第4話 ええい、バラしちゃえ


 ここらで明らかにしておかなければならない。もう気づいたかもしれない。時折、登場する「絶好調」の正体を。その正体は、うつ病の症状だったのである。そもそも仕事をしていて、全くミスはしないというのからして、不自然。仕事はバリバリではない。ミスを繰り返すというほどではないにせよ、結構多い方だ。それに抗うつ薬を切らすと、途端に眠れなくなる。最近では一晩くらいだったら耐えられるようになったが、切らした時は眠れぬまま布団の中で輾転反側をしているのがどれくらい苦しいことか。

 この症状に付きまとわれてから、10年くらいになる。大学院に在籍していた私だったが、学部時代の大学と大学院時代の大学は距離は近いとはいえ、全く、スクールカラーも違い、学生達の質も違っていた。どちらが偏差値的に高いということもなく、ほぼレベルは似たり寄ったりの大学だった。だが、確実に何かが違った。片方の大学は比較的おっとりとした学生達が多かったが、もう片方はジャーナリズムに多くの人材を供給しているせいか、「自分が、自分が」という学生が多かったように思う。私のような、「うつになりやすい」性質の人にとって、このような環境の違いは危険である。何事も物事を真剣に考え、悩む私のような人間にとってこのような環境の変化は要注意のサインだったのだ。

 加えて、指導教官との相性も良いとはいえず、手っ取り早くいえば、放置状態だった。なかなか、指導教官の研究室に足を向けられる雰囲気でもなく、気安く相談できるという雰囲気ではなかった。ゼミの際は、やむなく重い足取りで研究室に向かったが、私にとってまだ未知に等しい言語のテキストを読んでいく、私にとって苦痛でしかなかった。少しでも読めるようになろうと時間があれば、院生室にこもって辞書片手にテキストと格闘する日々が続いた。先輩は2名いたが、一人はほとんど大学自体に出てこなかったので、もしくは私と同病のムジナだったのかもしれない。もう一人は性格のキツい人で、その割には仕事は人に投げる、そのくせ口は出しすぎじゃないかというくらい出す。その人は周りの院生からも若干敬遠され気味だった。いかにその人の感情の地雷を踏まずに話をするかということに皆、神経を使っていたような気がする。風の噂に、博士課程に進学したということなので、あれくらいの神経じゃないとやっていけないのかもしれないとも思う。

 そんな感じだったため、自分の居場所はここではないだろうと考え、就職活動はしておいた方が良いだろうということで、就職活動を開始した。ただここで気持ちの切り替えをしっかりとしていなかったため、痛い目に合う。象牙の塔に篭ろうとしていた気分、そのままで就職活動に突入してしまったのである。ここでしっかり社会に出て働くことや自分の適性について、しっかり悩んでおくべきだった。そういうことについて、他人に語れるくらいのものを持って就職活動に臨むべきだった。それをしなかった。結果、どのようになったかはいうまでもなかろう。学力を測る試験ではそこそこの点数を叩き出すものの、面接の方でトンチンカンな受け答えをし、結果不採用。

 肝心の修士論文もなかなか構想がまとまらない。やろうとしていたテーマもほぼ一蹴されるような感じで、その時のやりとり−詳しくは覚えていない−ですっかり修士論文に対する意欲も削がれてしまった。

 そんな何もかもが行き詰まる中、ある企業の採用面接の帰り、「多分不採用だろうな」という気持ちを引きずった状態で、都内のとある書店に入った。自己啓発書の一つでも読んで、次の会社の面接に備えようとしていた私だったが、自己啓発書の特徴として「Aすれば上手くいく」という本と同じ棚に「間違ってもAはするな」という本が並んでいるのである。普遍的な真理などないのだな、ということを教えてくれるのだ。

 そういった自己啓発書の側に、メンタルヘルス関係の書籍が並んでいる。何気なく、眺めてみる。「辛い気持ちが2週間以上、続いていればそれはうつ病」、「気持ちが落ち込む、眠れない、頭痛、体のだるさがうつ病の特徴」…。「真面目で頭の良い人ほど、うつ病にかかりやすい」。今の自分を表現したような文句が並ぶ。もしかして、もしかして、うつ病か? 私は。その中の一冊をとってページをめくる。読めば読むほど、今の自分を表しているように思われる。

 そして「うつ病は心の風邪」、「うつ病を放置しておくと、最終的には自殺に至る」。あらかじめ断っておくが、「うつ病は心の風邪」というのは、やや誤解を招く言い方である。「風邪」という、人によっては気にもかけない体調の異変でうつ病を説明しようとするところに無理があるのだ。つまり「風邪」なんだから、放っておけば治る、少し休めば治るといった偏見、あるいは「気合が足りない」という根性論で片付けられかねない。

 1ヶ月で会社に復帰した例も確かにあるが、反例も事欠かない、10年もつきまとわれている私が良い例だろう。そして根性でどうにかなる病変なら、そもそもその人はうつ病ではない。根性でどうにかならないから、その人は自分自身の「弱さ」に絶望し、自らを責め続けているのだ。あとで聞いた話だが、うつ病は、「身体」や「精神」がおかしくなったのではなく、「脳」の認知機能に歪みが生じてしまったために起きる病気なのだ。

 このことはさておき、修士論文の中間発表の時期が近くに迫っていた。先ほども述べたような状態だから、構想なんてあるわけがない。時間だけがただ、過ぎていった。中間発表が明日に迫ってくると、先ほど述べた症状がますます酷くなってくる。何も準備ができぬまま、ベッドに入る。するとどうだろう。頭の中が「死ぬしかない」という言葉で占拠されてしまったのだ。もしかしたら口に出してつぶやいていたかもしれない。今思い返してみれば、滑稽そのものなのだ。要するに体調が悪いから明日の発表は延期してほしいということを指導教官に伝えればいいだけの話なのだが、相当、指導教官に対する恐ろしさというものが先行していたらしく、翌朝早くになるまでそれを思いつけなかった。

 翌日は体がだるくてだるくて動かない。一日中、ベッドの上で横になっていた。そういう私を家族は、何も言わずに見守っていてくれた。これだけはありがたかった。それにしても、これはおかしい。本格的にうつ病ではないか。この「死ぬしかない」発作が私の場合、自室のベッドという、ある意味とても安全な場所で起きたからよかったものの、これが駅や路上で起きたらどうだろう。一時の安楽を求めて、線路なり道路なりに飛び込んでしまっていたのではないか。これは、どうにかするしかない。重い体を引きずりパソコンで近所の心療内科・精神科を探した。そのあと、歩いて行ったか、自転車を使ったかはあまり記憶が定かではない。そもそも家族と行ったか、一人で行ったかもはっきりと覚えていない。ただあとから聞いた話だと、父がうつ病について医師(今もお世話になっているかかりつけ医だ)の話を聞いたことと、父としては転地療法的な発想で北海道辺りへ僕をやろうとしていたことらしいことは聞いた。環境の大きな変化というものがNGなうつ病に対する対処としてはあまり良くない発想だが、それもありがたかった。

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Mental High John Doe @michy_gandr

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