燃焼の反応式

_____猪八戒、大宴に会し曰く

「大兄よ、さぁ帯なんか緩めて、喰らえるだけ喰らっちまおうぜ。

定めしこの先はこんなご馳走にゃあ、ありつけやしねえだろうしよ」

        『西遊記』より



「っしゃぁぁぁっく!んぐぬぁぁぁ!」

 俺は顎を胸につかんばかりにガバリと開けて、ゲロを吐くような姿勢で大きな欠伸あくびをした。つられて明けがらすがクァー、カァーとどこか遠くでのどかに鳴いている。

 次に、下げた頭を仰け反らせ、両手を振り上げ力一杯で伸びをする。左手に握っていたスマートフォンがみしみしと軋んだ。

 今年のはじめから胸毛がもじゃもじゃ生えてきてむず痒い喉下から腹の上にかけてざっくり掻きむしり、刺激でだんだんに目覚めてきた意識を遠くに向ける。

 朝ぼらけの街にはトラックばかりが走っていた。2分に一台は通り過ぎるそれらの、高速に上ったり下ってきたりする振動が、素足の裏に伝わってくる。

 まるで街への別れの挨拶か、寝ぼける人々への何かの報せのようだ。

 俺、ほしあきら14歳、江東区東雲第三中学校の第二学年に在籍する豚人は、ゆっくり昇ろうとする八月の朝陽に目を細めた。

 煌めく光の粒子を含んだ空気が夜の闇の吹き溜まりを掃除する。自室のベランダは三階だが眺めはいい。

 ビルの谷間の隅から、タワー型マンションの曲がり角から、公園の植え込みから影が追いやられ、次第に明るくなってきた。東京は江東区東雲の、いつもの朝だ。

 手にしたスマフォは5:12を示している。夏でもこの時間帯は若干涼しく、街路樹の放つ新鮮な酸素が爽やかだ。

 こんなに朝早く起きてしまったのは、眠っていられなかったせいだ。暑がりなのでクーラーをギンギンに利かせた自室のベッドから歩いてきたばかりなのに、身体が火照り、頭は冴え、三白眼は血行も良くらんらんと澄んでいる。

 俺はベランダにもたれ、豚人の太短いコンセント型の鼻穴からフブー、と息を吐く。顔が自然と右の方へ___南へ、遥か太平洋に面する区画へ、後輩の銀の毛皮の狼人の家がある方へ向いていく。そのまま夜の小雨に冷えた手摺に肘を据え、頬杖をついた。

 あいつはまだベッドの上で布団にくるまり、深い夢の中でまどろんでいるんだろうか。それとも、家業の乾物屋を手伝う為に早起きしているだろうか?日付によって注文量がまるで違うので、夏冬のギフトシーズンは忙しいのだと言っていたが。

 俺は狼人の寝顔を想像してため息をついた。それからなんだか可笑しくなってきた。誰がどうしたのこうしたのと想像を巡らすなんてな。この俺が。

 人を好きになると、おちおち眠ってもいられなくなるし、余計な想像力までついてしまうものなのか。

 そんなことは自分には遠い物語だと思っていた。実のところ生涯縁はなかろうとさえ思っていた。

 教科書に出てくる源氏物語とかの恋愛の古典は、生きるために糊口をしのぐためにあくせくしなくて済むお気楽な貴族の与太話だし、テレビやネットのドラマとかアニメなんかだと往々にして屈託もなくひとりでにうまく転がる笑い話だ。

 大体が、恋なんてな。軟弱というか瞳に星が、頭の中に小鳥が飛んでるような妄想だ。そんなもんをありがたがって憧れ焦がれるのは世間を知らない女の子ぐらいだろう。

 マシュマロとクッキーとチョコレートで出来上がったお菓子の家みたいな浮わついた世界と、醤油と油と肉・胡椒で出来た俺の世界とは、完全に隔絶していると、自分にはあるわけがない物語だと思っていたのに_____だ。

 もう一度、スマフォの画面を見た。時間は容赦なく進む。現在は5:35。

 そしてその数字の下に、書架に向かって本を並べている銀色の毛並みの狼人の横顔が大写しで表示されていた。

 学ランの首元には『1ーC』と刻まれたバッジがあり、胸元にはきっちり『陣内』とサインペンで書いた名札を付けている。

「くそ…………………きだ」

 俺は肺の中から生ぬるい空気を吐きながら呟いた。声に出すと胸の中の湿気った気持ちがスッキリするような気がする。

 もう一度、深く息を吸い込んで、もっとしっかりと言い放つ。言葉は意志で、意志とは力なのだ___音として発すれば明確に現実に作用し、未来さえも変えていく。と、教えてくれたのは。

「夕辰。好きだ、大好きだ。くそっ」

 バサバサッ。何処かで驚いて飛び立つ羽ばたきの音がした。

 誰にも言えない、聞かせられない想い。俺の後輩、出会ってから約半年、まともに言葉を交わすようになってからはまだ数カ月ほどしか経っていない同じ図書委員の一年生、陣内夕辰。瞳が大きくアイドル並みの顔をしている、線の細めな狼人の男子中学生。色素が極端に薄いのはアルビノであるせいだ。

 姿はここにある。この手の中に。家の電話番号も入っている。電話をかけようと思えばいつでも声が聞ける。だが俺には夜中にあいつに電話で話すほどの特別な相談も、気軽な話題も無い。

 ただの学校の、委員が同じだけの、先輩なだけの俺には。この意識を固めてからの数週間、息苦しいほどの虚しさにずっと苛まれてきた。

 あいつと一緒にいると身体が熱くなる。不快な熱ではなく、ただどうしようもなく熱を帯びてくるのだ。考えていてもそうなる。今やこうして名前を呼ぶだけで、俺は   

「おおい明ぁ!今朝は早えなぁ、どしたぁ!?」

 雰囲気も物思いも頑丈な工場兼自宅の壁をもぶち壊しそうな胴間声に、思わずよろめいた。

 庭から声をかけてきたのは俺の父親だった。やはり豚人で俺とそっくりな大きな三白眼で、笑った顔をしていても睨むような顔つきをしている。トランクス一丁、毛むくじゃらの上半身をあらわにし、特大ハムのような両腕をワキワキ動かし簡単な体操を始めた。

手前テメエそんなとこでニヤけた面ァぶら下げやがって。何かいい夢でも見たのかよぉ?」

 背中も胸も腕も毛に覆われていて地肌が見えない。声までも陰毛を生やしたような父の問いかけに___俺も近い将来ああなるんだろう___俺はまぁな、とだけ返して顔を引っ込めた。ガラス戸を閉め、ぶっはぁと肩の力を抜く。顔がカッと充血し汗が噴き出た。

 危ねぇ危ねぇ。誰にも知られないどころか、うちの親父なんかに男を好きになったことを知られたら日にゃあ、死ぬまでぶん殴り続けられるぞ。それぐらいオカマとかホモとかそういう女々しい男が大嫌いなのによ。

 汗が引っ込んだところで文机の横壁にかけたカレンダーの日付を指でなぞった。

 今日は8月19日。俳句の日…ってのはオマケとしてついてきただけだ。

 俺の人生初、恋した相手とデートの約束をした大切な日だ。相手にとっては例年変わらず開催される江東区主催の花火大会だろうが。そんなものは関係なく、今の俺に今日ほど重要な日付は存在しない。

 俺は「しゃっ!」と気合いを入れて両頬を平手で挟むように叩いた。夕辰との待ち合わせまでにはまだ丸々一日以上の余裕がある。まずはミスがないよう集中し、今日の分の自分の仕事を終わらせよう。

 残業なんか絶対しねぇ。誰にも、親父にだって邪魔させるもんか。


 俺、日本生まれ東京育ち、江東区東雲で営々と自動二輪・四輪整備工場を生業としてきた家に生まれた、平々凡々な中学生の無毛豚人、星明の日常。それは広大な白亜の紙の砂漠のようだった。

 いや、それともむしろ経済新聞のようだった、と言った方が近いかもしれない。

 総合病院で産湯を浸かり、育ったら典型的な日本人として高度二次産業に従事して生きて、老いては子孫を遺して骨となり、いつか墓石の下に納められるまで。約81,5年ほどそれが続く。

 やや面白味があるのは生まれたての数年間。その後は数字と収支情報の羅列。たまにスポーツや文化のコラムが割り込んで、頭が疲れて来た頃にまとめを社説で締めくくる。

 ここに一人の男の人生、終了せり。あとは次号、つまり子孫へとバトンタッチ。連綿と続いていく平均的日本人の労働者、ブルーカラーの血脈の典型。

 俺はそう思っていた。

 恋がそれを変えた。恋が俺の日常を終わらせた。それまでの人生が退屈な漢文の朗読だったとしたら、今の俺はフル3Dのフレグランス付きリアル音響円形シアターで、非日常の幸福ファンタジーな舞台に立っているようなものだ。

 そう、まさしく魔法のように、俺の凝り固まった世界をグルンと反転させたのは、小指の先にちんまり乗るくらい小さなものだった。

 一滴の魔法の雫。それは涙だった。灰色の新聞紙のような世界、もとい俺の中学生活にしたたり落ちて、その風景をたちまち虹色の豊潤なものにしてくれたのだ。

 俺の中学二年の初夏、つまり先月のこと。

 純銀よりも上品に、色素の薄い蒼い陰をまとった白い毛皮の狼人。俺の後輩、一年生の陣内じんない夕辰ゆうたつ

 その日、図書室で初めて俺が自分自身の心に目を向けて、その色と形に気づいてしまった日。

 目鼻立ちの整った顔をくしゃくしゃに歪めて、涙を流して、俺にもたれ掛かって、咽喉をひくつかせて狼人の陣内は____

「あはははっ、あっ、ははは、うっ、ゲホッ、ゴホッ、やだ、やだなもう、笑わせないでくださっい、よ、チャルメラ先輩!」

 爆笑していた。そして俺はというと、

「しょ、しょうがないだろう!狙ってやったんじゃないんだからな!」

 真っ向から食ってかかるように言い訳をしていた。相手の身体が近すぎて、内心の動揺を隠しながら。

 7月の終盤の放課後だった。夜は冷房が無くても寝られるが、昼間の温度は殺人的に高い。図書室の空気はジメジメと淀んで、豚人の俺の硬くつるんとした皮革の汗と結合して珠を結ぶほど湿っていた。

 なんで二人っきりで図書室にいたかというと、図書委員として看過できない状況にあったからだ。

 この季節になると蔵書の頁の狭間に動く白点が現れる。そう、それは紙魚しみ

 そこで虫干しをしようと提案したのは担当の教師、英文法の二神にかみで、言い出しっぺのくせにサッサと新婚家庭に帰った奴の代わりに書架の本をあらかた積み出したのは二年の俺と一年生の陣内夕辰、この二人の図書委員だった。三年の先輩は就職・進学相談会があり、きっと今は体育館で企業や高校のブースを巡っているはずだ。

 俺が手始めに取り掛かった自然科学関連書籍の書架の、上の段を片付けて、下に突っ込んであったエンサイクロペディアを全巻まとめて引っ張り出した時にそれが起こった。

 長らく顧みられることなく放っておかれたせいで溜まりに溜まった埃が、俺の上半身を覆い尽くす勢いで巻き上がったのだ。

 それで、俺はたまらず何冊もの重装版を爪先に落とし、その直撃の痛みで「ぎゃおっ」と飛び上がり、着地と同時にクシャミをし、そこで制服の腹のボタンが弾け飛んで、さらによろめいて尻餅ついたところに上から本が殴りかかるように降ってきたというわけだ。

 ベタすぎてかえって新鮮味があるくらいのボケの連続技。陣内は一部始終を傍で見ていて、手を出す暇もなく本の山に埋もれる結末に落ち着いた俺に爆笑しているのだ。

「わざとじゃないっていうことは分かります、分かりますけどね、それならなおさら凄いボケでしたよ」

「ぶん殴られたいのかお前。一年の癖に生意気だぞ」

 ごめんなさい、とまだ口の端をひくつかせながら犬人の後輩は足を大きく開いて踏ん張ると、俺を大きな切り株を引っこ抜くように助け起こした。

「チャルメラ先輩って、言う事がいつも真面目で手厳しいから、こういう時とのギャップが激しいですよね」

 二人きりのとき、思い出したように俺のことをあだ名で呼ぶ陣内。

「うるせえぞ。お前の方だって、お前こそなぁ!」

「なんです?」

 そう言う陣内こそ、元気いっぱいな笑顔らしい笑顔を見られたのは、これが初めてだった。

「…そういう、生意気なことばっかり言いやがってよ」

 俺の袖を握りしめた人形のように細い指。そこに俺も手を重ねる。訝しげに、しかし親愛を込めて俺を見つめ返す邪推のない眼差し。その端にまだ残っていた笑い涙のひと欠片かけらが眩しい。大地を深くくり抜いてできた暗い鉱床を、壁に掘り出されたたった一つの宝石の光輝フレアが鮮やかに照らし出すようだ。

「チャルメラ先輩?」

 俺の心臓が熱くなる。高鳴り、高鳴り、高鳴って、ドゴン・ドゴンと耳朶に響き、鼓膜が破裂しそうだ。

 畜生、なんて可愛いんだ、お前は。

 ___これが、今年の一学期の終わりの出来事。ここを仮に酸素供給点としよう。

 ___時をさらに遡る。

 入学の前から帰宅部入部を決め込んでいた俺は、一学年めの最初のホームルームで自由時間の最も多い図書委員に立候補した。理由は、風紀委員や学級委員や体育委員といった煩わしいその他の委員から逃げを打つため、ただそれだけ。

 風紀委員は毎朝の登校時に正門で「おはようございます!」と元気良く明快に挨拶せねばならないし(アホらしくてやってられるか)、学級委員は2・3年連続でやらないと内申には響かないので働き損だし(時間と労力に見合わねえ)、体育委員は体育教師どものパシリだ(ふざけんな)。

 そんな中、図書委員だけが例外的に活動時間が放課後16時40分までと短く、学校行事に絡んだ居残り進行なども一切無かったのだ。

 エンジンと車輪の絡むものおおよそ総てを扱う整備工場を営む家で生まれ育ち、この頃既に労働のなんたるかを熟知していた俺は、中学なんか高校への寄り道程度にしか考えていなかった。とにかく合理的に無駄を省いて高校への推薦がもらえればどうだっていい、とにかく高校さえ都立のどこでもいいから出ておけば、あとは家業にいそしめば良いとだけ考えていた。

 大人しく真面目にしていれば通用する図書委員は、そんなニーズにうってつけのポジションに思えたのだ。

 その目論見は見事に当たって、一年目は平穏無事に過ぎていった。委員に入る同級生はおらず、二年生はメガネの大人しいオタクだったし、三年生は幽霊委員だったので、俺はひたすら無心に無駄なくそつなく熱意もなく、図書室での己の役割を果たした。

 また、自分でも意外なことに、俺はこの仕事に向いていた。

 借りられた本の整理番号を控え、返却されたものを貸出期限リストから外して棚に戻す単純作業。司書の作業の真髄は、整理整頓こそにある。そしてそれは、バイクに乗用車の種々雑多な部品パーツを扱う整備工場に通じるものだ。

 委員に課せられた義務労働の数時間。それは単純に家に戻るまでの休憩時間。公立の中学校に対して支払う対価。二年生になってもそうなるに決まっている筈だった。

 ところが。二年生になった俺は思わぬ楽しみを知ってしまった。

 俺に物怖じせずズバズバとものを言う後輩、陣内夕辰との出逢いである。

 一学期の始めのこと。緑道公園に最初の桜が咲いた。うちの親父が酔っ払って立派な枝ぶりの奴を一本折り取ってきて、お袋と喧嘩したばかりの日のことだからよく憶えている。

「えー…とぉ。こいつらが、新しく入ってきた図書委員だな」

 委員の担当教諭の二神(当時独身)はボサボサ頭からフケを拡散させながら、新刊の段ボール箱を開けていた俺に女子一人男子二人を紹介した。

 よろしくお願いしまぁす!と元気だけは良い一年生どもの挨拶のあと、「ヤバイまずいデートに遅れる」と教諭はすぐさま姿をくらました。俺は手持ち無沙汰な新たな図書委員三人に、早速段ボールの開封と、ゴミの後片付けと、新刊のデータ入力を言いつけた。

 段ボールの開封から始めた女子1に、すぐ声を掛ける。

「おいおいおい待てよお前、そのやり方だと中身の本まで切れちまうだろ。何考えてんだタコ助」

 男女平等を体現した科白で女子1の笑顔が凍りついた。

「ゴミを散らかしたままにしてんじゃねえ。最初からバラしてある本の包装のシート、わざわざてめぇの目の前に広げてあんだろが。その上でやれよグズ」

 男子1は事もあろうに俺にぶうたれた顔をした。勿論、文句あるなら拳で来いとどやしつけてやった。

「一冊ずつ運ばねぇで男だったら20冊くらい一気に持ってけ!俺の時間を削んじゃねえよ、ノロマのガリガリ!」

 これが陣内への初めての言葉だ。我ながら酷薄なことを言ったものだ。もし戻れるなら、あの頃の自分の頭に蹴りをぶち込んでから背骨をバックドロップで床に叩きつけヘシ折ってやりたい。

 いくら当時、陣内の身体の弱い事を知らなかったとはいえ、荒くれにも程がある科白だ。同じように生まれて己が身にかけられたとすれば、憤激に値する。

 全くもって、こんな言われように腹も立てずにいた狼人の忍耐力には頭を下げるほかない。

「すみません星先輩。僕、身体が弱くてあまり力仕事ができないんです。手間がかかるぶん、手数で役に立ちたいと思います」

 俺の罵声に凍りつく室内で、にこやかに陣内は本を二冊重ねて棚の陰に消える。

 変な奴だな。俺の第一印象は、こう。特別でも凡庸でもなく、ちょっと変わってるな、とだけ感じていた。

 次の週。女子その1が来なくなった。

 その翌週。男子1は自転車で左手首を骨折したとかを理由に、姿を見せなくなった。

 三週目。陣内の欠席。

 利用者がおらずにガランとした図書室。キーホルダーにつけるような小さな鈴の音さえ響き渡るような静寂。

「ま、こうなるよな」

 普段のしゃべり方をしていても自分の声が驚く程大きくなる。

 うちの中学は特別バカな学校というわけではない。こんなに人がいないのは、今日が半ドンの土曜日だからだ。他の生徒が週末に向けて浮かれ騒いでいる時に、自分だけが居残りというのは不公平といきどおる…

 と、いうわけでもない。

 頭の後ろに手を組んで、俺は欠伸しがてら背を反らした。

 俺が図書委員のルーチンワークで楽をするぶん、他の委員には別の仕事があてがわれている。苦労というやつはある程度のバイアスあれども、大方は釣り合っているんだ。少なくとも学校の中では、そうだ。

 一歩校門を出てみれば、そこには世の中という金銭と腕力と法律に支配された大人の社会がある。俺は物心ついてからというもの、夢とか希望だけでは済まされない現実を見てきた。

 小学校低学年から兄貴達とお揃いのツナギを着、店を手伝って汗塗れオイル塗れになってきた。そんな俺の前を沢山の客が通り過ぎて行く。ま、ざっくばらんに勘定すれば、累計約五千人といったところか。

 ヨレヨレに落魄したスーツのおっさんが愛車の使い古したホンダをメンテに入れる日もあれば、ブランドのリングをはだけた胸元に引っ提げ、片手にミニスカ女を、片手に高そうな腕時計を巻きつけた20代の糞野郎が威張り散らす日もあった。

 毎日介護職ヘルパーの労働に疲れ果てているのに笑顔を絶やさない町内一の可愛い姉ちゃんが、あちこちガタがきてとっくに寿命を超えてるスクーターを修理に持ってくる水曜日もあった。そこらの部品に勝手に触ろうとする幼児を連れ、無理難題を押し付けた挙句塗装代を値切ろうとする常識の無いメルセデスの母親ババアの居座る土曜日もあった。

 何が言いたいかというと、俺は仕事の手は抜かず何もかもきっちりやり遂げる、それが男のすべきことだと知っているということ、ただそれだけのことだけだ。

 カタン_____

 俺はハッと顔を上げた。貸出カウンターに肘をついて居眠りしていたのか。顎に冷たくヨダレが筋を引いている。慌てて拭いて、立ち上がる。

 どこかの書架でブックエンドが倒れた音がした。地震なんかじゃない。一体誰だ?

このご時世、気配を殺して入り込み、ライトノベルの新刊本やDVDやデータカードを盗っていく___そんな奴が、いないわけではないだろう。てか、いれば殺すが。

 俺は履いている上履きのゴムが厚く柔らかい踵から床につくようにして、自分の足音を消し、音のした方へ近づく。

 うんしょ、えいしょ、とやけに年寄り臭い掛け声。でも音程が高い。聞き覚えがある。

 文化史の棚からプリプリ揺れる尻尾が突き出ていた。白い。いや、白というよりは銀色だ。地の皮が透けるくらいの、そして地がまた抜けるように白磁色。

「陣内、か?」

「ひゃあっ!?」

 うわっとっと、と抱えた本を踊らせて、瞳の大きな狼人が恥じらいながら振り向いた。その虹彩の色は、深い紫。

「あ、へへへー………起こしちゃいましたかね。星先輩」

「お前…なんでここにいる?」

「えへへ、しばらく休んでたら体調が良くなったんで。すみません、委員会を長らく欠席してしまって」

 陣内の足元にはカートがあった。「どうもこの辺の分類がおかしくなってるみたいで。ずっと気になってたんですけど、直す前に短期入院しちゃったから」そこには確かに本来なら別の書架に収まっている筈の本が積まれていた。

「それでわざわざお前、半ドンの午後なのに出てきたのか」

 ええまあ、と消え入りそうに照れつつ狼人は分類作業に戻ろうとする。

 一体いつの間に、いつから居たんだ、こいつは?

 その瞳の鮮やかな紫赤色と、白銀の毛皮に繊細な顎と、華奢な身体つきから、俺はのっけからこいつは使い物にならないだろうと踏んでいた。

 なぜならいわゆる美少年アイドル系というやつだったからだ。そういう輩は、口先だけ達者な怠け者と相場が決まっている。………などと、狭量にして浅はかな考えに囚われていた。身体が弱いとかいうのも、見えすいたサボリの口実としか捉えていなかった。

 こんなに糞真面目な馬鹿野郎、見たことねぇぞ。

「僕が休んだぶん、先輩も他の人も迷惑したでしょう?だからせめて、今までやらなかったぶんだけは挽回したい!………なーんて、いやらしいこと思ったりしてるだけなんです…よっ」

 口をへの字に曲げて伸び上がり、高いところの服飾文化論を取ろうとする陣内より先に俺がそれを取ってやる。

「あ、いいんですよ先輩。休んでいて下さい。疲れてるんでしょう?」

「うるせぇな。カウンターにそっくり返ってお前だけ働かすわけにいかねぇだろ」

「だけど」

「だけどもカカトも無え。おいお前、えー…と…」

「陣内です。ひどいな、忘れちゃったんですか僕の苗字」

「…下の名前!」

「え?」

「苗字のほうはちゃんと憶えてる。名札だってつけてるじゃねぇか。下の名前を尋いてんだよ。なんてんだよ、お前。時間がもったいねぇからさっさと言え」

 狼人の眉が朗らかな弧を描き、純白の頬に紅が注がれる。すらっとした胸が少しだけ空気を吸い込んで厚みを増し、向日葵ひまわりが昇る朝日に首をもたげるように笑みが顔のすみずみまで広がっていく。

 こんなとてつもない笑顔は初めてだった。

「ゆうたつ。夕方の夕に、辰年生まれの辰です。夕辰でいいです。夕辰、って呼んで下さい」

 パタパタと尻尾を振り、俺の腹に飛び込んできそうな勢いで一息に言い切った。頭の片隅で「こいつきっとダチがいないんだな」と思う一方、たじろいでしまうほどドギマギしている自分がいた。

「何回もクドクドるっせぇな、言われなくてもそのつもりなんだよボケ。俺は…明だ。苗字は知ってるだろ。…まぁ、なんなら、チャルメラでもいいぞ」

「え?チャルメラ…?」

 意味が分からないとき、困ったように笑うのがこの後輩の癖らしい。媚びた所が無くて、俺好みの笑い方だが。

「チッ、鈍いな。外人がするみたいに俺の名前をひっくり返してみろ」

「えと、あきらほし…?………!あ、そうか!」

「気付くのが遅え。ノリが悪ぃ」

 そう、俺の苗字と名を逆転させると、とある有名な乾麺メーカーと同じになる。あまりからかわれたことはないが、たまにムカつくほど笑われることはあった。そんな奴はレンチを振るって鍛えた俺の腕っ節にボコられて当然だろう。

「はい!大変申し訳ありませんでした、チャルメラ先輩」

 狼人はいきなりしゃっちょこばった敬礼をした。唐突な行動を冗談と受け取れず面食らう俺に、舌を出して小さく笑う。

 胸がキュッと締め上げられたような気がした。

 俺は重々しい咳払いをし、「他の奴らがいる時にゃ、そのあだ名で呼ぶなよ。俺とお前だけのときにそう言っても構わないってことだからな」と人差し指で釘を刺す。

「じゃあ、これは僕と先輩だけの秘密にしましょう。約束です」

 狼人はその指先にちょん、と自分の指を押し当てる。俺は思わず両方の耳がビクンと立ってしまい、焼け石に触れたみたいに慌てて手を引っ込めた。

「つまりは符丁ってわけですね」家事のご褒美に飴玉をもらった子供みたいに、尻尾を振る陣内。「えへっ、星さんと友達になれたみたいな気がします。僕、星さんと二人っきりの時にだけこのあだ名で呼びますから。いいんですよね?」

「友達だとか言ってんじゃねえよ、こっ恥ずかしい」

「じゃあなんなんです?師匠と弟子?監督と選手?スポンサーと番組?」

「そこは普通に先輩後輩でいいだろがよ」

 その日の午後から夕方にかけて、書架の分類整理を二人でやった。俺達が居残っているとは思いもよらずにいた見回りの先生を脅かして下校し、俺は陣内に缶ジュースを奢って道が別れる所まで飲みながら歩いた。

「それじゃあ、お前、一緒に暮らしてるのは爺さんだけなのか」

 はい、と陣内は素直に頷く。父親が実家を勘当される形で両親が離婚し、おまけに母親は死亡、今は父方の祖父の家にいるが父と祖父は犬猿の仲のため顔を合わせることも無い、祖母は存命だが一年の大半は入院中___そんな複雑怪奇な家庭の事情。

 俺にとっても他の奴らでも衝撃的な事実だというのに、淡々と話す狼人を前にして、俺はまたしても内心たじろぐばかりだった。

「すいません先輩、こんな重い話しちゃって」

 蚊柱が寄ってくるのを払うために犬人の高い耳を撫でつけながら、あっけらかんとしている相手に、俺は苦笑して応える。

「全くだ。少しはためらったり言い淀んだりしろ。そんなあっさりカミングアウトされたら、こっちゃどうリアクションしたらいいか迷っちまうだろうが」

「やっぱり迷惑ですよね。景気の悪い他人の話なんてつまりませんもんね」

 すっきりした言いかたに、俺は違う、と斬りつけるように呟いた。

「俺のことを信用してぶっちゃけたんだろ。なら構わねぇ。雨は気分が塞ぐけどよ、晴ればっかでも立ちゆかなくなるだろ?それみたいなもんだ。ただ、あんまりそっちが普通に話すのが珍しいと思ったから、俺も正直にそう言っただけだ」

「文句は言ったじゃないですか」

「だから!それは感想なんだって。そっちも普通に受け止めてくれ」

「普通に…」

「そうだ。面白い話は面白いって言う。聴いてて辛かったり暗かったりしたら、そう言う。聴くのが嫌なんじゃねえ。むしろ………その…」

 なんだ、嬉しいのか?俺は?

 言葉が出てこないのを缶を握りつぶしてごまかす。

 お前の、陣内の背景を知るのは楽しい。絵本の最後がどうなるのかと、ドキドキしながら次のページをめくっていた保育園児に戻ってしまったみたいに。なんだよこれ?

「普通って、いい言葉ですね。うん。普通に。僕も普通にチャルメラ先輩の友達になりたいな。いいですか?」

 普通に。そんなありふれた言葉を、しみじみと噛みしめるように言う陣内がいじらしい。この背中を抱きたい。大丈夫、お前は普通だと励ましてやりたい。…生まれて初めての感覚の連続で、俺は目が回りそうになる。

 咳払いで誤魔化して、「いいとか、そんな聞き方するな。んなのそれこそ当たり前だろ。とにかく普通にしてりゃいいんだよ」と言い、更に「馬鹿野郎」と付け足した。

「…はい、そうですね!」

 これぐらいのことでいちいち嬉しそうにする。何なんだお前。なんでそんなにキラキラしてるんだ?お前の周りだけ空気が光ってて、オーラに包まれたみたいで、変に眩しいぞ。

 別れ道で手を振りつつまた来週、と約束を交わす。こんなことも新鮮だ。いや、記憶にはもう残っていないが、遠い昔にはこんな風に近所の友達と保育園に通っていた筈なのだ。小学校と中学校を繋いで流れた歳月の間に、いつしか俺はそれを失ってしまっていただけで。

 夕映えの坂道。溶鉱炉の鉄のように燃えたぎる風景に重なって、遠ざかってゆく陣内の毛皮はギラギラッと輝く。それを目を細めて見送りながら、胸の奥に芽生えた熱い想い、希望に満たされた新しい血管の躍動を俺は感じていた。

 こいつのことを知りたい。他人に興味を持つことなんて全然なかったのに、俺は銀狼人の総てに興味が湧いてどうしようもなくなった。


 俺と陣内が仲良くなったきっかけといえば、こんなたわいない出来事だった。

 粗暴な豚人つまり俺と、温厚な狼人つまり陣内は、息の合う先輩と後輩の仲になり、学校の中ではいつしか図書委員の凸凹デブ・ガリのペアとして周りに認知されるようになった。

 陣内は委員に入って一月かそこらで俺のやり方をすっかり覚えこみ、更にやり易いように作業を簡略化してくれた。付け加えておくと、完全に幽霊委員と化したと思い込んでいた、一緒に入った女子一人男子一人が、二度と図書室の敷居をまたがないだろうと決めつけていた連中が戻ってきたのだ。

 さすがにばつが悪いのか、二人で俺に(委員の担当の二神にではなく)頭を下げてきた。

殊勝に「すいませんでした、サボってしまって」と言われては俺も、ああそうか、これからはしっかりやれよ、と許すしかなかった。

 それは別の見方をすれば、俺とこの後輩の二人だけの時間にこれからは邪魔が入るということで、内心あまりありがたくはなかったが、手放しで「わーい!仲間が増えましたよ!」と喜ぶ陣内の笑顔を見てしまっては、おいそれと反対はできなかった。

「新刊のデータとは別に、もとからあった古い貸出リストのExelに数式を当てはめてみてるんです。そうすると、貸出と返却の履歴が分かりやすいですし、返却されてない本の題名は色が変わって注意しやすいでしょう?人気度ランキングも題名をクリックしたら出るように設定しました。レアな本は特に注意しているので、これからどんどん使えば使うほど充実しますよ」

 陣内はPCの扱いにも長けていた。俺がそれを率直に褒めると、「家が古くからの乾物屋を営んでいるんですけど、最近はネット通販の方が売り上げが順調で。祖父の仕事の手伝いで帳簿とかの管理をしているうちにこういうことにも詳しくなったんです」と、またしても照れながら微笑んだ。

「それと先輩、もう少し本そのものに興味持った方がいいです。面白いかどうかを尋かれて『そんなもん知るか』じゃ、利用者が減っちゃうでしょう。それじゃあ商売になりませんよ。委員なんだから、管理だけじゃなく利用人数のことも考えないと困ります」

 男子委員Aと女子委員Bがこっちに顔を向けずに背筋を凍らせる。ほら雷が落ちるぞ、なんて怖いもの知らずな意見を!という心の科白が聞こえてきた。

「商売?」

「ん?…あっ!エヘヘ、すみません。我家うちの口癖で…爺ちゃんの、祖父のいつもの決まり文句が出てきちゃいました」

 陣内と俺との共通点は幾つもあった。生家が小さな店であること。その家業を助けるために日々時間に追われていること。ゲーセンやカラオケや買い食いなどは生活に入ってこない。したがために放課後に同級生とつるむことがほとんどないこと。そのせいでクラスでも浮いていること。

 そして友達を、何よりも大切にしているということ。この場合の友達は、俺と陣内の二人に限定して定義される。要するに、俺達は一気に心の距離が近づいたというわけだ。

 ただ一つ気に障ったことといえば、この後輩には何にも替えがたい存在が、友達以上の存在である幼馴染が一人いるということだった。

 虎人で眼鏡の佐東とかいうそいつは、陣内目当てに昼休みに図書室に来てはろくに本も読まずに駄弁っていこうとする。

 そいつさえいなければ、俺はいつでも陣内と一緒に帰ることができるのに。陣内も陣内で、そいつの勉強を見てやっていると言って下校するのが俺と別になることが多かった。

 しかしそんなことは俺にとって些細なこと。俺にようやくできた理解者、周りの平均的な普通の中学生に比べほんの少しばかり口が乱暴で手の早いところを恐れず付き合ってくれる相手。互いの苦労を分かち合える関係。

 それに何より、俺は………

 俺は、だんだん陣内に会えること自体が生活の中心になってきているようだった。たまに病欠でもされると張り合いが一気にゼロになり、日がな一日あいつの病状を心配してしまう。そんな日は放課後までの時間が一秒ごとに長く感じて仕方がなかった。

 そして、一学期が終わりに近づいてきた。二年生の前哨戦が過ぎてもうそろそろ進路を見据え、受験かはたまた就職か、選択を強いられるシーズンが到来しようとしていた。

 期末テストの前に俺はセブンイレブンで「るるぶ___『夏の大特集!この夏、最もアツいスポットはどこだ!?』」号を買い込んだ。お袋から頼まれた惣菜を買いに肉屋へ行く途中で、ショーウインドーの外向けに陳列された夏の特集の雑誌の中、その一文が俺の目を引いたのだ。

 5・6分の記憶の空白。家に帰ると、右手にメンチカツのビニール袋、左手にその本を握っていた。

 オイル臭い作業着ツナギを着たままの親父とお袋、それに空港の整備場から帰ってきてやっぱりオイルと汗の匂いをさせる6歳年上の次兄に挟まれ、おかずを奪い合いながらの夕食を済ませ、この一軒家の中でも一番狭い三階の六畳間に上がる。

 申し訳程度についた、ベランダに出られる小さな窓と、本棚と、まるで昭和の文豪が使っていたような文机。それに、小さなスクリーンテレビが壁に掛かっている。文机を使う時には胡座でいなければならないのでなんとも現代離れ甚だしい。

「うーい、食った食った、つっかれた疲れた〜」

 畳に寝転び腹を撫で、ぼんやり天井を見上げる。テストは社会と化学からだったな。先に軽くオナっておこうか、寝る前にしようか…

 食欲が満たされた状態でオナニーのことを考えたら自然と勃ってきたので、次兄に譲ってもらった女子高校生もののエロデータカードの隠し場所、文机の抽出ひきだしに手を伸ばす。そこで畳に投げ出したままの雑誌の一冊を膝で踏んづけた。

 サンデーでもマガジンでもなく、るるぶだった。そういえばコンビニで買ってきたんだっけ。貴重な小遣いで使いもしない情報誌を買うとは、我ながらヤキが回ったなぁ。

 なんでこんなもんを…とひとりごち、ページを繰る。「運命の海岸線で彼女と急接近!?」だの「夏のレジャーは二人の温度を上げる!間違いないデートコース、14選!!」だのといった、途方もなくくだらない煽り文句が俺の目に飛び込む。

 畳にゴロンと仰向けになり、いかにも幸せそうなモデルの男女のツーショットをつらつら眺めていると腹を無遠慮に揉まれるような気持ちになってきた。

「ケェっ、馬ッ鹿馬鹿しい!」ベラベラっとめくったページのあるところで手が止まる。その見開きに映っていたのは都内のとある河川敷だった。なんでも花火大会の隠れた名所らしい。「こんなもん読んで成功してりゃ、そこら中カップルだらけだろうがよ」

 口とは裏腹に俺の頭の中には映画の予告のような場面が浮かんでいた。

 ほうぼうの店の看板や街頭の照明に灯された、闇ににじむまたたき。雑踏の中で二人が歩く。

 見降ろした俺の側にぴったりと寄り添う銀狼人の浴衣姿。陣内の毛皮にはどんな色でも似合うだろうが、ここはあえて黒に模様をつけた控え目の柄がいい。純白のバイクのボディに引くのはシンプルな黒の流し紋と決まってるように、あいつには余計な装飾はいらない。

「チャルメラ先輩、待ちくたびれましたよ」

 そう言って拗ねる陣内を、俺はどやす。

「お前が早く来すぎるからだろうが。俺のせいにすんじゃねぇ!」

 それから二人で雑踏に繰り出す。陣内は謙虚に、それでいてはぐれないように…きっと俺の浴衣の袂なんかを引っ張りながら、素直についてくるんだぞ。

「チャルメラ先輩、歩くの早いですよ」

「すっトロぃんだよてめぇ。はぐれんのが怖えなら俺とピッタリくっついとけって」

 とかなんとか俺は言ったりしてな。しょうがねぇから、そうなったら手を引いてやって…あいつの指は細ェから、工具で鍛えられた俺の太い指に備わる握力で壊さねぇようにしないといけねぇ。

 俺は仰向けのままビクンと背筋を伸ばした。

 何か今、とてつもなく変なことを考えてなかったか?

 胸に手を当てる。心臓の回転数トルクがおかしい、ビンテージのハーレーを触った時よりドキドキしている。掌を顔の前に持ってきて指をにぎにぎする。意味は無いが、そうすると少しホッとした。

 陣内はただの後輩だ。そうさ、後輩で、俺には兄貴が二人しかいないからよく分からんけども、もし弟が産まれていたらこんな感じだろうっていうような、単純に仲の良い奴なんだ。

 そうだ、だからどこかへ遊びに誘ったりしたって、別段とりたてて変なことじゃないよな。

 焦った、急に自分のガラでもなくこんなカップル向けの雑誌なんか買ったから影響受けてんじゃねえか。俺は何もそんな、陣内に別に変な感情は持ってない。

 あいつは俺の後輩だ。俺はあいつの先輩だ。余計なことは考えずにおこう。

 とりあえず、試験明けにでもあいつに夏休みどうするのか話を振ってみよう。さすがにいきなり花火に誘うとか、そういうのはやめておいた方がいいな。うん。


「先輩」

 抑えに抑えた小さな声、かすかな揺さぶり。

「…?」

「チャルメラ先輩…明さん。起きて下さい…」

 純銀の毛皮の面にふたっつ据えられた、紫の瞳が俺を見下ろしていた。夜の夜中に俺を揺り起こしたのは、アルビノの輪郭をぼんやり輝かせる陣内だった。

「陣内?どうして、ここで何をしているんだ?」

 相手の眉根にシワが寄る。ぶー、と音を鳴らして唇が尖った。

「ひどいですよ、僕を呼んだのは明さんじゃないですかぁ」

「お?俺が?お前を?いつだ?」

「僕は明さんに呼ばれたら、どこでもいつでも駆けつけるんですよ?」

 クスリと笑みをこぼし、狼人は俺の肩を両手でなぞる。柔らかな戦慄が首筋から尻尾にかけて走り、俺はゾクゾクっと全身を震わせた。ヤバい、興奮してくる。

「俺、お、お前を呼んだっけ…?憶えがない…」

 俺は言葉を生ツバと一緒に飲み込んだ。なぜなら、陣内の潤んだ瞳が俺を責めるようにまばたいたから。

「僕と好きなことをしたいって。呼んだでしょ?」

 そこで頭の毛並を掻き上げる陣内が一糸まとわぬ姿であることに気づき、俺は「馬鹿野郎!てめぇ、裸でこんなとこに」と言いかけた。そこで途中で言葉が止まる。

 銀狼人の唇が俺の口を塞いできた。目がチカチカして、俺の短い豚人の尻尾が固くなる。

 ぬめっとしたものが口の中に入ってくる。こいつは舌か。夕辰の!?

 ドドグン。鼓動が胸骨を突き上げた。

 まったりと味わうようなキスの後に相手は「明さん………来て。僕は待ってたんです。ずっと、こうしたかった」と抱きついてきた。

 細い指先が俺の鎖骨をなぞった。銀狼人が目を細めて少し頬を染める。せがんでいる。求めている。誰を?___何を!?

 俺はすぐに陣内の身体に腕を絡みつけ、喉元も胸も構わずにベロベロと舐めまわしていた。

 さらに自分もいつの間にか寝巻きを脱いで裸になり、陣内の細い胴体をひっくり返してうつ伏せにすると、その丸い尻に自分の股間のいちもつを突き立てる。

「はゥッ_____!!」

 聞いたこともない悲鳴、いや喘ぎか。キラキラと毛並みを震わせ、陣内がこちらを見る。俺はその背中に覆いかぶさり、腰をガクガクと振りつつ後ろからキスをした。

 ぱんぱんぱん、と激しく肉を打つスパンク音が響く。陣内は肘をついて頭を低くし、俺が突きやすいようにか快楽を強めるためか尻を高く上げ、あとは朱色に火照った身体を俺に任せてされるがままだ。

 あっぐ、ううっ、い、いっ__そんな唸りを上げつつ、銀狼人に挿入している感覚はとても生々しく、普段のオナニーとはまるで違ってぬるぬると温かい。臍の下にうずく射精の欲求が膨れ上がる。そして。

「うぐぁぁぁっ!夕辰、夕辰ぅっ!!」

 己の絶叫とともに俺は丸まった布団を抱き締めて目を醒ました。

「夕辰…?」

 理解できずに部屋を見回した。居ない。あいつはどこへ行った。俺を置いて帰ったのか?

 下着は脱いだはずなのに俺、着てるぞ?これは一体…

 ぼんやりした頭のまま、股間に手をやる。と、じんわり湿った感触があった。

 股ぐらが濡れている。パンツに手を突っ込むとベチョっとしたものが指に絡まった。嗅ぐまでもなく、男の体が作り出す生殖のための液体だと分かる。

「…やっちまった…」

 生まれて初めての現象。これが夢精か。俺はがっくり頭を落とし、なんとか立ち上がり風呂場へ降りていった。

 普段しているせんずりよりもずっと気持ちが良かった。夢の中とは思えないほどの充実感があった。

 ところが、しかし、それでも、あにはからんや、予想に反して。

 出してからの気分は最悪だった。初めての夢精を経験したことで汚してしまったトランクスを手洗いしてから洗濯機に放り込んで、新しい下着を身につけてもう一度横になり、まんじりともせず夜を明かした。

 ようやくウトウトしかけたところで親父とお袋の口喧嘩が家中に響く。重い身体を起こし、もそもそと朝食を摂り「行ってくらー」と建て付けの悪い引き戸を開けて家を出る。

 登校する道はいつもと同じだ。朝顔のつるが絡んだ空き地のフェンス、信号無視する小学生、黄色い旗を振ってそれを叱責するおばちゃん、角地にある寺、彼方にそびえ立つ高層住宅。何もかもいつもと同じなのに違和感がある。おかしい。

 いや。そうか、変わっているのは、変なのは俺の方だ。

 夢に出てきた陣内の抱き心地は妙にリアルだった。ダマ毛も引っかかりもないサラサラの毛並みも、体温の高まりも、仄かな体臭すらあった。体の中に入り込んだ時には確かに童貞を脱出した感覚があった。かき抱いた肩がゆさゆさと揺れた感触はまざまざと思い出せる。

 俺に侵入された相手の苦痛と喜びを、我が事のように感じることができた。あれはもう肌を合わせたのも同然。だから自分が変わってしまったんだ。

 だとしても、あれは幻。全てが非現実。実際には精液を出したことは出したが、ただそれだけの事で、俺がもしあんなことを現実にしたらあいつは…

「馬鹿か、俺は」

「馬鹿なんですか?チャルメラ先輩」

「うひょ!?」

 いきなり重力が反転したように飛び上がってしまった。銀毛の狼人が「あはっは、おはようございます!チャルメラせーんぱいっ」と、いつものように尻尾を振りながらそこにいる。

 ゆっゆゆゆっゆゆゆゆゆ、夕辰!?

 足を止めた俺を追い越して、朝陽を受けた銀色の毛皮の陣内が振り返る。

「どうしたんですか、そんなに驚いて」ドン引きではないものの、ちょっと引きながらも、再び歩き出した俺の横につく。「一緒に帰る時はいつもこの道通ってるのに、朝は一度も一緒になったことありませんよね」

「………………………………そういや、そうだよな」

 何か話せ。いや、今俺はテンションが高い、ボロが出る、こいつを夢の中でレイプしたから…や、夢の中では両想いだったか…いやいや、そうじゃねぇ、こいつは男なんだ、女みてぇに気にするな、って何考えてんだ俺、何をおっててんだよ!

 俺は少し腰を引き、さり気なく学ランの社会の窓部分の盛り上がりを隠す。くそ、こいつ涼しい顔で俺の隣にいやがって!腕が近すぎて袖が触れる、こすれる!やめろ!

 うおっ、手の甲がくっついた!!

「先輩、僕何かしました?」

「え、あ?何だって?」

「だって黙ってるし、さっきから怖い顔してるじゃないですか…あと汗がすごいです」

 マナーの悪い客に当たったレストランのオーナーみたいな表情でそう言われて、俺は自分の眉間に深く刻まれたシワに気付いた。親指と人差し指で、そこをグリグリ伸ばす。

「お前は何もしてやしねぇよ。なんでも自分のせいにするな、卑屈だぞ。俺の方がちょっとな…俺は何か変じゃないか?」

「はい?いつもより喋らないですけど、変ってほどじゃないですよ?あー良かった、もう元通りのチャルメラ先輩だ。ひょっとしたら夏風邪で調子悪いのかなって心配しちゃいました」

「生意気に気ぃ回してんじゃねぇぞ。お前は俺のお袋かよ」

「いーえ、僕は先輩の生意気な後輩です」

 いつもの調子を取り戻した俺は、馬鹿野郎が!と返す。陣内の嬉しそうな様子も普段と変わらない。とはいえ、罪悪感をこらえてなんとか踏みとどまっているというのが相応しいところだ。

 たとえ夢の中とはいえ、いや夢だからこそ欲望をあるがままに行使したことで、死んでしまいたいほどの恥辱と罪悪感が俺の身体を木造の家屋にたかるシロアリのように蝕んでいた。

 よりによって自分に都合の良い世界をでっち上げて、その中でヤっちまうこたねぇだろ。なんてぇ情けねぇザマだよ。相手を本当に大事に思っていたら、できやしねぇだろそんなことはよ…

 思考がとある一点に至り、脳髄の奥で緊急停止信号のランプがスパークした。

 っつうことはだ、俺はこいつを大事にしたいって思ってるんじゃねえか?

 目の前にいるこいつが、俺は…

 ついブハーッと息が漏れた。「あー、たまらんな」と額に手を当てる。

「何がですか?」

「そりゃよ」俺はお前を大事に思ってるんだよ。今それに気付いたんだ。だから夢精がこんなに罪悪感があったのか。「暑いからよぅ。やり切れねぇなーって事だよ」

「そうですね、図書室の冷房最大にしなきゃですよね。でもなー、あれ型が古いから利きが悪いんですよねー。でも午後には俄雨にわかあめが降るって天気予報が言ってましたし、そしたら涼しくなるんじゃないですかね?」

 お前と二人きりでいてもか?こんな気持ちのままだったら、シベリア並みに冷房をかけていようとも、俺は暑くてくたばっちまうかもな。

 もういいな。お前が男でも。好きになっちまったもんは仕方がないだろ?

 それについて俺は決めたぞ。俺はお前を傷付けねえ、寝覚めの悪い夢精なんかもうしねえ。いつでも現実のお前を大事にする。いつだろうと、どんな状態でいるときも、だ。

「そうか。それなら作業がはかどっていいよな」

「作業って何かありましたっけ?」

「とぉー!!」

 唐突な、うわずった雄叫び。黄色い頭が陣内の背中にどすんとぶつかってきた。細身の狼人はビリヤードの球のように水平に弾き飛ばされて視野から消える。

「押さない駆けないしゃべらなーい!略してハイ!おっかっし!!おっはーユータ!テスト勉強してるか!?」

 片足立ちでバランスを保ち、ぴらぴらと手を振る眼鏡をかけた虎人の一年生。こいつは、よく夕辰と一緒にいる場面に出くわすことがある、あの佐東…ナンタラじゃねぇか。

「………満っちゃん」

 陣内の声は怒りに太く沈んだ。よろよろと立ち上がると、体当たりを食らわしてきた虎人にキックを返すたくましさを見せた。

「ぐぇっち痛ててて!へへっ、おっはおっは!」

 へこたれない虎人、馴れ馴れしく狼人の肩に腕を載せ、耳がくっつきそうなほど近く頬をすり寄せる。さすがの俺も暴挙と親愛の連続で押し寄せてくるそいつに毒気を抜かれた。でなければタコ殴りにしてただろう。

「どーしてそんなテンション高いの朝から?ラグビー部は、部活はどうしたの、サボり?」

「へっへへーん!テスト期間はぁ、部活はあ・り・ま・せ・んん~!!」

 なんかムカつくんだけど、と陣内は相手の頬をつねって餅のように伸ばす。いひゃいぜやめろよぅと両手をジタバタさせるそいつの爪が俺の制服に当たり糸がほつれる。

 なんだコイツ、俺と夕辰の邪魔しやがって!

「元気が余ってるなら勉強に回しなよね。さっきの質問だけど、僕はちゃんとやってるよ!そっちこそちゃんとテスト対策してるの?」

「いいえ、してません。なーんにも」

「はー…あのね満っちゃ」

「だから、おせーて!お願いお願い陣内様ユータ様神様仏様今の季節はSummer!!」

 安っぽい拝みかたでペコペコ頭を下げる虎人の眼鏡を、陣内は微笑んでつまみ弄ぶ。正直に言う、羨ましい。

「それもいいけど、タダってのは虫が良すぎるんじゃないのかなー?」

「うー、分かった!行きたがってた映画、一緒に行ってやるから!あんなラブラブ映画男同士で行くの恥ずかしいけど、背に腹は代えられないもんな!」

「それだけ?」

「それだけ?って何だよ…うー、じゃぁ、こうする」

 佐東はやにわに陣内の前に回り込み、相手を無理矢理背中におぶろうとした。

 ちょっ、満っちゃん!?と泡を食う狼人に「しばらく俺がタクシーがわりにユータを学校までしょってくからさ、それ込みで勉強おせーてくれよ!」とうそぶき、嫌がる相手の腕を捕まえる。

 俺はとっさに陣内の反対の手首を取った。勢い佐東と陣内を間に挟んで引っ張り合う構図になる。

「うわっ、先輩?」

 なんだこいつ、と目で言う虎人。俺は睨み返し「待て。まだ夕辰とは話がある、連れて行くな」と前歯と奥の牙の隙間から押し出すように伝えた。うっかりするとこっちから相手に喧嘩を売っちまいそうだ。

 陣内はあっさり虎人の手を振りほどく。

「はい。じゃ満っちゃん、先に走って行きなよ」

 そっか了解、んじゃぁな。と虎人も拍子抜けするほど簡単に飲み込んで、

「じゃ、また後でなー!放課後、図書室に迎えに行くわ!今日は一緒に帰るかんなー!!」

 ファイトー、わっせ、わっせ!掛声も勇壮に駆けていく。狼人はその背中に大きく手を振る。

 ほがらかな痺れが胸にジーンと広がってきた。夕辰が幼馴染みよりも俺を選んだ。これは、なんとも嬉しいぞ!

「で、チャルメラ先輩、話って何ですか?」

「あー…さっきの作業の事なんだが」

 相手を引き留めたくて口をついた科白だったが、嘘ではなかった。委員の担当をしている英文法教師二神が今学期中に図書室の蔵書の虫干しをしなければいけないと言っていた記憶を引っ張り出して、俺はその手順と、新刊本のコーティングを終業式の日に一気にやってしまうことを相談した。あと二人いる残りの委員は、公正な阿弥陀クジの抽選で係の日ではない。

 それが済んでしまうと、もう校門が見えてきた。パチンコの玉がスリットに落ちて行くような生徒の流れの中で、俺は素早く

「それとな、夕辰。お前が暇だったら、夏休みの…時間のある時に、花火大会、行くぞ」

 と言った。

 虎人を排除してからここまでの道程で、この誘いを告げようとして十四、五回はためらい、うち二回は「あのな」で止まり、残りは間の悪い沈黙ができてしまっていた。

 だんまりとした重い空気が俺の頭にのしかかる。一瞬で気が狂いそうなプレッシャーだ。

「すいません、よく聞こえませんでした」

「へ?」

 キラリと歯並びを光らせて、単純に、シンプルに笑って謝る陣内。

「チャルメ…先輩の声がやけに小さくって。あ、もうチャイムが鳴った!急がないと。じゃあ、また放課後に委員で!」

 え、おい、ちょっ…と、相手の肩に伸ばした手が宙に虚しく浮かぶ。

 まあいいだろう。まだチャンスはある。今度こそ、しっかり言ってやる!

 ___これが燃焼物質、この日の朝の出来事。


 ___そして、酸素供給点に戻る。

 俺は陣内と二人きりの図書室で、俺を引っ張り起こしてくれた陣内の、俺の袖を握る手に自分の掌を重ねながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 早く離さないと、狙ってるみたいになっちまう。決してそういう、怪しげな気を起こしてるわけじゃないぞ。そんなつもりじゃないんだ。お前を見つめてるのは、ドキドキしてるのはただ緊張してるだけなんだ!

「どうかしたんですか先輩?」

 言うぞ。言え。

「夏休みって暇」

「ユッウッター!!」

 暇かと尋ねる前にけたたましく名前を呼ばれた陣内が身をよじって逃げる。そりゃそうだ、文字通り迫ってる場面に見えるもんな。

 で、絶叫の主はというと、またしても

「もぅ〜んおっそぉ〜い!親友を待たせるなんてサイテーだゾ☆」

 と、おちゃらけて内股で登場する虎人だった。

「ごめんね満っちゃん、もう終わるからもう少しだけ待ってて?」

 えぇー?ぶーぶー!としかめっ面する相手を狼人は「ここ図書室だから。あんまりウザいこと言うと、もう遊ばないからね」の科白で黙らせる。

「ほんとに、朝も今もごめんなさい先輩…満っちゃん悪気はないんですけどデフォルトでうるさいでしょ?」

 残りの本を片付けながら耳打ちしてくる陣内。そのいかにも当人の代わりに謝ってくる態度が非常に胸糞悪く、俺はぶっきらぼうに「ダチは選んどけ」と言ってしまった。

 家が隣同士っていう腐れ縁みたいなものですけど、あれでいいところも沢山あるんですよ…などという返事でよけいに気分が腐る。

 そして結局、俺達と一人は何事もなくペアとシングルになって下校した。

 そう、今日が最後で明日からは夏休みだ。チャンスは2回もあった。

 なのに俺は、陣内を誘うことができなかった。


「…〜はへぁぁぁ…」

 家に帰ると工場は臨時の修理が三件も来て、てんてこ舞いだった。俺も昼飯を飲むように胃袋に押し込み、すぐ作業着に着替え居間と繋がっている工場に入った。がむしゃらに身体を動かしている方がふがいない自分に落ち込んでいるよりまだマシだと思ったからだが、実際その通りで、俺はいつもよりむしろよく動けるなと感じていた。

 午後5時を教えてくれる夕焼け小焼け(サマータイムバージョン)が聞こえる。もうそんな時間か。そしてこれが聞こえるということは、騒音を立てる大きな作業はほぼ終わっているということだな。

 俺は受け持ちの修理部品の入替を指先チェックし、帽子を脱いでそばのビールの空き箱を椅子がわりに腰を下ろした。

「…〜はへ…ぁぁぁ…」

「うるさいよ」

 作業履きがゲシッと尾骶骨びていこつを蹴る鈍い音。俺は前につんのめった。

「なんなのお前。今日はずーっと溜息ばっかしついてるし、ミスは多いし、人の話聞いてないし」

 俺を蹴り倒した小柄な豚人は、作業着のはだけた胸元で腕組みをして俺を見下ろす。

 俺の一番上の兄貴、横浜の大学院に寮生となってずっと通いながら、たまに実家の工場をふらりと手伝いに来るほし晴彗せいけいの茶渋を煮詰めて飲んだような顔がそこにはあった。とはいえ、俺とは違ってコロンとしたマロ眉にドングリのような鼻とまん丸眼に広い額をしているので、あまり迫力は無い。門前の小僧が機嫌を損ねてヘソを曲げているとしか見えない。

「え、俺、そんなにミスってたのか」

「んもー、気付いてもいないの!?お前ね、うちがリカバーに必死だったの見えてなかったわけ!?」

 見えてない、というか晴彗はいつ来てたんだ?

「嘘でしょ?んもー、最悪だよ。集中力ゼロじゃん」

 ぼんやり首を振る俺を怒りと軽蔑の眼差しで刺すや、襟首をむずと掴んで立ち上がらせた。

 お互いに丸っこい体型は親譲りなのだが、父親のように背が高くむさ苦しい容貌の俺と、母親のように小ぢんまりと幼い容姿の長兄は、ちゃんと対面するとどちらが上なのか分からなくなる。

 身長差は俺の臍あたりが晴彗の頭だと言えば分かるだろうか。

「あのね、お前が勝手に怪我するのはそれはそれで会社うちの迷惑。でも今日のは酷い。仕事がつまんないのか舐めてんのか知らないけど、そんなに集中力が切れっぱなしだと他の社員さんにも危険と迷惑が及ぶの。それは分かるよね?」

 ああ、そうか。スムーズになってたんじゃなくて、俺がボーッとしてたから作業が流れて見えたんだ。

 そこではじめて、俺を遠巻きに囲む大人達のなんとも複雑な表情に気が付いた。あの困り笑いは、申し訳なさそうにしながらも、晴彗に対してよくぞ言ってくれたと溜飲を下げているのか。

 こっ恥ずかしさで肩甲骨が縮んでいく気がする。色恋沙汰で上の空だと。ふざけんな!俺!

「……………すんませんです」

 俺は皆に向かって深々と頭を下げ、作業場を飛び出した。

 どこか遠くへ行くわけでもなく、工場の裏手でただひたすら壁を殴った。拳を打ち付けるたび、ガゴッという骨と肉の重い軋みがし、痛みが返ってくる。

 30回以上そうやって、息が切れたところで壁にもたれかかった。小さい頃から失敗や兄貴達との喧嘩で負けた時はこうやってストレスを発散していた。

 両手の拳は皮膚が裂けたところから新鮮な赤い血が流れ出し、肘まで太い一本の筋ができている。やっと少しは頭がスッキリしてきた。

 フヘッ、と妙な笑いが漏れる。これが自嘲というやつか。

 何してんだ俺…

「何してんのお前」

 晴彗がくわえ煙草で立っていた。火気厳禁の工場を受け継ぐにはどうにもこうにもこの嗜好が断てなかったことも、家を出た理由の一つだという。

 洒落くさいシャツとベレー帽、ハーパン。町工場の息子としては観念を度外視したいでたちだが、よそでもバイトしてその給料で贖っているのでケチをつける筋合いではない。

 晴彗兄貴はほんわかしたなりとはかけ離れて出来がいい。頭脳面、肉体面の両方で公立大学の特待生オファーがきたほどだ。親父は「ザーメンあれってなぁ、ドブロクとおんなじでよぉ、上澄みがいっちゃん質が良いんだな!!同じ俺のタネなのに出来が違いすぎらぁ」とか安酒を食らっては常々その能力を褒め称えている。

 で、女関係でも俺達3人兄弟のうちでは抜きん出た才能を誇るわけだ。

「別に。兄貴には関係ね…」

 いや、待てよ。

「あっそ。んじゃまた後でね。うちは夕飯までぶらっとその辺で」

 女の子を散策ナンパし、と言いかけた相手を服を手掛かりにそこにとどめる。

「うきょ、シャツ!伸びる伸びる伸びてる!」

「あ、悪りい。あのよ兄貴、ちょっと聞きたいんだけどいいか」

「もー、一応これブランド物なんだからね?シワになっちゃうじゃん…で、何よ」

「その、俺、好きな子が………できた」

 小柄な豚人の口からポタリと音を立てて煙草が落ちた。

「…え。マジで?」

 首肯するや、ぴょーんと飛びつくように寄ってきた。

「え、どんな子どんな子?可愛い?面喰いなお前のことだから相当可愛いんじゃないの?年上年下どっち?この界隈の子?」

「ちょっと待ってくれよ。先に相談に乗ってくれ」

「ああごめん、しかしまさか!何かあるだろーとは想定してたけどまさか恋バナとはね、うん、恐れ入りました!」

 わけ分かんねえ反応でニコニコと頭を下げてくる晴彗。調子が狂うな…

 俺は陣内の性別のことは伏せて、率直に好きな子とうまくいくにはどうしたらいいのかと尋いた。要素として外せないのでお邪魔虫の虎人のことも口の端に上る。

 話の半分ぐらいから晴彗兄貴はウンコ座りし二本目の煙草やにをふかしながら俺の悩みを聴く。たまに首を傾げる仕草をしながら、片眉を大きく上げて。

「___つまり、片想いをいかに成就させるか、ってわけなんだね。それにその子の幼馴染の方がコブになってるから、そいつをなんとかしないと…フム。その、虎人の方は?その子のこと好きだったりしないの?」

「それはないな。絶対」

「なんでそう言い切れるのさ?その二人のやりとりとか聞いてるとかなり怪しいじゃん」

 それは、男女の幼馴染なら惚れた腫れたもあろうものだが、陣内も佐東も男だからな。激しくハグしようが甘い会話を交わそうが男同士だ、あくまで一線を越えるものじゃないだろう。

 しかし。はたと思い至った。あれだけいいタイミングで邪魔してきたあいつは、じゃあ本当に恋敵ではないのか?万が一、億が一、兆が一にでもその可能性はないのか?あんな魅力的な奴がそばにいたら、虎人がぐらっとくる可能性はゼロではないだろ?

 だってこの俺が惚れちまう奴なんだぞ。

「たぶん…ない___。あいつはそういうことを隠し通せる奴じゃない」

 そうさ。俺の前の顔と佐東の前の顔。確かに表情は変わるが、顔つきは変わらなかった。工場の客の中には金を払う方より騙してむしる方を専門とする詐欺師もおり、嘘吐きの平均的な顔相と見破るポイントは心得ているつもりだ。

 佐東と陣内は親友を踏み越えて付き合う仲じゃない。そう確信できる。

「フム。ならまぁ懸念が減っていいね。それはともかく、お前が俺に相談してくるなんて一種の進歩っつーか、進化だよねえ」

「そうか?自分で対処できねぇから兄貴に知恵を借りてぇだけなんだしよ、これって退化じゃねぇのか」

 すーっと長く煙草を吸い込んで、「ドっ馬鹿ぶゎか!」と大量の煙とともに叱咤を散らした。

「足りない知恵を拝借すんのが情けないっての?くわっははは!やー、だからそれが進化なんだって。や、だってさぁ、プライドの高いお前がだよ、うちに比べて作業ヘッタクソなくせに修理のこととか積極的まともに訊いてきたりもしないお前がさ、こうやって頭を下げてうちに相談してくるっていうのがイイんじゃん!」

「それは、技術は目で盗めっていつも親父に」

「言われててもさ、ここに俺って天才がいるわけじゃん。他はみーんな凡人じゃん、悪いけど。ならさ、聞けばその分時間が短縮されるし効率もいいのに馬っ鹿だなーってずぅっと思ってたんだよ。それについては、お前のせいだけじゃないね。素直になりゃいいのにね、親父殿も社員のおっさん達も…それにしても、アッキーが好きな子って、ぷぷ、似合わなすぎ!ぷっぷぷー!!」と哄笑が壁の谷間に響く。

 もっと前だったら___いや、夕辰と知り合って好きになる前だったなら、ムカついていただろう。…今は素直に受け止めることができる。これは晴彗の言うように、進化なのかもしれねぇな。

「___兄貴はこういう悩みとか無えんだろ。要領いいもんな」

「んー、や、要領がってゆーか、単にお前の間の悪さが問題なんじゃないの?」

 あとお前、頑固すぎ!ビッと俺を指差す。そんな事ねぇよ、俺の一体どこが、と言いかけた矢先、後ろから聞き覚えもはなはだしい声がかかった。

「あ、チャルメラ先輩?」

 ぐぐ、と背筋が固まる。嘘だろ、こんなタイミングで現れるわけがねぇ!それこそまるでラブコメみてぇな___

「あのー、先輩?人違いかな…チャルメラ先輩?じゃ…ないですか?」

 時間をかけて振り向く。

 まだ残り陽が照らす蒼く褪せた空を背景にして、カーゴパンツに襟付きシャツをゆるく着た銀色の毛皮の狼人がそこに佇んでいた。

「夕辰、お前どうして」

 濃く擦った墨汁が濡れた半紙に滲んで境界がぼやけるように、ほわりと面差しの緊張がほどけた。

「良かった、人違いかと思っちゃいましたよ。この辺荒っぽい職人さん多いし…チャルメラ先輩の工場、やっと見つけた」

 心臓のビートが圧縮されて急上昇。耳まで熱くなり、汗が顔面と掌からマーライオンの噴水みたいにほとばしる。

「俺を探してここまで来たのか?何か用か?どうして、どうした」

「先輩こそ一人で何してるんです?休憩ですか?」

 はっと振り向いた。この狼狽っぷりを絶対からかってくるはずの長兄の姿は既に消えている。

「あぁ、別に俺は」

 その時急に居ない筈の晴彗の低声がそぼそぼと耳朶をくすぐり、俺の豚人の皮膚の総毛が立った。

 _____奇貨可居、机会不能放过 。

 なんとなく中国語だというのは分かるが、内容はちんぷんかんぷん。さすがは公立大学の特待生らしい謎かけというか、天才がよくやらかす高度すぎて理解不能な異星人的行動というか。

「ブルルルッ、気色悪りぃ!なんだ兄貴のヤツ、忍者じゃあるまいし」

「忍者?」

「ああいや、なんでもない___夕辰!」

「はいっ!?」

 出し抜けに呼ばれて陣内が気をつけをする。

「今度、花火大会に、行くぞ!」

 言ってしまってから鼻息が早くなり、両指が痺れてきた。

 うぉー、言っちまった。しかも相手のスケジュールとか一切無視の命令口調で。

「僕が?先輩と?」

「ああ。いやな、手が空いてる時でいいんだ。お前も忙しいだろう?ただ、まあその、夏休みは花火が多いからな。あれはスカッとするからな」ジッと凝らした神秘的な紫の瞳。俺はそっちを見られない。「俺に気を遣ったりするなよ。お前はそういう余計なことを考えるからな。あくまでお互いの気晴らしだ。どうだ」

「いいですねー。是非行きましょうよ!」

「ゔぇ」俺は喉が潰れたような呻きを漏らしてしまった。「いいのか?暇はあるのか?」

 うーん、とこめかみを逆の手で掻きつつ銀狼人は「暇って言うほど暇じゃないですけどね。夏休みの間にうちの溜まってる仕事とかネット通販の内容変更とか、仕入れ予約とかしてるんですよ」と答える。

「あぁなるほどな。分かるぜ、俺んとこだって夏休みは車で出かける連中も多くて繁忙期だ」

「チャルメラ先輩の家は、この自動車整備工場なんですもんね。町内は違うけど、僕んちのご近所さんがた、メンテとか先輩のとこに頼んでるって言ってますよ」

 ちゃあんと事前にじっちゃに言っておけば遊びに行っても大丈夫です。それに、実を言うと僕、花火の火薬の匂いがちょっと好きなんです。おかしいでしょ。

 想像を超えた好反応。俺と花火を見物に行くのも楽しそうだと、コロコロ喉の奥で玉を転がすような笑いをする狼人。

「そ、そうか…じゃ、いいんだな?」

 はい。いつにします?8月19日、区の花火大会はどうだ?ああ、あれは穴場なんですよね、東京湾の花火大会と違って小ぢんまりとしてて観やすくて。分かりました___とやり取りをし、帰りかけた陣内を自宅まで送ってやることにした。腕についた血糊は作業着の腹でぬぐい、両拳の傷が見えないよう手首から先はポケットに突っ込んで。

「こんなことまでしてもらって、助かります。この辺暗くなると帰れるかどうか怪しいんですよねー。道が全然分からなくて」

 夜目が利かなくても道筋はまだはっきり判別できる。だが江東区のこの辺りは再開発のせいで道が入り組んでおり、地元民ですら時たま迷う魔の迷宮だ。

 公園を曲がると路地裏になり、そこを抜けると平坦な街並み。角から出ると大通り、交差点を越えるとタワーマンション。

 目印になる商店がぽつぽつとあるが、陣内は覚束ない様子だ。別段慣れても親しんでもいない他の町内だからなのか。

 キョロキョロしながら俺の斜め後ろをついてくる。来たはいいが帰りとなると方向を見失ってしまう。同じ道すがら辿ればいいと安直に考えるのは間違いだ。碁盤の目でなく放射状になったりランダムに街並みが変わるこの界隈では、ヘンゼルとグレーテルよろしくパン屑を蒔いたとしても迷ってしまう。近所のチビが泣きべそをかいてうろついているのも珍しくはない。

 待てよ、あの童話も結局は迷っちまうんだっけか。

「先輩がいてくれて心強いです!同じ迷子でも二人なら怖くないし」

「この年で迷子になるかよ。お前はもう少し考えて用心して出かけろよな。それにこの辺でも変質者が出るんだ、時々。近頃じゃ男だって油断はできねぇんだぞ」

「へえー!」大きく尻尾が上がる。「でも僕なんかそういう変な人には興味持たれない…あ、不良からカツアゲされるって危険度なら高いかもです!」

「何自慢気に言ってんだアホ」

「さっきは焦りましたよー。もし人違いで怖い人に話しかけてたらってドキドキしちゃいました」

「ま、そういう心掛けに越したこたぁねぇよな。お前、チビだし細ぇし弱っちそうにしか見えねぇ。自分から行くのは避けたがいいだろ」

「そんなもんですかね?」

 ああ、そんなもんだ。お前みたいな可愛いやつは、俺みたいなやつに襲われるかもしれねぇんだぞ。…俺は力ずくはしねぇけど、な。

「ん、そういや今更訊くがよ、俺はお前に用事が元からあったんだが、お前は俺に何の用事があったんだ?」

「なんか、朝と放課後、チャルメラ先輩が僕に言いかけてたことがあったじゃないですか?それが気になってたんです」

「たったそれだけかよ?アカデミー賞候補作並みの展開を期待してたんだが」

 肩をそびやかした俺の背中に小さな拳骨が打ち付けられた。

「笑わないでくださいよ!僕は、ただ毎日を大切にしたいだけなんですから。これは、僕の曲げられないポリシーなんです!」

 おいおいおいおいおい、ふざけるにしろ背中を叩いてくるなんて、いつの間にそんなフレンドリーになったんだ!?………という内心の動揺をひた隠しに隠す。

「大袈裟な奴だな。何だよそのポリシーっての」

「いいですかチャルメラ先輩」

 腰に手を当てて真面目ぶる狼人。

「僕達の一日一日は、決して同じものじゃないんです。普通なように感じられても、唯一無二で違う時間が流れてるんですよ。だから一日だって、一刻たりとも無駄にしていいことなんてない。心残りが無いように今を生きることって、簡単なようでいて難しくて、無価値なようでいてかけがえのないものなんです」

 言わんとすることは分かる。だがそれを若い奴が、どころか自分よりも年下(一年生だから13歳か)が口にすると言い知れない違和感がある。

「そんな重大なことか」

「勿論です!だから、先輩に会いに来たんです。先輩は僕の大事な人だから」

 空白が脳裏に広がった。と、やべぇ、気絶しかけてたか、もしかして。

「こっ恥ずかしいことを臆面もなく言うな」期待するなとしきりに抑え込もうとしても、つい唇の端がにやけてしまう。「軽い野郎だな」

「チャラいって思われても別に構いませんし?先輩が恥ずかしくても僕は平気ですもーん」

 眉をわざと吊り上げて、プイと明後日の方を睨む。そんな狼人は年相応なぐらいには子供っぽく見えた。

「いいんです!これはあくまで僕個人の考えですから。チャルメラ先輩に押し付けようとは思いません」

「お前もいいタマだな。俺に対してビビらずによくそんだけ吠えるもんだ」

「そりゃあ狼ですもん」アォォーン!と遠吠えをする。「初めて二人で話した時だって、先輩、口は悪いけど優しい人なんだなってすぐ分かっちゃいましたし。今だってこうして、僕のことうっちやっておけなくて面倒見てくれてるでしょ。放っておけばいいじゃないですか?うちまで送るだなんて、度外れて紳士ですよ。チャルメラ先輩って、先輩自身が思ってないんでしょうけど…」

 僕の父親みたいに誰かを見捨てるような真似をしない、誠実で厳しい人。

 だから、僕はそんな先輩を大事に思うんです。

 照れずにまっすぐ前を見て、陣内はニコッと頬を緩める。ウォーキングをするように肘を曲げてリズミカルに振りつつ、元気よく尻尾を振って。

「ば…」

 陣内の横顔。俺が見た今朝の淫らな妄想なんて、燃え尽きて消えてしまうほどすがしい。

「ば…、っの……」

 器用に持ち上がる片眉の下から、紫の瞳がワイン色の光を放つ。そろそろ暮れかけてきた東雲の宵の闇が、一層その美しさを際立たせる。

「どうせまた馬鹿!とか言うんでしょう。マンネリですよそれ、困った時に汚い言葉使うの。…僕は嫌いじゃないですけどね」

 なんで、お前はそんなに俺のことが分かってるんだ。なんでお前の眼はそんなに大きくツヤツヤ輝いてるんだ。なんでお前はそんなに率直で親しげに話しかけるんだ。

 俺を勘違いさせるな!

「死んでもいいな」

 本音が出た。そう、これが俺の今の本心だ。嬉しくて、満たされて、右隣にいる陣内の姿を見ているだけで、他のことはどうでも良くなってしまった。

「え!?聞こえませんったら!!」

「いちいち聞き返すな。るっせぇやつだな」自然に相手の頭に手が伸びた。ぽふぽふとその三角耳の間を叩いてやる。「うん、お前はうるさい」

 うるさいって、その言い方はひどいですな!とおかしな言い方で反抗してくる。

「夕辰、俺はお前が好きだ。お前はいい奴だ。それにいい後輩だ。………ちょっとうるせぇけど、な」

 憤慨にぷりぷり膨らんでいた面がしぼみ、ポンと笑顔が咲いて出た。目まぐるしい変化に彩られた表情は、ずっと見ていても飽きない。

「俺のことをそんな風に気にしてくれたのが嬉しいぜ。…学年は違うがよ、お前と同じ中学オナチューで良かった。しみじみ実感してるとこだ、改めて…な」

 てへっ、と効果音がつきそうな照れた様子で顔をこする陣内。それから胸を張ってこう言った。

「いいですか先輩?普通、褒めるのは最後なんですよ。うるさいって、それは欠点でしょ。先に落として後で上げる。盛り上がる会話の基本のきですからね、覚えといて下さい」

「前言撤回。あーうぜーうぜえ、おっまっえ、マジで生意気だしうぜぇな!いい加減そっちこそ口を慎みやがれこの一年坊主め!!」

 俺が腕を振り上げると逃げるように先に行く。それを追う。肩口を捕まえる。引き寄せる。

 頭をぐしぐしとこじり、こめかみをギリギリ握りつぶす。顔をしかめ、痛いですと訴えられる、でも離してやらない。その表情が俺の心臓をくすぐってくるからだ。

 うるさいってのは、煩い、煩わしいって漢字で書くだろ。煩わしい、つまり俺にとってのこの感覚は___

 恋煩い、なんだぜ。

 お前、俺。それと、距離感。この三つがそろうと条件が満たされて恋の火花が散る。…言ってて歯が浮いて宇宙に飛んで行きそうな科白だ。しかし、これが事実。

 一方的に俺が燃焼してしまうんだ。気化したガソリンに火が点くより激しく、水素と酸素が反応するように簡単に。

 あとに幸福感を残して。

「うわ、先輩これ!どうしたんですか!?」

 突然何のことかと思ったが、陣内は自分の豚人の鼻がしらを掻いている俺の拳先を、眼を見開いてまじまじと観察している。

 う。しまった、壁殴りの傷のことがすっかり頭から抜け落ちていた。血小板の凝固に充分な時間が経過して、乾いたウンコみたいになった血塊を爪でバリバリこそげ落とす。

「あー、これは、そうだな、別になんでもねぇ」

「チャルメラ先輩!!」

 狼人はポケットに突っ込もうとしたこちらの腕をしっかりホールド、関節まで軽く捻って動きを封じ込んでくる。隙も無駄もない所作に正直度肝を抜かれた。

「馬鹿言わないで!黴菌が入ったら大変ですよ。先輩の手は大事な商売道具なんでしょう?手当てしますから、うちに寄ってって下さい。ね!!」

格下から馬鹿呼ばわりたぁ、舐められたもんだな。…けど、まぁ…

「…いいだろ。ちょっとだけ、な」

当然だと重々しく頷き、陣内は今度は優しく俺の手を取る。それはいいのだが、ガードレールに二人して近づく姿勢になるので、少しだけ俺は相手を引き寄せた。

「車が来て危ねぇ。もうちょいこっちに来いよ」

 陣内はそうですね、と慎ましく従う。さっきのあれは何の動作だと尋ねると「満っちゃんとプロレスごっこをよくやってたから、ああいうの、実は得意なんですよ」とはにかんだ。

「意外…でもねぇか。そもそもが武道ってのは、非力な奴が自分より腕力のある奴に立ち向かうためのもんだもんな」

 誇らしいような、恥ずかしいような、その中間地点の微笑で相手が黙る。俺も、無駄な言葉でこの沈黙を汚したくない。豆腐の移動販売の自転車がふらりと通り過ぎ、哀切なパーフーだけ残していく。

 なんとも心地良い雰囲気に包まれて、俺はハタと思い当たり、振り返った。こうすると、もしや…

 やっぱり、そうか。

 俺たちが上ってきた丘の斜面。背後に広がる俺と陣内の影が、いい感じに重なっている。そう、まるでピッタリくっつく恋人同士みたいに。

 それを確かめ、俺は満足して陣内に手を引かれるまま歩いた。

 俺の感情の温度は発火点を超えてしまった。もう先へ進むだけだ。身も心も灼かれてしまえ。後先なんて構うか、ぐじぐじ悩むのも性分じゃねぇ!

 たまたまかもしれねえ、間違いかもしれねえ、それでも俺はこの野郎に惚れた!

 ___こんな風にして、俺の魂はこの日から燃焼を始めた。


 そして更に刻の河を下り、8月19日、夕方。

 俺は準備万端整えて、陣内家の電話に連絡を入れる。

 さぁ、祭りの頃間ころあいだ。町内のあちらこちらで上がるお囃子の音が、花火の舞台のファンファーレとなる。

「行ってくる!」

 気合いを下っ腹にぶち込み、俺はとっときの(とはいえ兄貴達のお下がりの)浴衣を着て玄関を出た。

 そして、俺達は___陣内と俺と、あと一人の運命が、この日から更に深く複雑に交わり始めることになる。



つづく

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幻想の普通少年 鱗青 @ringsei

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