が得意なわけではありませんが、少なくともその頃の私にとって学問は、絵もピアノも上手で、綺麗で、優しくて、話し上手で聞き上手なマリに唯一勝てるものだったのです。正直私自身彼女に勝てるものがあるなんて思ってもいませんでしたから、感情的なものを別にして、事実上私がマリに必要とされるというのがとても嬉しかったのです。またマリは文学も、世界文学には詳しかったのですが日本文学はほとんど知りませんでしたから、沢山の本を紹介しました。父に勧められたものがほとんどでしたから、もしかしたらマリにとってはどうでもよいことだったのかもしれませんが、私にとっては、両親に学校に行っていないことが悟られないための良い隠れ蓑となりましたし一石二鳥でした。
毎日が、とにかく楽しくて輝いていました。マリの笑顔を見ていると将来のことや級友のことなど忘れてしまうほどでした。毎日会っていてよくぞ話題が尽きないものだとも思いますが、その背景にはやはり、マリの話題の豊富さや人間性のようなものがあったのでしょう。
「今日はお天気が良いから庭に出ない?」
マリの言うことはいつも突然でした。
「素敵ね、行きましょう」
私はマリよりも早く庭へ飛び出しました。
私達は荒れ果てた庭で紅茶を飲みながらお喋りしました。
「私達って姉妹みたいではなくて?」
サンドウィッチを食べながらマリが言いました。
「ええ、この城に貴女と居ると若草物語の主人公になったみたい」
この本もやはり父に勧められ、私とマリと二人でつい先日読んだ本でしたから、マリは私の答えが気に入ったらしく、
「春は若草物語だとメグみたいね、色んな事を知っているし、頭も良いし」
と言って微笑みました。
「じゃあマリはベスね。すごく人見知りをするけれども、時々想像もできないほど大胆なんだもの」
それから若草物語の話で一頻り盛り上がっている内にいつの間にか、日は傾いていきました。
「あらもうこんな時間だわ。そろそろ失礼するわね」
私はそう言ってサンドウィッチの包みを丸めて帰る支度を始めました。するといつの間にか、空を見ていたマリが私の名を呼びました。驚いて行ってみますと、東の空に白く、美しい満月が見えました。
「一度でいいからこれを貴女に見せたかったの。綺麗でしょう、荒城の月よ」
マリはそっと囁きました。
そんなある日、私が学校へ行くと言って門を出て、マリの城へ向っている途中の事でした。教会の前のベンチに座ったみすぼらしい着物姿の男が私に話しかけてきたのです。
「貴女が春さんでしょうか?」
「どちら様です?」
私はその男を見返しました。男は俯きながら数日前の新聞を読んでいましたから顔ははっきりとは見えませんでしたが、どことなく藤に似ている気がしました。
「失礼、私は藤の兄で龍と申します」
「それで、私に何か?」
私はマリを思い出しながら微笑みました。龍は少しの間黙っていましたが、やがて新聞を閉じ立ち上がりました。
「学校に行かれるのでは?」
私は驚きました。私の父は身長が低い方でしたから、龍のように背の高い男性に見下ろされたのは初めてだったのです。
「貴女は藤の心遣いを台無しになさるおつもりですか?」
私は思わず眼を逸らしました。彼の中では恐らく、藤は私のせいで死んだという解釈がなされていたのでしょう。私はなるべく考えないようにしていましたが、もしもあの時私がマリと縁を切ってさえいれば藤は生きていたかもしれませんから、私はその解釈を真っ向から否定することはできませんでした。
「藤の死因は毒殺だったそうです」
小さな声で龍が呟きました。私はその時、初めてその事実を知りました。
「誰かが藤を……殺した?」
「ええ」
これで先程の私の予想ははっきりしました。この男は、藤を殺したのは私だと思っているのです。
「私が殺したと?」
私は耐えきれずに尋ねました。龍は再び俯くと考えながら小さく呟きました。
「藤の日記が見つかりました。貴女のお父様が見つけたのを私に贈って下さったのです。それを読む限り、あの時彼女を殺す動機を持っていたのは貴女だけです」
「ちょっと待って」
私はこの男の考えている事が分かりませんでした。この男は私を犯人だと疑っているようですが、そもそも、行方知れずであった筈の彼が何故そこまで知っているのか、そして何故父は彼の手に日記を渡したのか――
「貴方、藤が死んだ時何処に居たの? 何故そんなに詳しいの? そもそも貴方、本当に藤のお兄様なの?」
龍は小さく溜息を吐くと、再びベンチに腰掛けて話し始めました。
「私は藤の兄です。あの時藤の双子の妹、桐と共に居ました。私が行方知れずだと聞いているのでしょうが、それは嘘です。元々藤とは仲が悪かったので大方、藤が嘘でもついたのでしょう。が、お父様には私の事も、桐の事も、全てお話してありましたし、あの夜は偶然、桐と共に貴女のお父様に会いに貴女のお屋敷へ赴いておりましたから藤の死についての詳細も聞いたのです」
私は頭の中で整理しました。思えば私は藤の事を何も知らなかったのです。いつも自分の事ばかりで、藤の事なんて何一つ聞こうとしなかったのです。私は何時の間にか降ってきた雨をも無視して尚も尋ねました。
「仲が悪かったのに何故そうまでして私を問い詰めるの? そもそも何故仲が悪かったの?」
龍は暫く黙ったまま俯いていました。私は龍を見つめたままその無言の時を過ごしていましたが、彼はようやく哀しそうに虚空を見つめて呟きました。
「私は、本妻の子ですから」
私は言葉を失いました。静かに空を見つめる彼の眼が本当に、本当に哀しそうだったからです。雨が降っておりましたからはっきりとは分かりませんでしたが、その時彼は涙を流しているようでした。
「もし私が藤を殺した犯人だとしたら、貴方は私をどうするの?」
龍は再び黙って俯きました。汚れた和服に包まれた、「他人」である妹達の為に苦労してきたというのがありありと分かる細い肩は小刻みに震えていました。が、やがて音もなく立ちあがると、
「学校に行ってください、藤の為にも」
と呟いて歩き始めました。
「待って、貴方が藤の兄だというのならもう一つ聞かせて」
龍は私に背を向けたまま立ち止まりました。私は龍のすぐ後ろまで駆けて行き、小さな声で尋ねました。
「マリという娘を知っている?」
私は答えを聞きたいような、聞きたくないような、矛盾した気持ちで龍を見上げました。またしても間が訪れました。
「存じません」
一瞬の空白の後、龍は振り返って予想外の一言を口にし、そのまま去って行きました。
流石にその日はマリの城に行く気にはなれず、かといって学校に行く気にもなれず、ただ一人、ベンチに座ったまま雨に打たれておりました。
「ごめんねマリ……」
私は一人呟きながら、今しがた知った事実について自分なりに考えてみました。
藤は何者かに殺された、それは私に少なからずショックを与えました。私が知っている限り、藤は誰かに殺されるほど恨まれるような人間ではなかったからです。しかし私が知っている「藤」はほんの僅かだということもまた、新たに知った事実でした。もし仮に藤を殺した人物が私の知っている人間だったとしたら、あの時藤を邪魔に思っていたのは私とマリだけです。とても横暴な推理ですが、私が犯人でない事は私が一番よく知っています。だとすると犯人はマリであるという結論に辿りついてしまうのです。
私はこの推理を肯定する気にはなれませんでした。私は、私が無実であるのと同じくらい、マリの無実を信じておりました。ですからきっと犯人は私の知らない、別の誰かなのでしょう、今でも私はそう信じております。ですが私の横暴な主観を抜いて話を進めれば、龍と名乗ったあの男が私を疑うのも無理はありません。
その夜、私はある夢を見ました。暗闇の中で藤にそっくりの少女が泣いていて、遠くには龍と、冷めた目をした藤のような少女が立っています。私は泣いている少女の元へ駆け寄ろうとしますが後ろからマリが微笑みながら私を呼んでいる、そんな夢でした。この頃から私はこの夢を時折見るようになりました。全てを失った今でさえ、まだこの夢に魘されることがあるのです、その夜は言うまでもありません、翌朝目覚めると冷や汗をかいた私の横には母が座っておりました。
「大丈夫?」
こういう時、母は聖母のように優しいのです。しかし私にはその優しさがむしろ辛く感じました。母だけではありませんが、藤の死について私に隠し事をしていたという事実を知ってしまったからです。
幸い、その日は日曜日でしたから学校は休みでした。しかし母は私の為にとずっと隣に居てくれました。
私の心にはまだ迷いが残っていましたが、この機会を逃すと次はいつになることやら知れませんので、勇気を出して聞いてみることにしました。
「お母様、藤は殺されたって本当ですの?」
母は驚いたように眼を見開きました。そして少し震えながら眼を逸らし、
「誰からそんな事……」
と呟きました。しかし、私はその一言で確信したのです。
「本当なのね、藤は誰かに殺されたのね」
私は気付くと涙を流しておりました。母はまだ震えていましたが、それでも私の目をしっかりと見ながら、
「誰から聞いたの?」
と尋ねました。
「昨日藤のお兄さんに、龍に会ったのよ。その時に教えてくれたの、そして私が犯人なんじゃないか、って言ってたわ」
母は龍の名が出た途端、何かを考え込むように静かになってしまいました。
「お願い、もう隠し事はやめて、私にも本当の事を教えて」
母は私を強く抱きしめました。その時、私の心には久しぶりに人間らしい、罪悪感という気持ちが芽生えたのです。思ってみれば、私も母に大きな隠し事をしているのです。しかも母は私のその「秘密」に薄々感づいているようでした。
「藤は多分誰かに殺されたのよ」
母が突然話し始めたので、私は驚きながらも真剣に聞き始めました。
「あの後、使用人室の藤の机の引き出しから彼女の日記が見つかったの。私はざっと見ただけだけど、日記の内容は主に貴女の事だったわ。貴女が学校で学んでいる事、貴女のお友達の事、貴女の生活の事……どの頁を開いても殆ど貴女の事だったわ。藤は本当に貴女の事が好きだったのね。それでね、最後の頁にお詫びの言葉が書いてあったわ。私はそこまでしっかり見なかったから覚えていないけれど、今その日記は龍さんが持っているから聞いてみたら? 貴女に宛てた言葉だったのに、今まで黙っていてごめんなさいね」
そうして母は私を慈しむような瞳で見つめそっと髪を撫でてくれました。
「お父様には秘密よ。そもそも貴女に本当の事を言わないでおこうって決めたのはお父様だったのだから」
母は私をしっかりと見つめましたが、私は母の眼を見る事が出来ずに思わず眼を背けました。それでも母は何も聞かずに一日中、私の傍に居て下さったのです。
翌日、私は学校へ行きました。それが何も聞かないでいてくれた母への唯一の罪滅ぼしだと思ったからです。私が学校へ行くのは優に数ヶ月ぶりでしたので、級友達が驚いたのは勿論の事、教師までもが私の出席に眼を丸くしていました。
学校が引けるとすぐにあのベンチへ向いました。龍は丁度去ろうとしているところで、私は急いで彼の元へ行き縋り付きました。
「藤の日記を見せていただけます?」
彼は驚いて身を固くしましたが、すぐに私であると気付き、
「何故です?」
と尋ねてきました。
私は龍をベンチに座らせると昨日の事を出来る限り細かく話しました。母が日記を読んだ事、そこに私に対する謝罪が綴られていた事、話し終えると龍は少し考えていたようでしたが、やがて静かに立ちあがって、
「来て下さい」
と言って足早に歩き始めました。私も慌てて追いかけて、小走りで歩き始めました。
龍は小さな路地の行き止まりで歩みを止めました。それまでの常識――今にして思えば本当に浅はかな常識ですが――で、人間は屋敷に住むものだと思っていた私はその光景に心底驚きました。そこには藤そっくりの少女が道端に力無く座っていたのです。
「妹の、桐です」
そこは路地ではなく二人の「家」でした。
「あなたが ねえさんのいってた おじょうさま?」
私は桐と呼ばれた女性を見ていると、藤が戻ってきたみたいで嬉しくてなりませんでした。そして藤そっくりの顔を見つめながら、何とかこんな暮らしから救い出したいと考えて、
「龍、貴女、私の家で桐と共に働かない?」
と提案しました。龍は驚いて私を見つめましたが、何も言わずにただ日記を差し出しました。私は急に本来の目的を思い出して日記を手に取り、藤が私に宛てて綴ったという最後の頁に目を通しました。そこには事務作業帳などで見慣れた、懐かしい優しく整った字が並んでいました。
私があのような事をしてしまったのはお嬢様の為だったのです。
きっとお嬢様は理解しては下さいませんでしょう。
しかし、私はお嬢様の為でしたらどんな事でも厭いません。
いつかお嬢様も私の想いに気づいて下さるでしょう。
その日まで、御暇仕ります。申し訳御座いません、お嬢様。
私は記憶を手繰りました。「あのような事」というのは恐らく私とマリを別れさせようとしたことでしょう。しかし私にはそれだけの事が「どんな事」と言うほどのことにはさすがに思えなかったのです。そうして思考を巡らせていると、突然桐が狂ったように叫びました。
「ちょっと ねえさんに すかれていたからって ゆるさない……」
呆然とする私を余所に桐は私の手から日記を奪い取ると私を鋭い目つきで見つめました。
「ねえさんを かえして ころしてやる さつじんしゃ……」
「桐、少し休め」
龍は手際よく薄汚れた毛布を桐に投げ、
「満足ですか……?」
と呟き、大通りへと戻って行きました。
「桐が無礼を致しました」
龍は他人の非礼を詫びるように冷たく言い捨てました。
「昔から心も身体も弱いんです。御存じの通り藤はいつも桐の為に努力していました。私はそんな藤が大嫌いでしたから、たまには自分の為に行動しろと何度も忠告したのですが、いつも何を考えているのか分からない、顔に張り付いた微笑みで誤魔化されまして。勿論桐は藤が大好きでしたからあのうような行動に出たのだと思います」
龍はまるで私を追い払いたいかのように邪険な態度を取り続けましたが、私はそれでも龍に付いて行き話を続けました。龍は、私が知らない藤を沢山知って、私は沈みかけた夕陽に少し寂しくなりながら、それでも彼の空を見上げた時の、あの哀しそうな眼を思い出すと、嗚呼、彼は私なんかよりずっと辛いのだと涙をこらえました。
結局私が父に頼んだ結果、龍と桐は父の許しを得て私の家に滞在する事になりました。桐には空いていた客間が一部屋与えられ、ベッドで一日中横になったままでした。医師によると桐の身体に病気は見つかりませんでしたが、とにかく精神が弱っているので安静にしていた方がよいとの事だったからです。それでも時折部屋から生者とは思えぬような面持ちでゆらりと出てきて、私を見つけると恨みの籠った暗い瞳で睨みつける、そんな生活をしていました。私は藤に拒絶されているような気がして、それが寂しくてたまりませんでした。ですが、もしかしたら藤も仕事上私に付き合っていてくれていただけで、本当はずっとこうして私の事を睨みつけ、敵意を浴びせ、拒絶したかったのかもしれないと思うと居た堪れない気持ちになり、それを何の罪の意識も感じることなくやってのける桐を憎む気になど到底なれませんでした。一方、私への容疑を両親に悉く否定された龍は、私の使用人となって働きました。私は桐に拒絶されてしまっている分、彼の優しさに藤が帰ってきた心地を覚え、懐かしくて嬉しくて、そしていつしか、藤の面影を残す彼に恋をしていたのです。私の初恋、私が十三になる少し前の事でした。
次の日曜日に私は久しぶりにマリの元を訪れました。マリは泣きじゃくりながら、
「毎日待っていたのに、何故来てくださらなかったの?」
と叫んで飛びついてきました。
「本当にごめんなさいね。でも私、殺人の疑いをかけられていたの」
マリは長い髪を払いながら、
「酷い、誰がそんな事」
と呟きました。
「私の新しい使用人よ。でももう大丈夫」
「新しい使用人?」
マリは驚いて飛び退きました。
「そうよ。藤のお兄様で龍って言うの。私が差し上げた燕尾服と帽子がとても良く似合うのよ。本当に素敵な人。十一も年上だけれど、私、結婚するならああいう方と結婚したいわ。マリも絶対気に入るわよ」
私は微笑みましたが、マリは俯いて、呟きました。
「では貴女は、また毎日学校に行かなくてはならないのね」
嗚呼その時私は、またしても運命を左右する選択に巡り会うことができたのに、その機会をやはり見逃してしまったのです。
「いいえ、それは違うわ。私が貴女との約束を破るわけ無いじゃない。勿論、何か大きな出来事がない限り毎日遊びに来るわよ」
私はまたしてもそう言ってしまったのです
それから私は父に連れられて何度も舞踏会へ行きました。その頃には何故かマリはあまり舞踏会に出席しなくなっていましたので、マリに鍛えられたダンスで私は龍と踊りました。龍の踊りは本当に美しくて、それを見ると自分の未熟さを何度も感じました。
そうして私が五度目ほどの舞踏会に行った時です。私は久しくマリの姿を見つけたので龍を紹介しました。
「春さんからお話は伺っております。本当にお美しい方ですね。よろしければ一曲踊っていただけます?」
これにはちょっとした策略がありました。いえ、策略と言うほどのものでもないかもしれませんが、以前龍はマリのことを知らないと言いましたが、もしもそれが嘘だったり、或いは忘れたりしているだけならば何らかの反応を示すのではないかと思ったからです。その時は二人ともお互いの事を知らないようでしたが、今思ってみると、確かにマリほどの恐ろしい美貌の持ち主を前にして、冷静に「お美しい」などと言えるのは不自然な気もしなくもありません。しかしそこまで考えるだけの能のなかった当時の私は、藤の単なる記憶違いかもしれない、と無理に自分を納得させました。それ以上に予想しなかった展開になってしまったからです。
さて、普段なら私以外の誘いは全て断るマリが、私の紹介だからか、龍の誘いを断らず、二人は次の曲を踊り始めました。私は水を飲みながら二人を見ておりましたが、長い髪と桃色のドレスの裾を揺らしながら女神の様に舞うマリと、完璧なリードの龍は他の招待客が思わず踊るのを忘れて見惚れてしまうほど美しい、非の打ち所のないペアだったのです。
私は急に嫉妬心に駆られました。もしマリが龍を気に入ってしまったら私に勝ち目はありません。マリと恋の勝負をするなんて、象と相撲を取るようなものです。私はマリのバランスよく吊った眼を、龍の細くて力強い指を、二人に見惚れる招待客を見つめながら言い知れない孤独感に苛まれました。
その時の私にとっては永遠とも言える時間が終わって、マリが私の元に駆けて参りました。私は無理に微笑みながら迎えましたが、マリの方にそんな気は全く無かったらしく、
「彼、本当に素敵な方ね。それに彼、貴女の事気に入っているみたいだから頑張って、でも私の事も忘れないでね」
と微笑んで手を差し伸べました。私はその手を取って、そうして再び女神の様に美しい彼女と踊り始めました。
それ以来、私はマリの城で彼の話をよくするようになりました。マリは相変わらず聞き上手でしたので、私はいつも多くの事を話してしまいました。毎朝彼が起こしてくれる事、毎日彼が門まで送ってくれる事、毎日玄関で出迎えてくれる事、毎日紅茶を淹れてくれる事――
「でも紅茶はマリが淹れたのが一番だわ」
当時紅茶の味なんて区別もつかなかったくせに大人ぶってそんな事を言ったものです。
その頃の私は、藤が居た頃とはまた違いましたが、本当に毎日が楽しくて仕方ありませんでした。彼の声で目覚め、彼の淹れた紅茶を飲み、彼に隠れてマリと遊び、彼に出迎えられ、彼に促されて眠り、この頃は恐らく私の短い生涯のなかの幸せの絶頂でした。しかし今の私は知っています。幸せというものは針の上に立つかのように不安定なものであり、ほんの少しの刺激でいとも簡単に崩れてしまうのです。私はその日、彼から誕生日プレゼントに貰った、黒いヒールのあるブーツを履いておりました。彼は私の誕生日に、と藤の遺品である手袋とブーツをくれて、私は嬉しさのあまり冬中それらを身につけていたのですが、ついにその紐が切れたのです。
「不吉だわ」
私は呟きました。マリは私の異変にすぐに気付き、
「それ毎日履いているけど、大切なの?」
と尋ねました。
「ええ、彼から貰ったの。何だか嫌な予感がするわ。学校に行っていない事がお父様に知れたらどうしましょう」
マリの表情が曇りました。
「やっぱり学校へ行くべきだったのよ」
私はその時悟りました。私の悩みは同時にマリの悩みでもあり、私が悩めば悩むほど、マリもまた同じ悩みに心を痛めるのです。
「明日からちゃんと学校へ行かなくては駄目よ、確かにこの城に独りで取り残されるのは辛いけれど、貴女は御国の為に勉強しているんでしょう。だったら、高い月謝を払って下さっているお父様の為にもしっかり勉強して、そして国の為に生きなければ」
マリは私を諭すように言いました。
私は狼狽しました。今までだったらマリは「学校になんて行かないで毎日此処に来て」と頼みました。しかし彼女は今「学校に行って」と言っているのです。欲求に逆らってまでそう頼んでいるのです。いつでも自分の欲望に正直なマリが、です。
「いいえ、私は行かないわ。マリ、貴女らしくもない。もっと自分に素直になって。それが私の大好きな、私の憧れのマリだもの。私、いつも貴女のようになりたいって思っていたのよ。だからお願い、私の大好きないつものマリのままで居て」
マリは少しの間黙っていましたが、やがて泣きながら私に縋りつきました。そして私に震えた声で言ったのです。
「明日も来て」
私は何度も頷きました。そしてマリを強く抱きしめました。私達は既に、お互いを異常なまでに必要とする関係だったのです。
藤と違って龍は、何でもしつこい程に尋ねてくる性格でしたから、私がどんなに隠そうとしても毎日マリの城に行っていたことはすぐに露見してしまいました。
「どうか藤の為にも、学校へ行ってください」
龍は何度も私にそう言いました。しかし不謹慎ながら私は、龍が自分のことを心配してくれるのが嬉しくて、龍の言いつけを聞きたくなかったのです。しかしその夜は違いました。
「春さん、明日こそはいい加減学校に行って下さい。明日は私、春さんと学校まで一緒に参りますから」
私は、つい五、六時間前、マリと約束をしたばかりなのに困ったことになったと思いました。そして黙って少しの間考えておりましたが、私の心はすぐに決まったのです。
「いい加減にしないと、お父上に言いつけますよ」
この言葉は私を打ちのめしました。万が一にでも父に知られたらもう二度とマリには会えないかもしれません。私は心の中でマリに詫びると、
「分かったわ、一緒に参りましょう」
と甘えた声で囁きました。
ところがまたしても、予想もしない事態が起こったのです。朝、私は龍と学校に行ける事だけを楽しみに起きました。しかしその時既に龍はこの世に存在しなかったのです。
「春……大丈夫よ、春……」
母は私を抱きしめて呟きました。恐らく母は私の淡い気持ちに気付いていたのでしょう。母にも隠し事などできないのです。
龍は喉を切られて即死だったそうです。最初に発見した桐は叫び狂い、私が起きた時にはやっと落ち着いたところでしたが、彼女をなだめるのは大変だったそうです。髪を振り乱し、龍の遺体を抱きながら何かを叫んでいたと聞きました。
私は全てが片付き次第、マリに会いに行きました。マリは暫く黙って聞いていましたが、やがて少し震えた声で、遠慮がちに、
「絶対に貴女じゃないわよね?」
と呟きました。
「ええ、絶対に違うわ、信じて」
私は力強く言いました。マリは安堵の溜息を吐くと、
「勿論よ、私、何があっても貴女を信じるわ」
をほほえみました。
その日以来、私は一層マリに依存し始めました。学校にも行かず、家でも殆ど話さず、ただいつもマリの事を考えておりました。家では桐の拒絶が以前に増して強くなり、使用人の間でも私の悪い噂が立ち、私は少しずつ、しかし確実に追い詰められていきました。その頃の私に頼れる人間はマリしか居ませんでしたから依存が深まったのは当然と言えば当然かもしれません。私は次第に家に居る事が苦痛になり、なるべくマリの城での滞在時間を長くして、なるべく家の中に居る時間を少なくしようと努力しました。
そんなある、春の風を感じられるようになった穏やかな日、私がいつものようにマリの城から戻ると、門には珍しく桐が居ました。私は驚いてバッグを持ったまま桐の元へ駆け寄りました。
「どうしたの桐? お医者様に安静にしてなさいって言われたじゃない。部屋に居なくては」
しかし桐は何も聞こえないかのようにただ空を見つめていました。
「桐……どうしたの?」
普段だったら桐は、私を見るなり殺気に満ちた目で私を睨み、私が近づくと逃げるのです。私が妙に胸騒ぎを覚え、母を呼ぼうと立ち上がった時でした。
「ごめんなさい」
幼児のような口調で呟いた桐に私は驚き、しかしそのまま動く事ができず、仕方が無く桐の傍に座り込みました。
「何か悪い事をしたの?」
「あなたを きずつけたから」
桐は私に縋りつきました。
「桐?」
「ごめんなさい」
「分かったから…もう貴女の気持ちは分かったから…」
私は頭が回らなくなりました。私を拒絶し続け、かれこれもう半年以上も口を聞かなかった桐が今、私に謝っているのです。
「ほんとうに ゆるしてくれる?」
「ええもういいのよ。だから放して」
桐はすぐに私を放しました。私は小さく溜息を吐いて、バッグからハンケチを取り出すと桐の涙を拭いてあげました。
「ありがと」
桐は放心したように呟きました。
「さあ、部屋に戻りましょう」
私は半ば強引に桐を立たせると、引きずるようにして玄関まで連れて行きました。
「わたくし ねえさんになる」
桐は玄関のあたりで唐突に呟きました。もしかしたら明朝にはまた私を殺気立った瞳で睨みつける、元の桐に戻っているかもしれません。しかし私はその時だけでも、本当に藤が戻ってきたような気がしてならなかったのです。そう思って、私は優しく頷きました。
桐の精神変化の原因は結局不明でしたが、恐らく桐の中では私に仕えていた頃の藤が私にとってのマリのような存在になったのでしょう。私がマリの仕草を真似するように、桐も藤の真似をしたかったのだと感じました。以来桐は、かつての藤のように振舞い始めたのです。とはいっても精神病患者ですから女中としては有能とは言い難い仕事振りでしたが、私は桐がバッグを持って門まで来てくれて、その時に振り返って、
「行ってきます」
と言う時や、帰ってくると必ず玄関の床に座っている桐にバッグを渡し、
「ただいま」
と言う時など、藤が居た時の事を鮮明に思い出しました。恐らく、藤や龍が居なくなった今、桐以外の女中は私にとって邪魔同然なのでしょう。桐以外では駄目なのです。桐が居てこそ私は二人との思い出を思い出として大切にしておく事ができるのです。
その内に私はふと気になって、桐に尋ねました。
「ねえ、貴女のお母様はどうしたの?」
桐は首を傾げて少し考えておりましたが、やがて小さな声で、
「ころされた」
と呟きました。私は驚いて、慌てて尋ねました。
「間違い無いわね、じゃあもう一つ、貴女のお母様を殺したのはマリという少女かしら?」
桐は焦点の合わない瞳で頷きました。
「そんな事ある訳無いじゃない」
珍しく書斎で探し物をしていたマリは、私の話を軽く笑い飛ばしました。
「でも藤も桐もそう言うのよ、龍だけは何も言わなかったけど」
脚立の上に優雅に座るマリを見上げながら私が言うと、マリは探しものに夢中になりながら答えました。
「だって私、そもそも貴女に出会う一年くらい前はこの城に住んでいなかったもの」
しかし、それでも私にはまだ引っかかるものがあったのです。
「ねえ、マリはどうしてこの城に一人きりで住んでいるの? ご両親はどうしたの?」
それは私の長年の疑問でした。藤の話が本当で、もしマリが殺人犯ならば納得できますが、そうでもない限りマリがこの城に、それもたった一人で住む理由なんて無いのです。
「私の前で親の話をしないで」
私は驚きました。いつも冷静で優しい微笑みを失わないマリの、そんな冷たい声を私は初めて聞いたのです。マリの表情からは微笑みは消えていました。そうして替わりに、哀しい程の憎悪すら漂っていたのです。私は言葉を失い、ただ立ち尽くしました。
「パパはね、私を残してどこかへ失踪したの。だから私はずっと独逸のお祖母さまの元に居たのだわ、あの卑怯な男……」
マリの言葉に私は身震いしました。それこそ、マリが絶対的に、人間という生き物に無条件に敵意を抱いている最大の原因だったのです。わたしはマリの、触れてはならない「秘密」についに触れてしまったのです。
「それで……貴女のお母様はどうしているの?」
私は恐々と尋ねました。マリは一瞬だけ顔を背けましたが、すぐにいつものマリに戻ると、笑顔で答えました。
「殺されたの」
私がマリの言葉を理解するまでに数秒を要しました。気付くとマリは本棚の端の方まで移動して探し物をしていました。
「マリ……貴女のお母様も?」
「ええ」
マリは熱中していて、私には見向きもせず素っ気なく答えました。私は思わず小さく後ずさりしてしまいました。
「何故……」
相変わらずマリは本棚に向かっていました。そのままいつものように微笑んで、答えました。
「何故ってそんなの犯人に聞いてよ。私に聞かれたって知らないわ」
「そんな……そんな軽いことなの?」
私はマリを見つめました。
「だって親も所詮、一個の人間、他人じゃない」
私はその時になってようやくマリの微笑みに潜む残虐さに気付きました。藤は最初からそれに気付いていたのかもしれません。だからこそ私に忠告したのでしょう。自分の命に代えても私を守る為に――
「マリ、貴女少し変よ」
「何が? 私はいたって普通よ、普通じゃなかったのは彼らの方だわ。だから少し言葉は古いけど、天誅よ。あ、あった」
マリは脚立から優雅に飛び降りると私に一冊の本を差し出しました。
「これ、貴女にあげるわ。貴女が初めて此処に来た時に私が弾いたピアノの楽譜よ、私はいらないから」
私はあまりの事に呆然としながら楽譜を受け取りました。表紙には『La Campanella』と書かれた文字が躍っていました。
「マリ……貴女……」
マリは優しく、残虐に微笑んで、そうして少し首を傾げて言いました。
「今の事、誰にも内緒よ、私達二人だけの、秘密よ?」
私はそっと楽譜を握りしめ、気付いた時には教会の前のベンチに座っていました。恐らくあの城から走って此処まで来たのでしょう。龍と初めて出会ったベンチで、級友たちと先生のオルガンに合わせて歌った日々を、藤に楽譜の読み方を教えてもらったのを、そしてマリの奏でたピアノの透明な音を思い出しました。あの頃、マリは私の憧れでした。
「レレドシシラソファソ……ラレレ……」
メロディと涙は自然と譜面を伝っていきました。
私はそれから二週間ほど、マリの城へは行きませんでした。私が勝手にマリに期待していただけかもしれませんが、マリに裏切られたような気がしたのです。いつもと変わらぬ笑顔であんなことを言われたのですから無理もないと自分を無理に納得させました。
しかし今更学校に行く気にもなれず、私は城の近くの教会へ通うようになりました。
「何か告白したい事でも御座いますかな?」
ある日、毎日のように一番前の席で一人泣いている私を見かねたように、神父様が話し掛けて下さいました。
「神父様、両親を憎むのは罪でしょうか?」
私は涙を拭って尋ねました。そんな事、今更尋ねなくとも罪に決まっているのですが、私は多分、赦しを得たかったのでしょう。
「憎んでいらっしゃるのですか?」
神父様は動揺する事無く、ゆったりと仰いました。私は小さく首を横に振りました。
「私ではなく、私の大切なお友達が」
私はバッグの中に入れていた楽譜を取り出してそっと抱きしめました。
「彼女もまた苦しんでいる、そう考えた事は御座いませんか?」
私は思ってもない返答に驚きながら、それでも小さな声で、
「ありません」
と呟きました。
「ご両親を憎むことは罪かもしれません。しかしそうする事で救われる罪もまた、存在するかもしれませんよ」
私は神父様の透明な瞳を見つめました。その瞳は様々な苦難を乗り越えてきた者だけが得る事のできる、美しく透明な優しい瞳でした。
「神はきっとお赦しになられます。ですからもう一度信じてはみませんか? 神も、そのお友達の事も」
私はしっかりと頷きました。
「貴女に神の御加護を」
神父様は私の前で十字を切りました。私は何だか申し訳ない気持ちになりましたが、それでも神父様は優しく微笑んで下さったのです。その微笑みにはマリとは違った美しさがありました。
「神父様は何故神父様になったのです?」
私は何気なく尋ねました。
「私もかつて、罪人だったのですよ」
虚空を見つめる神父様は、いつかの龍に少し似ていました。
「もうずっと昔、私は考えられる限りの全ての悪行を恐らく重ねてきました。しかしそんな私でも神は赦して下さいました。私は神に救われたのです。その日から、私の義は神なのですよ」
私は神父様の遠い眼を見つめたまま言葉を失いました。この人もまた、癒える事の無い傷と戦っているのです。そして恐らく、マリも。あの笑顔と強さは恐らく、悲しみと弱さの裏返しなのでしょう。
「神父様ごめんなさい、もう行かなくては」
私は楽譜をバッグに詰め込み立ちあがると神父様に言いました。
「行ってらっしゃい、またいつでもいらして下さい 、もう貴女には必要ないかもしれませんが」
「有難う御座います」
私はできる限り丁寧にお礼を言うと、城に向かって走り出しました。
冬の空から雨粒が零れ始め、マリは門に寄り掛かったまま雨に濡れていました。
「マリ……」
私はマリを見つけると叫びながら飛びつきました。マリは驚いたように、しかしまた安堵したように微笑んで、
「来てくれたのね」
と呟いて、そのまま意識を失いました。
私はとりあえずマリを城の中に連れて行き、ソファの上に横にさせました。そして記憶を探りながら紅茶を淹れました。それから一人、城の中を歩いてまわる事にしました。思えば私はこの城に何度も来ているにもかかわらず、リビングと書斎と庭しか知らないのです。城は三階建てでした。一階にはリビング、寝室、書斎、バスルームがあり、二階にはマリの私室、その他客間などがありました。私はいけないこととは思いながらも好奇心に負け、そっとマリの私室を覗いてみて、そうして自分の誤解にはっきりと気付かされたのです。
マリの机の上には一枚の写真が置いてありました。燕尾服を着こなすシルクハットの男性、つばの広い丸い帽子を被っている西欧人の女性、そして幼くはありましたが、美しいドレスを身に纏った、天使と見紛うような少女、マリでした。
「貴女は本当に寂しいのね」
私はそっと呟くと、こっそりと部屋を出ました。
三階までの螺旋階段は異様に長く、何があるのかと少し期待しましたが、ただの屋根裏部屋でした。小さな半円形の窓からは庭が見下ろせて、私はその部屋が思いの外高い場所に作られている事を知りました。
私が再び長い螺旋階段を降りて一階に戻る頃には、既にマリは目を覚まし、毛布に包まりながら紅茶を飲んでいました。
「マリ、貴女ずっと外に居たでしょう。風邪引くに決まっているわ」
私はそう言うとバッグからハンケチを取り出してマリの長い髪を拭きました。
「ごめんなさい。私この前、何か貴女が気に入らない事を言ってしまったみたいだったから」
「もういいわ。此方こそ、ごめんなさい」
マリは頷き、再び紅茶を啜りました。
「春、もうこの事は水に流さない? 全部終わった事よ。私ね、心から貴女を信じようって思ったの。だからもう私、絶対に貴女を疑わないわ」
マリは紅茶をテーブルに置くと私に飛びついてきました。私は突然の事に少しよろけはしましたが、しっかりとマリを抱き返しました。
しかし悲劇とは忘れた頃にやってくるのです。その日の夜、遂に私が学校に行っていない事が父に知れてしまいました。
「お前は何の為に学校に通っている?」
父は静かに言いました。
「尽忠報国の為で御座います、お父様」
と私は小さく震えながら呟きました。
「ではお前は何処に行っていた?」
私は困惑しました。此処でマリの名前を出す訳には参りません。私は俯いたまま、
「教会へ……」
と呟きました。
「春、お父様に嘘をついてはなりません」
母が私を戒めました。私は俯いたまま涙を流しました。
「……教会へ……行っておりました」
「春」
父の低い声は心なしかあの神父様に似ていました。私は涙を拭いましたが止まる事を知らない私の涙はどんどん溢れるのです。
「桐は何か知らないか?」
父は、床に座ったままの桐に尋ねました。桐は父を見て、そうして私が最も恐れていた言葉を口にしてしまったのです。
「まりの おしろ」
父と母は顔を見合わせました。
「マリって誰なの?」
先に口を開いたのは母でした。私は覚悟を決めると母の眼を見て、
「舞踏会で出会ったお友達よ。とても良い子なの。出世する事しか考えていない学校のお友達よりずっと……」
と叫びました。父と母はまたしても顔を見合わせて、そうして父は私の予想通りの反応を示したのです。
「もうその子には会うな。お前の為だ」
私は目の前が真っ暗になりました。そしてその場に泣き崩れました。
私は一晩泣き続けました。桐はずっと傍に座ってくれておりましたが、私はそんな事など気にも止めずにマリから貰った楽譜を抱きしめ泣きました。
「親も所詮、一個の人間、他人じゃない」
マリの微笑みが私の脳裏に甦りました。何故マリはあんなにも強いのでしょう。何故あんなにも自分に嘘をつけるのでしょう。
父も母も、翌日殺されました。
私が自分を疑うのも無理はありません。私は知らず知らずの内に人を殺めてしまっているのかもしれない、という恐怖に襲われました。二人は鋭い刃物で滅多刺しにされていましたから、犯人はそれだけの憎しみを持った者、という事になります。そう考えて、私は初めて気が付いたのです。
いつもそうでした。藤の時も、龍の時も、皆私とマリを引き離そうとした直後に殺されているのです。私は自分を疑いました。しかしその時、もっと恐ろしい事が私の頭に浮かんだのです。
「マリが犯人なら……」
マリは私の家を知っていますし、私の動機はそのままマリに繋がります。私はバッグを掴むと急いで家を飛び出しました。
マリはいつものように笑顔で出迎えてくれました。しかし私の尋常じゃない表情から何かを読み取ったのでしょうか、
「どうかしたの?」
と呟きました。
その時、私の中で犯人はマリでした。ですから私は、マリの笑顔に騙されまいと必死になっていたのです。
「私の両親を殺したのは貴女?」
私は尋ねました。マリは驚いて、
「貴女のご両親が殺されたの?」
と聞き返しました。私はいつものマリと変わらない、と思いながら、
「とぼけないでよ。藤も龍も、貴女が殺したんじゃないの?」
と叫びました。マリは怯えた眼に涙を溜めながら、呟きました。
「何を言っているの? 何故私が殺さなくてはならないの? 何故貴女は私が殺したと思っているの?」
私はマリの演技力に内心舌を巻きながら、しかし騙されまいと思いながら、
「いい、藤と龍と、私の両親が殺された。残っているのは私と桐と貴女しかいない。私ではないわ。桐にあんな芸当ができる筈が無い。とすれば犯人は貴女しか居ないわ」
と再び叫びました。
「私は貴女を疑わないと誓ったわ。きっと貴女は犯人ではない。でも私でもないわ。お願い、信じて」
「悪いけど信じられないわ。桐には藤や龍を殺す理由が無い。それに皆、私と貴女を引き離そうとした直後に殺されているのよ。私か貴女しか居ないじゃない。それだけじゃないわ。貴女、藤のご両親も殺しているんでしょう。もう貴女を信じる事はできない。藤を、龍を、お父様とお母様を返してよ」
一瞬、時が止まった気がしました。私はマリの綺麗な涙を見つめながら次の言葉を待っていました。マリは哀しそうに、天女の様に微笑むと、口を開きました。
「貴女の気がそれで済むのであれば、私を殺人犯にして構わないわ。貴女が私の事をそんなにも信じてくださらないのなら、私がこの世に残っている理由はもう、無いもの」
私は何も言わずに城を後にしました。
私は家へ戻り、二階の自分の部屋へと駆けて行きました。そうしてバッグを床へ放り投げ、そのままベッドに座りこみました。
「どうかなさいましたか?」
桐がいつものように私の部屋に入ってきて尋ねました。しかし私はそれさえも邪魔だと感じ、
「悪いけど、ちょっと黙っていてくれる?」
と言い捨てました。すると突然、桐が物凄い勢いで立ち上がり私の頬を叩いたのです。私は驚いて桐を見上げました。
「どうしたのよ、桐?」
「貴女はいつもそう。自分のことばっかり。だから天罰が下ったの」
桐は私を見下ろして叫びました。それはいつもの桐の狂気じみた悲鳴ではなく、大切な人に対する叱責でした。私はあまりの事に言葉を失い、そうして僅かに震えながら桐を見上げました。
「貴女が殺したの……桐……?」
桐は優しく微笑みました。私が今まで信じてきた、そうして当然であると信じて疑わなかった藤の微笑です。その時、私の頭の中に恐ろしい仮説が浮かび上がりました。
「桐……もしかして貴女は……藤なの……? そうでしょう、最初に死んだ藤が桐だったんでしょう、だから貴女の身体からは病気が発見されなかった、そうではなくて?」
桐は微笑んだまま首を傾げました。その時私は更にとんでもない事に気付いたのです。
「私……マリになんて事……」
私はバッグを持って駆け出しました。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
背後で声が聞こえました。
私は何も考えずに走りました。人力車や乗合馬車に何度もぶつかりそうになりながら私は走りました。
「ごめんなさいマリ……」
私は無意識のうちに、つい一時間前まで殺したいと思うほど憎んでいた友人の無事を祈っていました。。教会を横切り、坂を下り、私は急いで最後の角を右に曲がって門の中に飛び込み、そうして初めて、城が燃えているのを見たのです。
それからの私の行動は正直自分でもあまり覚えてはいないのですが、燃えさかる城に入っていって一心にマリを探しました。果たしてマリは屋根裏部屋にいました。
「マリ……マリ……」
私は朽ちかけたドアの隙間からマリの髪が見えて慌てて呼びました。しかしマリからの返事はなく、替わりにマリの白い足が見えました。
私はドアの隙間から部屋に入りこみ、首を吊っているマリの遺体を発見しました。白い肌はまだ暖かく、つい数分前まで生きていたようでした。炎はどんどん強さを増して、マリの髪にも燃え移りました。私はいつしか涙を流していました。しかしその涙もただ、炎の前に呆気なく滅ぼされる運命でした。
「マリ……いやああああああああああ……」
私が次に目覚めたのは教会でした。
「此処は」
「お目覚めになりましたか」
私は神様の声を聞いているような心地になり、自分は死んだのだと思いました。しかし不幸にも私は、生き残ってしまったのです。
声の主は神父様でした。私はあの後誰かに助けられて教会に連れてこられたようです。
「暖かい紅茶でもお淹れしましょうか」
神父様は言いながら奥の間へ消えていきました。私は慌てて立ちあがろうとして痛みに疼き、そうしてこの悪夢が現実であるという事を知ったのです。
私は全身に大火傷を負っており、傷が癒えるまで教会で暮らしました。その間、事の全てをゆっくりと、神父様にお話致しました。神父様はいつも黙って聞いていましたが、話し終えると、そっと私の手を握り、
「大丈夫です。今までそうして悪い事ばかり起きたのですから、貴女にはこれからきっと良いことがたくさん訪れます。ですから、信じて待ちましょう」
と私を諭しました。
神父様は私が教会に居た数ヶ月間、本当に良くして下さいました。私は神父様とすっかり仲良くなって、色々な話をするようになり、その内にマリの微笑みと神父様の微笑みが全く違っていた事に気付かされました。
神父様の微笑みは優しくて慈愛に満ち溢れていました。しかしマリの微笑みは、私はずっと神父様のそれに似ていると思っていましたが、それよりもずっと悲しく、何かを訴えかけているようでした。もしかしたら私が暫くマリの微笑みを見ていないからそんな風に思えてしまうのかもしれませんが、もう二度と見る事のできないマリの微笑みは私にとって悲しみ以外の何物でもありませんでした。
そう、今思うと私は、最初から誰のことも理解できていなかったのではないでしょうか。藤は勿論、龍、桐、父や母、マリでさえ私には殆ど理解できておりませんでした。無論、他人なのですから完全に理解できる筈などありませんが、それでももし、私が周りの人について少しでも理解しようとしていたら、この様な悲劇は起こらなかったかもしれません。残念ながら私にはそこまで考えられる程の余裕が御座いませんでしたが、道は常に私の傍に伸びていたのです。しかし私は自ら歩もうとしなかった、ただそれだけの事だったのです。
私がどうにか家へ戻れるようになった頃には、あまりに色々な事があって忘れていましたが、私は十四になっていました。マリに出会ってから早くも二年近くが経っていたのです。身長も随分と伸び、袴の裾も随分と短くなってきましたが結局、私は初めてマリに出会ったあの日から何一つ進歩していないことに皮肉にも気付かされました。以前と何ひとつ変わらない屋敷は、たった数ヶ月帰らなかっただけなのに、何故だか恐ろしく懐かしい感じがしました。あれだけいた使用人たちは両親が殺されたことにより全員解雇となり、我先にと新しい就職先を探し始め、静かな屋敷でただ一人、桐だけがいつもの様に、
「おかえりなさいませ」
と出迎えてくれました。私は内心、今でも桐が犯人ではないかと疑ってはいましたが、だからと言って今更憎む気にもなれませんでした。ですからいつもの様にバッグを桐に渡すと、いつもの様に自室に向かいました。妙に閑散とした屋敷の中は、静かな事を除くと私が出て行く前と、本当に何一つ、変わっていませんでした。
私はそれからすぐに原級留置が確定した小学校上等科を辞める手続きをし、戻ってきた学費で両親とマリの墓を建てました。そうして桐を引き取ってくれる場所を探したのですが、桐がどうしてもと嫌がったので仕方が無く前の部屋に住まわせてあげることにしました。そんな事をしながら一段落ついた私は、梅の咲き始めた頃再び、あの城へ出向いたのです。
城は、かつての姿を思い出すのが困難な程に跡形もなく、ただ冷たい風と焼野原だけが、私を待っていてくれました。私は僅かに焼け残った門に寄り掛かり空を見つめていました。そうして今更ながら、マリと過ごした時間は夢だったのではないかと思いました。
「私は結局、何の為に生きていたのかしら」
暮れかかった西の彼方には江戸の城下が広がっていました。
「尽忠報国の為に」
東の空には、今は亡き荒城に三日月が昇っていました。
こうして私は今に至るのです。さて、この文章を最後まで読んで下さった貴方様を私は信じ幾つか頼み事が御座います。一つは桐の事です。私が居なくなってしまうということは即ち、桐が一人で取り残されてしまうという事です。ですからこの屋敷や土地自体も含め、全財産を使って下さって構いませんので桐が生きていけるよう、取り計らってやって下さい。もしも桐が本当は藤だったならば、彼女はきっと大丈夫です、もうどちらでも構いませんが。二つ目は城です。恐らく、この屋敷の全財産を使うと、桐だけでは有り余ってしまうと思います。その余ったお金であの城のあった焼野原を買い取ってください。お願い致します。
私は何度も道を踏み外しました。しかしその度に誰かが必ず肩を叩いてくれるものだと信じて疑いませんでした。今思ってみると何と愚かだったのでしょう。私の最後の頼みとは、この文章を最後まで読んで下さった貴方様に私と同じ過ちを繰り返さないでほしいということです。それがこの国の為なのです。
私は、私如きが再びこの世に生を賜ることの無いようにと願っております。
柳川 春
明治四三年三月一日
この幸せは 誰にも渡さない
悪魔の娘 マリアにも
荒城の月 六条弥勒 @Miroku_Rokujo
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