第2話

 アンジェラ=メタルバイト。

 性別は女、身長一七三センチメートル、体重・スリーサイズ・年齢非公開。

 アメリカ太平洋軍第二十五歩兵師団に一年前着任。それ以前の経歴は非公開。階級は少尉。主要任務はオンリー・フォースとしての活動。オンリー・フォース名、『ヘパイストス』。

 戦歴、なし。

 ……以上が、ぼくの調べ上げる事が出来たオンリー・フォースのすべての情報だ。

 結論から言おう。

「あまりにも少なすぎる」

 ぼくは真夜中の自室で、顔を半分手で覆いながら思わずつぶやいてしまった。

 体重だのスリーサイズだのが非公開になっているのはまだいいとしても、軍に所属する以前の経歴が全く明かされていないというのはどうもおかしい。実際に彼女に会ってみたからわかるが、あれは間違いなくぼくと同年代だ。にもかかわらずそれまで通っていた学校名ぐらいは出ていないとおかしい。

 学校に通っていなかったとしても、それ以上に情報が少なすぎるのだ。

 まるで、意図的に隠されているように。

「……考えすぎか」

 陰謀論に流されるのは思考停止の証拠だ。それに、情報源が全くないわけではない。むしろこれ以上ないぐらいおあつらえ向きなのがある。

 背後のベッドを肩越しに見る。そこには脱ぎ捨てられたままのポロシャツがぽつんと鎮座している。あれに書かれている住所が、それらすべてを解決してくれるに違いない。

 すなわち、少女に――ヘパイストスに直接聞きに行く。それが最も簡単で確実な方法だろう。

 日付はもうすぐ変わろうとしていた。


 週末の昼下がり、ぼくはポロシャツに書き留められた住所へ向かった。ヘパイストスが嘘をついていなければ、そこに彼女がいるはずだった。

 の、だが。

「……工事中のビルしかないんだが」

 そう、そこには鉄筋がむき出しになりコンクリートの床だけが合間合間に挟まれただけの建築物だけがあった。それも上から薄い灰色の布が覆いかぶさっており、細かい部分を観察することは外からでは難しい。

 近くの壁には工事責任者と施工日時が書かれた紙が貼りつけていたが、二年前の日付だった。建設作業中に放棄されたものがそのままどこにも引き継がれずに残されたのだろうか。

 そうだとして、違和感しかないが。

 周りは住宅に囲まれており、今僕が立っているところ以外から入り込むことはできなさそうだ。そして、彼女が住所を間違えたとも思えない。そんな真似をするぐらいなら最初から住所など書かなければよかったのだから。

 中にいる。

 ぼくはフェンスに空いた穴をくぐり中へ足を踏み入れた。もともとは噴水広場にするつもりだったのだろう、真ん中にコンクリートで作られた円形のものがせり出していた。それをよけて歩いていき、一階に入ると、そこもまた殺風景にコンクリートの天地が広がっていた。布のせいか、昼間だというのにやけに薄暗い。

 中を進むと、明らかに工事用具ではないものがいくつか見受けられた。トレーニングジムにありそうなエアロバイクやランニングマシン、ダンベルやら何やらがあちこちに放置されていた。本当にジムそのもので、一階部分だけでも十数種類の機材が無秩序に配置されている。新しそうなものはなく、ところどころの部品が欠けているものは少なくなかった。ダンベルに使われる重りに至っては真っ二つになって捨て置かれていたものさえある。

 そして、最も気になる点は。

「金属が使われていない?」

 ほとんどは強化プラスチックや合成樹脂、石など金属が使われていないものばかりだ。一つ二つならともかく、すべての機材はねじの一つに至るまで金属が存在しなかった。

 この場所は間違いなく、彼女のトレーニング場だろう。

 しかし、なぜ――

「ここで何をしている」

 その時、背後から抑揚のない低い声が響いた。驚いて振り返ると、十歩分ほど離れた底にいたのは小柄な一人の少女だった。長い黒髪を後ろで一つに束ね、青い瞳に目鼻立ちは鋭く刃物のようだ。小さな両手には何も持ってはいなかったが、少女がその気になれば僕はすぐに倒されるだろう。それほど油断なく少女の瞳は輝いていた。

 シャツにプリントされた一つ目のマークを読み取ってから、僕はようやっと言葉が出た。

「サイクロプス?」

 対する少女は、その言葉がさぞ面白いものだったかのように片眉を吊り上げた。

「貴様はあの時の小僧か。客人としては面白いが、状況としては好ましくないな。もう一度問おう、貴様、ここへ何をしに来た」

 尊大に、あくまで自分を上に置いた口調。だが年下の少女であっても僕はあまり違和感を感じなかった。それがサイクロプスという少女なのだろう。

 対応を間違ったらこのメキシコの巨人に何をされるかわからない。慎重に、言葉を選んでから口を開く。

「ヘパイストスから招待された。ここの住所を教えてもらったんだ」

「小娘がか。……そうか。なるほど、どうやらわたしはまたあれに説教をしなければならんということだな」

 面倒くさそうにガリガリと頭を掻くサイクロプス。映像の中でしか見ていなかったオンリー・フォースの人間臭いしぐさを僕が見つめていると、サイクロプスはゆっくりと僕の方に近寄ってきた。

「わたしとて人間だ、くだらないことにいら立ちもする。それで、小娘に会いたいのだろう?」

「あ、ああ」

「ならついて来い。この先だ」

 サイクロプスが前を行き、ぼくはその背中を追う。見た目よりも大きく見えた。歩きながら、黒い髪を馬のたてがみのように揺らしていった。

「ところで貴様、まだ私の名を伝えていなかったな」

「一応僕の方は知ってるんだけど」

「ふん。さすがに詳しいな。では改めて自己紹介しておこう。メキシコ海軍所属、――。オンリー・フォース名、『サイクロプス』。一身上の都合で現在はメキシコ軍を除隊されている。貴様の名は」

「あ、細波修也。よろしく」

 すると、突然サイクロプスが振り返り僕の右手を掴んで強引に握手をしてきた。

「よろしく、な。貴様のおかげで久方ぶりに戦場で煮え湯を飲まされたんだ、感謝しているぞ。ああ全く本当にこんな小僧の計略に引っかかるとはわたしも耄碌したものだ本当に」

「いててててて!」

 ぎりぎりぎりぎり、と万力のような力で締め上げられる。ようやく解放されると、そこにはべったりと赤色が張り付いていた。

「や、やっぱり、怒ってたか」

「怒る? 阿呆なことを言うな、小僧。確かにわたしは負けたが、それで憤慨するほど子供ではない。どのみち退役は目前だったからな、ならば後任に道を示してやらんと恰好がつかん」

 文字にするといかにも涼しげだったが、その実背中側から見ていると髪の毛が猫よろしく総毛立っていた。やっぱりめちゃくちゃ怒っているのは間違いない。

 ただそれは、戦歴がない新人に自分が負けた事ではないだろう。あくまで突然の策略に対応できず土を舐めたこと、その策略が軍人ではない一介の市井の人間からのものだったことが理由のはずだ。

 武人、サイクロプス。

 それがこの少女の二つ名なのだから。

「ところで、一つ聞いてもいいか?」

「断る」

「どうして」

「私が軍を除隊された理由だろう、聞きたいのは。そんなこと教えるわけにはいかんな。最重要機密だ」

 分かっていたことだが、うなだれるしかない。タイミングがタイミングなのでおそらくヘパイストスとの一件が絡んでいるのだろうが、それで除隊までされるのは分からない。非公式な紛争で敗北する程度で彼女の評価に傷がつくとは思えない。

 オンリー・フォースとは現在の世界で最も重要な軍事資源だ。そうやすやすと軍が手放すわけはない。

「この先に小娘はいる。あまり快適な場所ではないが、まあ問題なかろう」

 そんなことを考えていると、いつの間にかビルを抜けて小さな空き地に入っていた。そこにあったのは、まるで物置を横に引き伸ばし、窓を取り付けたような長いプレハブ小屋。ぼくの背丈を半分ほど超える程度の高さで、一番上の窓から明かりが漏れていることから中に誰かがいるらしいことは分かる。

 間違ってもオンリー・フォースが暮らすところではない。

「小娘。お前が話の種にしている小僧を連れてきたぞ……――」

 適当なことを言いながら両開きの扉を開けて中を覗き込んだサイクロプスは、一瞬絶句したのち額を手で覆った。

 僕もサイクロプスの後ろから中をのぞくと、そこにいたのは。

 下着姿で受話器に向かって怒鳴り散らすヘパイストスだった。

「……」

 横に長いプレハブ小屋の一番奥、つまり僕たちと真反対の場所に彼女はいた。長いテーブルとパイプ椅子すう客、そして事務机程度しか物は見当たらなかったが、そのテーブルの上に服が脱ぎ捨てられていた。ヘパイストス自身は飾りっ気の欠片もない白の上下下着姿で事務机に片手をつき、もう片方の手で受話器を掴み電話口の向こうに何事かを叫んでいる。

 話している内容こそ英語で、しかも早口でまくし立てているため何も理解できなかったが、彼女の言葉が切れるたび顔が赤くなっているあたりいい内容ではないことに間違いはなさそうだ。

 そして、今まさに乙女の秘密を覗き見た感がある僕はサイクロプスの頭頂部あたりを見ていった。

「……僕、これで警察に突き出されたりしないよね?」

「するわけあるか阿呆が。あの小娘、一体なにをしているんだ」

 大股でプレハブに乗り込んだサイクロプス。ぼくもそれに続くと、偶然ヘパイストスと目が合った。その顔は驚きと、いくばくかの喜びでよくわからないものになっていた。

「小僧を連れてきた。面倒ごとは早めに終わらせておけ」

 サイクロプスがぼそりとつぶやいた。声が低いせいで、どことなく脅されているようにも聞こえる。その証拠にヘパイストスがやや青い顔でうなずいていた。

 二、三受話器に告げた後、ヘパイストスは電話を切った。それから短くため息をつくと、僕の方に満面の笑みで向き直った。

「ハーイ、シューヤ! 一日ぶりだね。昨日は助けてくれて本当にありがと、それとここにきてくれてうれしい、歓迎するよ!」

「わわ、ちょっと……」

 そのまま思いっきり僕に抱き着いてきた。肌の面積が大きいせいでいようにヘパイストスの感触を意識してしまう。まるで子供のように体温が高く、鼓動が速い。

 中学生以来女子と話したことが片手で数えるほどしかない僕にとって、最高の、じゃない、最悪の拷問といえた。

「べたべた男とくっつくもんじゃない、小娘」

「あだっ!」

「着替えて来い。服は用意しておいた」

 サイクロプスに頭をはたかれたヘパイストスは、しぶしぶテーブルに置かれた着替え――男物のジャージだった――を持って外に向かっていった。すれ違いざま僕にウインクをすると、そのかわいらしいしぐさに胸を掴まれたようになる。

 というより、女の子が外で着替えとかしてていいんだろうか。ああでも、そもそもこんなところのぞく奴なんていないのか。いずれにせよいろいろと問題がある気がするが、それを僕が指摘するのも果たしてどうなんだろうだってもう下着見ちゃってるし。

 と、そこで横合いから頬に何かを当てられた。

「それで冷ませ」

「え?」

「顔が熟れたトマトみたいで見ておれん。あれに惚れるのは結構だがな、それを顔に出すなうっとうしい。ガキの初恋を見ているようだ」

 そこに至って初めて、ぼくは頬に当てられたのが水にぬらされたフェイスタオルだと知ったのだった。

 見られていた。

 当然のことに今更ながら顔が赤くなるのを感じながら、ぼくはタオルを受け取って頬にあてた。

「サイクロプスは、平気なんだな。って、同性なんだから普通か」

「まあな。昔、わたしの家の近くに住んでいたクソガキと根は同じのように思えてならない。あれも大概だが、小娘はわたしより年上なのだから余計質が悪い。わたしはあれの母親ではないというのに……」

 ぶつぶつといいながら山になっているヘパイストスが脱いだ服をたたんでいく。その手つきは見た目のわりにこなれていて、本当に母親のようだ。

「軍にいたころはわたしが新人の教育係をしていたことも多かったんだよ」

「オンリー・フォースの?」

「そうだ。軍人あがりはともかく、一般市民からのスカウトでオンリー・フォースになった連中は一人だと本当に何もできなかった。そういうときにこうして身の回りのことをやらなければあいつらはすぐやめてしまうんだ、面倒だったらありゃしない」

「……失礼なのは承知で聞きたいんだけど、君今何歳?」

「今年で十二だが、それがどうした?」

 軽くめまいがした。

「おい、大丈夫か」

「ああうん……ちょっと、こんな年下の子にイケメン度で負けてるっていう事実に自分を呪ってるだけだから、気にしないで……」

「?」

 怪訝そうに眉をひそめるサイクロプスに背中を支えてもらいながら僕は顔を覆った。何だこのカッコよさ。死にたい。

 それと同じぐらい疑問に思えたのは、やはりサイクロプスの年齢だ。今年で十二歳というのは、世界に千人程度いるとされるオンリー・フォースの中でも最も若いうちに入るだろう。逆に言うとメキシコ軍は、それほどに小さい少女を、最低でも初めて公式『戦争』に参戦した二年前から配属させているということだ。

 齢にして十歳。それも配属後すぐに参戦という、極めて甘く見積もった結果だ。これだけでもメキシコ軍の事情が透けて見える。

 そしてサイクロプスも特に気負った様子は見受けられない。自分のように年若い人間が軍属でいても普通だと思っているのか、あるいはそう思わされたか。いずれにせよ、オンリー・フォースとはそういうものなのだ。

 公式に発表されている中で最も若いオンリー・フォースは八歳。彼女は遺伝子操作によって誕生した生来のオンリー・フォースで、三年前に死んだ。

 ではサイクロプスは――?

「おまたせー、ってどうしたのシューヤ? 初めてホラー映画見た子供みたいになってるけど」

「お前があまりにもひどい生活習慣だったから愕然としてるんだよ」

「エッ!? アタシいつもこんな感じなんだけど!?」

 そこは否定しないのか、と僕は小さく笑った。

「ほら、しっかり立て。わたしに介抱してもらいに来たんではないだろう」

「あ、ああ」

 顔の覆いを外すと、そこに立っていたのはどこぞの中学校から拝借してきたのかという全身黒のジャージを身にまとったヘパイストスだった。

 しばしその姿を眺めたのち、ぼくはできる限り表情筋を笑顔に形作ってから口を開いた。

「クッソださいな」

「うるさいなあ! お金がないんだから仕方ないでしょ!」

 本当の炎のように朱色の髪を逆立てた。まるで猫のようである。

「まったく。それよりも、よく来たね。昨日の今日でアンタも疲れてたでしょうに」

「君ほどじゃない。傷は大丈夫なのか?」

「だいぶ治ったよ。オンリー・フォースの治癒力もなかなか捨てたもんじゃないけど、サイちゃんがパッパッて処置してくれたからねー」

「サイちゃん?」

「そう、サイちゃん。サイクロプスって長いしね」

 かたわらを振り向くと、少女はあきれ顔で「わたしは許可していないがな」とだけ言った。

「まあ座ってよ。何が飲みたい? コーラ? オレンジジュース?」

「あ、お構いなく」

 ヘパイストスは事務机の陰からコップを三杯と橙色の液体が半分ほど入った二リットルのペットボトルを持ってきてテーブルに置いた。なみなみと注いだそれを持ち上げると、黒ジャージの少女は高らかに声を上げる。

「それじゃあ、再会を祝して。かんぱーい!」

「か、かんぱーい」

「……乾杯」

 チン、とガラスを打ち合わせる音がプレハブ小屋の中に響いた。

 ヘパイストスは一気にコップの中のジュースを飲み干すと、見ているこっちのお腹が膨れそうな笑顔を見せた。

「ぷはー! やっぱトレーニングした後の冷えたジュースは最高だわ! もう一杯、っと」

「トレーニング、だって?」

 ぼくは思わずコップを傾ける手を止めて聞き返してしまった。

 意外と知られていないことだが、実はオンリー・フォースに筋力向上の必要性はない。それは彼らの特殊性が大きく関係している。

「オンリー・フォースはその『調整』の過程で、筋力をはじめとした肉体サイズが完全に固定されているはずだ。それはどれだけ食べても飲んでも脂肪が一切つかずに理想の状態が保てる代わりに、『どれだけ体を鍛えようと筋肉がつくことはない』というデメリットがつきまとう。だからオンリー・フォースは自分の能力の訓練以外でトレーニングは行わないはずだけど」

「それはあの人たちが、筋トレは必要ないって思っているからでしょ」

 二杯目を軽々と飲み干してヘパイストスは言う。

「ぷは。別にアタシはわざわざない筋肉を強くしたいわけじゃないよ。これは、そう、何というのかな。自己満足のようなものだよ」

「自己満足?」

「そ。アスリートが最後に頼りにするのは、『自分はこれだけ練習をやってきた』『だから負けない、負けたくない』っていう自信でしょう。それは普段からの練習の積み重ねと、それを乗り越えた自分への誇りに他ならない。そういうのは、別に『戦争』でも同じだと思うんだ」

 ヘパイストスはそこでぼくの後ろの壁の方を見やった。彼女の視線の先にはあの廃ビルと、そして数多くのトレーニング器具がある。

「たとえ無駄でも、ううん、無駄だからこそ積み重ねた努力は自信になる。ほかの人は誰もやらないことをやっていることは自分の誇りになる。だからこうしてアタシはこの国でも戦い続けられるんだ」

 その言葉に僕はハッとした。それは彼女のひねくれた信条ではなく、彼女の置かれた境遇についてだ。

 ヘパイストスは、オンリー・フォースでありながら、そして一軍人でありながらこの国に単身派遣された。彼女の『お金がない』という発言から、母国から支給される滞在資金はギリギリなのだろう。オンリー・フォースという、使いようによっては無限の富を生み出す文字通りの金の成る木でありながら。

 それは派遣などという生易しい言葉では片づけられない。放逐、追放と称したほうがまだ違和感は少ない。ヘパイストスの体に埋め込まれた最先端技術を彼女の母国は手放した。どこかで監視はしているだろうが、仮想敵国に身柄を確保されても救出作戦は発動されないだろう。

 これは、リードを外されて北極に置き去りにされた飼い犬と一緒だ。自力で飼い主を見つけ出さなければ、死ぬ。なまじ見つけ出したとしても、前提から判断される結論は当然、死だ。

 軍はなにを考えているのだろう。こんな少女一人を異国に放置して得られる利益は何もない。最初にオンリー・フォースとして育成を始めたのは間違いなく軍の大人たちなのに、その責任をとろうともしていない。

 ヘパイストスは、必死にもがいている。誰もが無駄と蔑むことにすら価値を見出し、再起を狙っている。

 でも、その階段の先に安住の地があるとは誰も言っていないのだ。

 想像するだけで吐き気がするような話だ。なにもかもが、ほとんどの確率で報われないことが分かっている。それを一番わかっているのは他ならないヘパイストス自身だ。

 なら、僕は――

「――シューヤ?」

「え、うえっ!?」

 目の前にいきなりヘパイストスの顔が移りこみ、僕は思わず椅子から転げ落ちそうなぐらいのけぞった。危うく体勢を立て直したものの、背中には冷や汗の感触がじっとりと残っていた。

「どうしたの? なんか怖い顔して黙り込んだから心配したんだよ」

「え、あ、いや、なんでもない。なんでもないぞ」

「……ひょっとして、アタシの下着姿思い出してコーフンしてたとか?」

「は、ば、はあっ!? な、なんでそんなこと……!」

「だあって、ねえ? アタシと初めて会った時もビビらずに作戦を立ててたアンタが黙り込むなんて、よほどのことがあったんだろうと思ってねえ」

 その顔はニヨニヨニヤニヤと、明らかに僕の反応を見て楽しんでいた。彼女の黒ジャージに少し前の白い下着姿が貼りつけられる感覚がした。

小悪魔め、と僕は温度が上がった頭の中で毒づいた。

「別に、君がどんな格好でいようと僕は問題ないさ。それよりも、だ」

「うん?」

「僕たちが最初にここに来た時、何か電話越しに怒鳴ってただろう。あれは何だったんだ?」

 その言葉がまるで糸を断ち切ったかのように、ヘパイストスの表情が明確に軋んだ。

 具体的には、さっきまでのニヤニヤ笑顔が無表情と苦笑の中間ぐらいの形で固まったのだ。

 もちろん、これが分かっていなかったわけではない。ヘパイストスは僕たち一般人とは違い軍属、それもオンリー・フォースという極めて特殊性が高い役職についている。しかも彼女は日本に来てまだ日が浅い。そんな状況で彼女に電話をかけるような相手はおのずと限られてくる。

 それでも知りたかった。ヘパイストスのあの態度から決して良いことではないのだろうが、彼女の助けになれることならばそれでも協力したかった。

「………………ん~~~~~~~~~~~~~~……」

 本当に頭を抱えた人間を僕は初めて見た。

 うんうんと唸ること数回、ようやく顔を上げたヘパイストスは本当に困り切った表情で僕のほうを見た。思わず笑ってしまう。どうせ一般人の僕に言えるようなことではないのに、話してしまおうか真剣に迷っている。それだけでも、彼女が僕をどう思っているかが透けて見えていた。

「サイちゃん、どうしようこれ……」

「お前が言おうとしているそれは、軍の機密情報か。それともクソの役にも立たないような世間話の類かどっちだ」

「機密情報……」

「ならば言ってしまえ」

「え?」

 思わず僕の方が疑問の声を先にあげてしまった。ヘパイストスが機密情報と即答したようなことなのに、サイクロプスがあっさりと許可してしまうのはあまりに変だ。現代において情報は何よりの力に変わる。それをみすみす渡すのは、

「弾が入った拳銃を相手に渡すようなもの、か。貴様はそれぐらいのことを小娘に要求したのだがな」

「あ、いや……」

 サイクロプスは座っていても僕より頭一つ分低いところからじろりと見上げた。

「あまり他人を困らせるなよ、小僧。特に自分にまっとうな行為を向けてくれる者には。他人が他人へ向ける信頼は、裏切りと挑発によって簡単に壊れることが多い」

「……悪かった」

 素直に謝る。ヘパイストスを試すような言い方になってしまったのは事実だし、結局のところ、僕の考えはただの独りよがりにすぎないからだ。

 ヘパイストスは小さく首を振った。

「いいよ。というか、どのみちみんな分かることだったし、ここでフライングさせちゃっても大丈夫だと思う」

「言ってくれるのか」

「まあね。でもこれ、まだ関係者オンリーの情報だからどこにも流しちゃだめだよ。協会あたりに見つかったら何されるかわからないし」

 協会とは、国際親善戦争管理統治協会、つまるところ『戦争』の運営を一手に担う国際機関のことだ。途方もない規模のマネーゲームをすべてこの協会が管理しているので、へたな小国の政府より権力を持っている。

 冗談めかしたヘパイストスの言葉に半ば本気で頷いて、僕は先を促した。

「よろしい。昨日の夜、軍のオンリー・フォース関係者に協会から一斉メールが送信されたの。アタシのところにも来たんだけど、それが『新規国際親善戦争開催について』っていうのだったんだ」

「新規……新しく『戦争』を開催するってことか?」

 公式の『戦争』、特に多国間で開催されるものについてはスポーツの世界選手権やオリンピックのように日程や期間、開催場所が決まっているものがほとんどだ。それは各国の利害や対立関係、軍事的均衡を考慮しており、『戦争』が商業化された三十年前に現在開催されているもののほぼすべてが決定され、以後変化はないに等しい。その変化といっても『戦争』が開催されなくなり消滅したもので、増えることはなかったのだ。

 新しい『戦争』の開催。それは三十年ぶりに国家同士の利害が一致し、世界規模で金が動くことを意味していた。だがそれは当然疑問を伴う。

「いままで『戦争』が新しく行われなかったのは、複雑化する世界情勢のせいで交渉自体が出来なかったからのはずだ。それがどうしてこんな時期に? 『ラグナロク』も『カタストロフ』もこの後控えているだろう」

「その説明はあとでね。本当に面白いのはここから。これを見て頂戴」

「なんだこれ。世界地図……赤い丸がついてる。……まさかッ!?」

「その通り。これは次に開催される新しい『戦争』に参加するであろう国に印をつけたもの。アジア圏、中東、統一欧州連合、アフリカ、オセアニア、そして我がアメリカをはじめとした南北アメリカ大陸。地球上に存在するすべての勢力が一堂に会する、文字通りの『世界戦争』だよ」

 腕を組んで微笑さえ浮かべるヘパイストスの前、テーブルに広げられたのはアメリカを中心にした世界地図。そこにはあらゆる地域、あらゆる勢力、あらゆる地域連合に赤い丸が殴り書きされていた。今までは地域ごとに開催される『戦争』が一般的であり、他の勢力と合同で行うことはなく、むしろタブー視されていたほどだ。それは経済的理由よりもむしろ、政治的な理由の方が強い。

 だがこれは常軌を逸している。なぜなら、

「どうして『ソ連が参戦している』? アメリカが参戦する『戦争』にはまず東側勢力は参戦しない。それがどうして親玉自らタブーを破ってきているんだ。政治的な建前を無視できるほどの理由があったとでも?」

「そこについてはアタシもよくわからないんだけどね。東側っつっても経済は資本主義制を導入するところは結構増えているから微妙なところだけど、政治は未だに社会主義、ゴリゴリの一党独裁ばっかりだし。そんなとこが西側と一緒に『戦争』やるってのが首をひねるとこではあるけど……サイちゃん、何か知らない?」

「……そうだな。東側がどうとかいうのはわたしにも見当がつかんが、アメリカが、いや、北米とラテンアメリカ全体がますます戦争遊戯(ウォ―ゲーム)に傾いているのは肌でわかる。わたしが軍を追い出されたのもそれが理由だろう。あのあたりはますます『戦争』を見世物にする動きが強まっている。メディアや軍産複合体が資金をため込んで世界規模で影響力を強め、人権団体からの批判を握りつぶして世論を動かしているんだ。『戦争』を容認し、私たちを取り囲むコロッセオを建設しているんだろう。その動きが西欧、北欧あたりにも伝播している可能性はある」

「この一件は、企業が発端となっている。そう思っているのか?」

 サイクロプスはゆっくりとうなずいた。その緩慢な動きにはどことなく未練がましいものも含まれていそうで、僕はどうしてか落ち着かない気持ちになった。

 企業が『戦争』を作ろうとしている。それは三十年前の世界情勢では到底考えられないことだったに違いない。しかし今でなら理解できる。情報ネットワークが地球を覆いつくし、金は電子の渦の中で空気のようにあちこちへ飛び交っている。物流は海も陸も、空でさえも関係なくその版図を広げ、ヒトはその中で必死に世界の流れに乗り遅れまいともがく。

 その情報も、金も、物流も支配するのが企業だ。もはやその力は国家をしのぎ、影響力は海を割らんばかりだ。その権力はついに、政治的対立さえも押し流すまでになったのか。

「そこまで単純じゃないと思うけどね」

 ヘパイストスは僕の顔を見ると、皮肉げに笑っていった。

「西も東も、国家って言われるものはすべて財政難になっているのが現状だよ。先進国は物的な豊かさが極限に達したことで経済が遅滞、後進国はそもそも発展の糸口がつかめない。そんな中で元気なのはアタシたちオンリー・フォースをダシにして金を蓄える企業だけ。おこぼれにあずかろうと必死なのはそうだろうけど、たぶんそれだけじゃないさ」

「どういうことだ?」

「まず前提として、オンリー・フォースは各々の国軍に所属している。そしてメディアだの軍産複合体だのは、アタシたちオンリー・フォースをテレビやラジオで独占放送する権利だとか兵器、軍需品を軍に買わせることで利益を得ているわけだ。これだけだと企業のほうだけがいい思いをしているように見えるけれど、実際はむしろ逆で、軍は企業に対して軍需品や放送権を『買ってやっている』って立場をとってる。オンリー・フォースがいるから企業はカネを稼げるわけで、それにはアタシたちの上司である軍の目が常に光っている。軍が企業を見限れば、企業はたちまち大口の顧客を失うんだよ」

「そうか、今はオンリー・フォースが戦争ビジネスの主軸だ。それを失うことは、旅行会社が修学旅行の取引先に逃げられるのと同じで、経営そのものに打撃が行く」

「企業は軍の意向に従わざるをえなくなる、否が応でもな。そして多少不利な条件で契約を結んだとしてもそれ以上の利益がいずれ望めるのであればニコニコ笑顔で軍担当者の手を握るだろうさ。だが今はフリーの顧客などいない。ならばよそから奪うしかない……つまるところこの新しい『戦争』は、軍と企業双方がより良い取引相手を探すための見合い会場のような意味合いが強いだろうな」

 『戦争』は、どこまで行こうと巨額の金が当たり前のように動き回る究極のマネーゲームだ。その思惑は個人の意思や、一つの集団をはるかに超え、多くの人間の欲望が見えざる手のように機能し、利益と損失を天の恵みのごとくもたらす。

 そこに、当事者であるはずのオンリー・フォースの思いが介在する余裕など微塵もない。

「んでもって」

 目の前に座るヘパイストスは軽い調子でつらつらと語る。

「たぶん戦争形式はトーナメント制でしょ。企業はより強いオンリー・フォースを持つ軍につきたいから、勝った方が負けた方についている企業を結果的に根こそぎ引っ張ってこれるシステムになるはず。いや、それだと負けた方が素寒貧になっちゃうから駄目か。総当たり制になるかね。まあいずれにせよ、世界戦争かと思いきや実態は軍が命がけの殴り合いをする生存競争だったわけだ。おお、おっかない」

 わざとらしく自分の肩を抱いて震える真似をしてみせるヘパイストスは、その実恐ろしいとはつゆほどにも思っていないようだった。おどけた口元は獰猛に避け、薄い青の瞳は煌々と燃え盛っている。

 だから僕も芝居めかして溜息をついた。

「そんな顔して言われても説得力ないぞ」

「ふっふふ。だろうね。でもこれはアタシにとって初めての公式『戦争』になるかもしれないんだ。このメールが送られてるってことは、少なくとも可能性は与えられてるってことだからさ。本国がどんな決定を下すかはまだわからないけれど、予選ぐらいは出させてくれるでしょう。公式には残らないでも、アタシは実績を作ったからね」

 思いがけずヘパイストスの隣を見ると、コップを傾けていた武人はガラス越しに目を細めた。鋭い眼光が、何も聞くなとだけ告げていた。

 家のパソコンで見たヘパイストスのデータを思い出す。戦績は全くの白紙、情報は穴だらけ。それは彼女がいまだ軍にとっては機密扱い程度にしかなっていないことの何よりの証だった。本当の強者のデータは穴などない。すでに各国の諜報部門に暴かれているからだ。そしてそれを気にも留めず『戦争』で勝ち続けるからこそ強者なのだ。

 であればこれは、ヘパイストスにとってまさしく登竜門。ここで結果を残すことが彼女にとっては最大の任務になってくるだろう。

 だからこそ、気になった。

「……やっぱり、僕がこんなこと聞いてしまって大丈夫だったのか?」

「ん?」

「今までの話はどう考えたって最重要機密だろう。いずれ明かされるにしたって、もし僕が敵国の諜報員だったとしたら」

「アンタ、スパイなの?」

 言葉に詰まる。ヘパイストスは薄く笑みを浮かべるだけで、ほんの数秒程度何も言うことはなかった。それで十分だとでもいうように。

「違うでしょう。アンタがスパイなら、あそこでアタシを助けてはくれなかった。本国と繋がろうにもアタシじゃパイプが弱すぎるからね。でもアンタは助けてくれた、何の見返りも求めずに。だからこうして招待したんだから」

 少女は立ち上がると、ゆっくりとテーブルに沿って歩き出した。

「あたしは何も知らなかった。『戦争』だ何だって言ったって、アタシに戦略を教えてくれる人なんていなかった。だからがむしゃらに突っ込んでいって、返り討ちになって、ぼろぼろの体で帰ってくるしかできなかった。いつしかそんなアタシに愛想をつかして、仲間のオンリー・フォースも、周りの人も離れていって……気がついたら誰もいなくなってた。そうして、アタシは本国からも追い出されて、そしてハワイからものけ者にされた。いらない子だったんだよ、アタシは」

 結果を出さなくちゃいけなかったんだ、と鍛冶の神の名を冠する少女はつぶやく。

「帰りたかった。だから必死になってサイちゃんを見つけ出して、紛争を吹っ掛けて。それでもかないっこなかった。もうだめだー、って思った時に、アンタが来てくれた」

「……まるで王子様だな」

「ふっふふ、でも実際そう見えたよ。アタシじゃ考えもつかなかったことを、アンタは当たり前のように持ち掛けてきた。そして、アタシを当たり前みたいに勝たせた。それは王子様だって無理なことだったよ」

 少女はゆっくりと僕の方に向かって歩を進める。その足は迷いなく、しっかりとしていた。

「だから、シューヤ。アタシと一緒に戦ってほしい」

 どこまでも真面目な表情で、右手を差し出してきた。

「シューヤとなら、勝てる。アタシが絶対に、アンタを見たこともないような世界に連れていくから、信じてついてきてほしいんだ。……頼む」

 僕は視線を落とし、目の前の右手を見据えた。昨日の傷がいまだ癒えておらず、まともなところがない。切り裂かれ打撲痕が残る指先は、それでもほっそりと美しく伸びていた。

 彼女は、一人で戦ってきた。

 この手を何度、悔しさのために握りしめてきたのか。昨日知り合ったばかりの僕には到底与り知れぬ話だ。もしかしたら一生分かりあうことなどできないかもしれない。

 それでも。

「それは、こっちのセリフだ」

 僕は、立ち上がって目線の高さを合わせる。薄いブルーの瞳がまっすぐ僕をとらえたが、そこには素人目にもわかるほど迷いと不安が波のように揺らめいていた。

「僕はずっと、オンリー・フォースにあこがれていた。届かない理想だってわかっていたけど、いつかオンリー・フォースを支えて戦場に送り出せるような仕事に就きたいって、そう思っていた。結局、家にこもって動画とネットにふけるようなオタクになっちゃったけどさ」

「オタクは好きだよ。前にも言ったけど」

「ああ。だから……その、なんていえばいいのかな。そう、飾らずに言えば、君の言葉は、願ってもないチャンスなわけだ。ぼくの夢がかなう為の特急切符みたいな。これを掴まないで、何を掴むっていうんだ? っていうか」

「それって……」

 ヘパイストスの顔が歪む。それは笑みをだんだんと形作っていくものの、まだストッパーがかかっていたようだった。

 だから、外してやる。

「僕にも、君の夢を叶える手伝いをさせてほしい。君が望むのなら、僕は持てるすべてを使って目の前のオンリー・フォースを倒す策を絞り出す。だから……のわっ!?」

 言いかけて、突然目の前からヘパイストスの姿が消えた。

「やったあああああああッ!! ありがとう、本当にありがとう! よかった、これで本当に何とかなるかもしれない! アンタが……ううん、シューヤがいればアタシは絶対に勝てる、間違いない! 本当に、感謝してもし足りないぐらいだよ!」

「わ、分かった、分かったから、ちょっと、離れて! 僕あんまりこういうの慣れてなくて……!」

「どぎまぎするな、童貞か」

「童貞だよ! って、何言わせてんの!?」

 前門の感極まって抱き着いて離れないヘパイストス、後門の絶対零度の視線で背中を刺してくるサイクロプス。特にサイクロプスは声色だけで冷たさ全開だったので後ろが怖くて振り返れない。なんでそこまで怒られるのが理解できない……ああ、ひょっとして妹代わりのヘパイストスが取られたから――

「いってえ!?」

「なに阿呆なことを考えてる、小僧」

 それでもヘパイストスはしっかりと、僕を離さないでずっと、ありがとう、と叫んでいた。

 この状況にようやく変化が訪れたのは、ヘパイストスが赤い目をして僕から離れてからのことだった。

 彼女は目のあたりを何度もこすってから、顔全体に喜色をたたえていった。

「いやー、本当に、何度も言うけどありがとう。まさかオーケーしてくれるなんて思わなくてさ。ずっと断られること前提で話してた」

「だろうな。だから最初、身の上話から始めてたんだろ。断りづらいように雰囲気を作って、少しでも可能性を底上げするために」

「あれ、ばれた?」

 ちょっと舌を出しておどけて見せたが、彼女もそこまで計算していたかは微妙なところだ。あの話し方からしておそらく嘘ではないだろうし、また本当だと信じるに足る焦燥感と気迫は昨日散々感じ取っていた。

 それに、どのような背景が彼女にあろうと、あんな誘われ方をして断れる人間がこの地球上にどれだけいるのだろう? ヘパイストスは決して顔立ちが悪いわけではない。むしろいい方だ。そんな彼女が真剣な顔で、瞳を潤ませながら、一緒に戦ってほしいなどといわれた日には、たとえ『戦争』オタクでなくても首を縦に振ってしまうことだろう。

「あのさ、シューヤ」

「ん?」

「その……大丈夫、なんだよね? さっきの言葉、信じていい、よね?」

 ほら。もう断れなくなった。

「ああ。どっちみち長い夏休みで退屈してたところなんだ。世界戦争、だったな。僕にできることがあるなら手を貸すよ」

 ただの人間である僕には、人類の限界点に辿り着いたオンリー・フォースと同じ土俵には立てない。

 けれど僕は、オンリー・フォースであるヘパイストスが求める戦略を提供する事が出来る。

 互いに力を貸し、戦果を分かち合う戦略的パートナー。

 かつて実際に存在し、けれど今はオンリー・フォース自身の進歩によって絶滅した……『バディ』と呼ばれる人間とオンリー・フォースのタッグだ。

「よし! それじゃあ決まりだね」

 すると、ヘパイストスは事務机のほうに行くと、何やらごそごそとやり始めた。しばらくして取り出したものは、

「はいこれ、『戦争』のルールブック。大体二千ページぐらいあるけど全部覚えてね」

「え」

「あとこれは、『戦争』で起こった実際の訴訟だとかマジもんの紛争のときの経緯やら判例をまとめたやつ。ルールブックよりかはページ少ないけどこれも全部覚えて、抗議するときに必要になってくるから」

「ちょ」

「あとこれとこれとこれとこれ、各大陸に所属するオンリー・フォースの詳細なスペックと戦歴。アタシが調べられる範囲のことだけだけど、公式動画と推測だけの知識よりはずっと役立つはずだから。あとこれは――」

「ちょ、ちょっと待て! こんな量の資料、いっぺんに渡してくるなよ!」

 どかどかと僕の目の前に置かれた辞書かと見紛うほどの本や分厚いファイルを指差すと、少女はなおも取り出そうとする手を止めて、きょとんとした顔をした。

「なんで?」

「僕が興奮する。覚えるのは構わないが、それで世界戦争のときに間に合わなくなっても責任はとれないからな」

 正直に本音はさらけ出した。

 ヘパイストスは一瞬目を丸くして、ぷーっ、と思いきり吹き出した。

「あっははははははは! やっぱりアンタ面白い。選んで正解だった」

「馬鹿にしてないか」

「ぜんぜん? あと、これ。サインして」

 渡されたのは、目の前の雑然とした山とは違い簡素な一枚の紙きれだった。英語で書かれたそれは読む事が出来ないわけではなかったが、専門用語のせいで解読は難しかった。

 ただ、なんとなく極めて重要な書類であることだけは分かった。

 だからこそ、翻訳をヘパイストスに頼むのは気が引けた。

「あー……っとお」

「ん? どうしたの」

「いや、その……」

「アンタを正式に『バディ』にするために必要な書類なんだから、サインしてくれないと一週間後の世界戦争に間に合わなくなるんだけど。――あ、もしかしてアタシがあんたを使いつぶそうとわざと困らそうとしてるって思ってんならそれ笑えない冗談だからやめてよ、アタシそんなに底意地の悪い人間じゃないし」

「え、そうなのか?」

「アンタねえ……」

 ぶはー、と音が響くほど大きなため息をつかれた。

「もしそうならそもそもサインなんてさせないよ。ちゃんとお給料も出すんだから」

「給料?」

「そ。みんな忘れかけてるけどアタシたちは一応軍人……それも特殊性が強いから払われるお金は普通より多いんだよ。それを補佐するんだからお給料もそれなりは多いよ。ちゃんと確認してみ?」

 冷静に考えれば、ヘパイストスが僕をこの流れで陥れようとするのはおかしい話だった。無駄に疑いを持ったことに少しだけバツが悪くなりながら紙面に目を落とす。

 そこにあった、ゼロが六個ほど並んだあとにヘパイストスの国の通貨単位が書かれていることを確認して、僕は冷静に頭を働かせようとした。

「……やっぱ冗談じゃ」

「違うっつの」

 無理でした。

 ……ではなく、これが意味するところを(もちろん、この通りの金額が支払われるということを前提に)考えると、ヘパイストスとの『バディ』がそれほど意味を持つということなのか、あるいはそうなるようにとの期待値なのか。

 おそらく後者だろう。

「分かったよ。金で判断したわけじゃないが、これに見合うぐらいの働きはしてみせる」

「期待してるね」

 固く握手をした時、彼女の手のひらは溶かした鉄のように熱かった。

 それともこの熱さは、僕のものだったのだろうか。

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やがて昇る半分の月、沈むは欠けた太陽 @kaede-maple

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