第5話 蝉
昨夜の精霊流しは小雨の中で行われた。
いつもなら街中に鋭い金属音をたてて響き渡る爆竹の音も、昨夜は湿って勢いがないように思えた。
十二時を過ぎた頃から、雨は激しさを増し、仮の住まいと決めた安アパートの瓦屋根を激しく打ち叩いた。
激しい雨音は、長崎を襲い中島川に架かる眼鏡橋などを流してしまった長崎水害を思い出していた。不安で浅いうたた寝の後、固く眩しい朝の日差しで目を覚ました。
一夜明けると一変して、天気は回復し蒸し暑い日になっていた。
朝のニュースで県庁周辺の各通りで爆竹の破片をかき集める清掃員の姿が放送された。不発の爆竹が多く混ざってるということで、集積にも気を遣うという内容だった。
アパートの前の通りにも湿った爆竹の破片が散乱していた。
とにかく昨夜は屋根を叩く雨の音で眠れなかった。このまま寝不足のままタクシーの運転をしたのでは事故を起しかねない。会社に事情を話し、午前中だけの休暇を取ることにした。
蝉が庭の木の幹で、永遠に続くような平坦で単調な鳴き声で鳴いていた。蝉の鳴き声は眠気を誘った。
一人で、青いススキの野原をさまよい歩いていた。天には赤色の月がこうこうと輝いている。
視覚以外のすべての感覚は失われていた。
風が吹き青いススキが一斉になびくが音はしない。
ススキが足に絡み付く。
しばらく歩いている内に、遠くの方にキラキラと輝く不思議な物体に気付いた。
すさまじい恐怖を感じるが、その物体は自分の気持ちとは関係なく近づいて来る。
夢の中では退こうにも退けない。
それは、やがてはっきりと姿を現す。
黒雲母のように美しい光沢で冷たい光を放つ球形の造形物である。
私は夢の中で、それがファット・マンと呼ばれる長崎の浦上天守堂の上に、アメリカが落とした旧式の原子爆弾であることに気付いた。
背筋が寒くなった。
ファット・マンの傍で、女が動いている。 一糸まとわぬ露な姿である。腰まで伸びた長い黒髪を風になびかせている。女は先端に頬ずりをし、両手でしがみつき抱きついた。ファット・マンと釣り合う筈もない小さな女の身体が夢の中では巨大化していく。
「好き。好き」
溜め息の混じった小さな声でささやいた。
「たくましい、たくましい、あなた。
美しい、美しい、あなた。
そんなあなたが誰よりも好きなの。
あなたは神。愚かな男たちを縛りつけることのできる唯一の神」
まだ、音感も定まらない新人歌手が歌う下手な唄に乗せて女は囁いた。
振付けもぎこちなかった。
でも、女は笑いながら、ほんのりと赤身のさした身体を蛇のようにくねらせ、冷たい無機質の鉄の固まりに絡ませた。
「そんなあなたが好き。あなたと交わりたい」
女の声はロマンチックで甘いものに変わっていた。
うるんだ目の視線は勃起したペニスのような起爆装置に注がれていた。
恐ろしい予感を感じた。
「やめろ。やめろ」と叫んだ。
叫び声は音にはならず、空しく空気を震動させるだけであった。
女が行為を始めた。
尖光が走った。
閃光を避けようと目の前にかざした手の指が透けて骨が見える。
衝撃波が走り、草を根ごと持ち去った。
失った聴覚に関係なく、耳の奥の鼓膜が不気味に震動した。
キノコ雲が勃起するペニスのように、雲を裂き立ち上がった。
雲が引き裂かれ青空が広がった。
青空と静粛が、すべての終わりを告げた。
しかし、意識を失った後も苦痛は永遠に続くようであった。
蝉の鳴き声が一瞬、途絶えた。
私は平和を祈り、けたたましく打ち叩かれる天守堂の鐘の音で、浅い眠りから目を覚ました。庭の木々に今日、地中から湧いたばかりの蝉が木の枝に鈴なりに群がり啼いていた。
目覚めた町には蝉の鳴き声だけが響き、昨夜の祭りの狂騒に疲れたのか、人々の生活臭のする物音はなく静寂に包まれている。
風もなく、暑い熱気が周囲の山に閉じこめられ、町中によどんでいる。
あの日も、今日と同じ静寂が町を被っていたに違いない。
朝から付け放しになっていたテレビは最近の国際情勢と軍事力について討論を終了し、今年の前半期に活躍した新人歌手の唄を紹介する番組に変わっていた。
とにかく、とんでもない夢を見た。
「あなた、世界には人類を、二百回全滅させても、まだ十分に余る核爆弾があるのですって。怖いわ。いつになったら、こんな時代が終わるのかしら。みんな他にやることはないのかしら。やらねばならないことは他にあるはずなのにね。サトルが大人になる頃には変わっているかしら。それとも人が互いに殺し合う戦争は永遠に無くならないのかしら。生存競争のせいかしら。母が子供を求める間は平和は来ないのかしら。母の愛情が戦争を起こすなんて、皮肉よね。
それにしても人間って馬鹿よね。自らを滅ぼしかねない、あんな恐ろしい物を競争までっして造り続けなんて。そんなことに知恵を注げる余裕もないはずなのに。そんな馬鹿な人間にあんな恐い物が管理できるのかしら。アッカンベーをした博士がテレビに出て、『宇宙も無限だが、人間の愚かさも無限だ』と言っていたわ。あの博士はアッカンベーをしたまま死んでしまったのかしら。あの写真が博士の遺影だったのかしら。彼は人間に愛想を尽かしてアッカンベーをしたのかしら。あの博士は偉い人だとテレビは紹介していたけど、原子爆弾のような恐ろしい物を人間が手にするために貢献したのでしょう。きっと悪魔の手先だったのよ」
と妻は生まれたばかりの息子をあやしながらのべつもなく喋り続けていた。
この彼女のこのつぶやきのせいで見た夢だろうか。それとも昨夜の雨の音と爆竹の音、そして今朝のテレビのせいだろうか。
その妻も息子と一緒に平和で静かな寝息を立てて、寝入ってしまっていた。
きっと今日だけの不安だ。明日になれば、原子爆弾などと縁も関係もない平凡な生活が始まる。
これまでも私の予感は外れたことない。
そう自分に言い聞かせて、薄い布団から這い出した。
風の物語 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru
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