三題噺 01
川野 きくこ
01 クッキー、背伸び、ステージ
休むのも仕事よ。そんなに背伸びしなくたっていいの、貴方の演技で、いいのよ。
そんな先生の言葉を、あと一回だけと笑って流した。それじゃあ、あと一回だけと言う言葉を背中で受け止める。
一歩、踏み出す。もう一歩、もう一歩。慣れたものだ。今のわたしは、きっと、世界の誰よりも美しいんじゃないか、そんなことを思った。すいすいと進んで、終わりまで、あとすこし。さて、もう、一、歩。
窓のそとから、しとしと雨のおと。ここはあまりにも静かで、何もない。
真っ白なシーツ、真っ白な天井、外の世界とここを閉ざす為のカーテンも、やっぱり真っ白。
あるのは、花瓶に寂しそうな花が一輪と、大きなクッキーの缶。病院の食事は味気ないだろうからと、友人が持ち込んでくれたものだった。
とにかく退屈だった。退屈な時間の潰し方は一通り試した。例えば、本を読む、好きな音楽を聴く、テレビをつけて興味のないドラマでも見てみる。
でも、身体を動かす事ばかりしてきたわたしは、本を読むことが好きではないし、好きな音楽も聞き飽きるほど聞いてしまった。
似たような番組ばかり流すテレビにももううんざりだったが、ほんの少しでも違いがあるというそれだけの理由で、今日もわたしはテレビに逃げてしまう。
クッキーを片手に、チャンネルを回して、次。チャンネルを回して、次。チャンネルを回して、次、次、次。
ぱっと、作ったような笑顔を貼り付けた女性アナウンサーが映し出された。チャンネルを回していた手を、思わず止める。
「今話題の、あの舞台裏に潜入してみましょう!」
そう言ってアナウンサーが進んでいくのは、見慣れた場所。先日までわたしが居た、その場所そのものだった。
額の上に重ねられるワイングラス、カラフルなボールは手のなかで楽しそうに跳ねている。顔をメイクで飾った道化師は、おどけた動きで観客を笑わせた。誰も彼も楽しそうにしていて、わたしも思わず微笑んでしまう。
暗くなったステージに一筋の光。スポットライトが差して照らし出されたのは、真っ白な衣装に身を包んだ少女。まつげすらも白く飾られた少女は、スポットライトの光を浴びて、きらきらと、なによりも美しく輝いていた。
少女が、一歩、足を踏み出す。一歩、また一歩と、細い綱の上を渡っていく。もう一歩、少女が踏み出したところで、ぶつりとテレビの電源を切った。
あと、すこしだった。わたしのはずだった。
あの衣装を着て、あの光を浴びて、観客の視線を一身に集めてあの綱の上を渡るのは、わたしだった、はずなのに。
厳しい指導にも耐えた。何度も何度も、失敗した。落下する恐怖にも打ち勝って、憧れのステージに立つのは、わたしだった、はずなのに。
あの日。もう一度だけと練習を続けたわたしは、バランスを崩して綱の上から滑り落ちた。一瞬だった。怖くはなかった。だってそれは、当たり前のことだったから。何度も何度も、そうやって失敗してきたから。
怖くはなかった。けれど。ほんのすこしだけ、運が悪かった。落ちた先、ネットに絡まった足がぐいと引っ張られて。
痛みに耐えながら見た世界はぐらんぐらんと揺れていて、いくつもの悲鳴と、ばたばたと慌ただしい足音だけが、今も耳にこびり付いて離れない。
食べかけのクッキーを、よく噛まずに飲み込んだ。くちのなかで砕かれたそれは、あまくなかった。
三題噺 01 川野 きくこ @kawa_mum
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