エピローグ
エピローグ 家族
唯一の出入り口である木製扉以外には窓一つ無い、簡素な造りの部屋。その簡素さには似つかわしくない、落ち着いた色合いが高級感を漂わせる天蓋付きのキングサイズベッドが一床、部屋の中央にどっしりと鎮座する。
ベッドのヘッドボード上には、二分目まで水が注がれた切子細工のグラスが置かれ、その水面に浮かべられたキャンドルの淡いオレンジ色の光がゆらゆらと、室内を仄明るく照らし出していた。
白い清潔なシーツの敷かれたベッドの上には、下着姿の男が一人。クッション代わりの枕を背にして上体を軽く起こし、キャンドルの薄明かりを頼りにハードカバーの書籍を静かに読んでいるその男は、髭の巨漢アルトゥール。人並み外れて大きな彼の手に納められると、ハードカバーの本ですらも、文庫本かと見まがいかねないほど小さく見える。
ふと近付いて来る足音に気付いたアルトゥールは、読んでいたページに栞を挟むと、ハードカバーの本を枕元にそっと置いた。その直後、木製扉が小さくきいと音を鳴らして開き、純白のバスローブを身に纏った女が独り入室する。女の手には、ベッドのヘッドボード上に置かれているのと同じ、水面に漂うキャンドルの浮いた切子細工のグラス。
「あら、待っていてくれたのね、アルトゥール。先に寝ていても良かったのに」
澄んだ声でそう囁いた女は、部屋の隅に置かれた小さな椅子の上にバスローブを脱ぎ捨てるとベッドに近付き、手にしたグラスを既に置いてあるグラスの隣に並べて置いた。二つのキャンドルが生み出す淡い光がゆらゆらと交錯するように揺れ、一糸纏わぬ女の妖艶で豊満な肢体を嘗め回す。
その女の体毛は、腰まで伸びた艶やかな頭髪から眉毛に睫毛、なだらかな恥丘を覆う陰毛に至るまでもが、青味を帯びるほどの純白一色。瑞々しくきめ細かい柔肌も透き通るかのように白く、僅かに色素が沈着した乳頭と性器の色も薄い。
一見するとその姿は、情欲と肉欲、そして神々しさを兼ね備える理想の女体を象った石膏像と見まがうばかり。そんな純白色の洪水の中で、微かな笑みを浮かべた相貌の三点、両の眼と唇だけが鮮血を思わせる紅に輝き、女が決して作り物ではない生身の存在である事をささやかに主張していた。
「ええ、お待ちしていましたよ、
髭の巨漢アルトゥールが、自分よりも若い外観を保つ母親の背に向けて応えた。彼は一呼吸置いてから、更に続ける。
「既にご存知でしょうが、今夜もまた一人、人間の手によって
「そう……。むしろイライダに身を引かせてから今日まで、良く我慢していた方じゃないかしら?」
アルトゥールに背を向けたまま、エカテリーナはさほど興味の無い風を装って応えた。だが数世紀に渡っての付き合いになる息子に、それは通用しない。
「分かっているのでしょう、
息子の投げかけた言葉に、母は無言を返事とした。ヘッドボード上に置かれた水差しから水を一杯、備え付けのグラスに注ぐエカテリーナ。彼女はそれを静かに飲み下し、喉を潤す。
「……もうすぐ夜が明けるわ。今日はもう寝ましょ」
暫しの間を置いてからそう呟いたエカテリーナは、ベッドの上に身を投げ出し、アルトゥールは無言で母に腕枕を差し出す。それはもはや互いに言葉を必要としない、阿吽の呼吸。
「ねえ、アルトゥール。どうして血を分けた家族なのに、争わなくちゃいけないのかしらね?」
母の問いに、息子は答える。
「家族だからこそですよ、
「そうね、それはとても悲しい事ね。……でも誰よりも喜びを分かち合える事も、忘れてはならないわ」
少し悲しげな表情を浮かべたエカテリーナの肩を、アルトゥールは優しく抱いた。
「今夜は、故郷の言葉で歌う事にするわね、アルトゥール」
「どうぞ、
互いに眼を閉じると、母は息子に歌いかける。今は遠い、故郷の子守唄を。
Спи, младенец мой прекрасный,
Баюшки-баю.
Тихо смотрит месяц ясный
В колыбель твою.
Стану сказывать я сказки,
Песенку спою;
Ты ж дремли, закрывши глазки,
Баюшки-баю.
了
太陽のノスフェラトゥ 大竹久和 @hisakaz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます