第4話 糸電話
昼から降り始めた小雨が雪に変わった。
ただでさえ、雪国の冬の夕暮れ早い。まだ四時だと言うのに雲が光を遮り外は薄暗い。
妻と息子が姿を消し半年が過ぎた。二人が姿を消して物置のようになった部屋には帰りたくなかった。
警察の廊下のベンチに座って待っていると、陰口を聞くことが多くなった。
「また来ている」
「本当に本人も行方を知らないのかね」
露骨な言葉である。すでに自分も疑れていることの気付いていた。
「自発的に姿を消したのと違うか」
「駅前で主人の帰りを待つ忠犬ハチ公のようだ」
「一生懸命やっているんだ。今夜はクリスマスイブだというのに残業だよ」
粗末なベンチに腰掛ける自分を見下し通り過ぎていく彼らの疲れ切った目は日々の激務を雄弁に語っていた。
その日も、いつものように警察署の廊下にあるベンチに座り、時間を過ごした。
どのような些細な情報も聞き漏らしたくなかった。良い知らせが飛び込んでくるかのような不思議な安堵感を感じた。
だが一晩を過ごすことが出来る訳ではない。話相手のない部屋に帰るとテレビのニュースを見て過ごした。妻と息子が事故に巻き込まれたのではないかと思うからである。特に不審な遺体発見のニュースには強い関心を抱いた。
二人が姿を消した日の夕方、妻は息子を連れて買い物に出掛けていた。だから仕事から帰った時、その日は、二人が家にいなくても不安を感じなかった。だが、それ以来、二人は帰らなかった。
刑事に聞かれた時、そのように説明した。
二人が姿を見せなくなった前の夜、紙コップで作った糸電話で息子と話をした。
その糸電話が蛇がとぐろを巻くように床に転がっていたが、突然、目の前で弾けるように動き出した。
慌てて、手に取ると、糸電話から息子の声がした。
「もしもし。パパ。今日もママと二人で買い物に行ったよ。そして、今日もアイスクリームを食べたよ」
そんなたわいもない会話だった。
そばで笑っていた妻が聞いてきた。
「ねえ、結婚して何年になるか覚えている」
「五年かな」
と答えると妻は笑って、もう六年も経ったのよ、サトルが生まれて三年よ。
知っていた。だけど正直に答えるのが照れ臭かった。
「この子が二十になった時、自分が六十四才で、君は六十才になる。小学校に入る頃には、僕は五十才だよ。運動会で他の若い親と一緒に走れるかな」
妻はそんな心配を世間では沢山、そんな人がいるよと笑って許してくれた。
「恨みを買うことはなかったか」
刑事に聞かれた時も、そんなことも些細な事よ忘れた方がいいという妻の言葉を思い出しながら、心当たりがあると答えた。
「妻を恨んだことは」
刑事の意地の悪い質問に、六年前に二人が夫婦になった時のことを思い出した。入籍する直前にやっと自分の過去の傷を打ち明けることができた。
「聞いていました」
その言葉に自分は涙ぐんだ。
ささやかな幸せを手に入れた瞬間だった。
そして、一生、この気持ちを忘れまいと誓った。
「妻と息子が姿を現わすまで待ち続ける」と刑事に誓った。
半年前のことである。それ以来、事情は変わっていない。
警察署から帰ると、妻がサトルのためにと買った小さなクリスマスツリを押入から出した。
ソファーに座ったまま、うたた寝をしてしまった。
アルコールのせいだろうか。
飾り付けたクリスマスツリーと部屋が大きく歪んだ。
暗闇の中でクリスマスツリに飾られた赤や青の小さな電球が星のようにゆらめいている。
突然、床の上に転がる糸電話が生き物のように振動し、ベル音を発した。
反射的にそれに飛びついた。握りしめた指の間から、「もしもし」と呼び掛ける息子の声がかすかに聞こえてきた。
堅いトイレットペッパの芯を耳に当てた。
「パパ、元気」
耳の奥にこびり付き、忘れたことのない声だった。
「パパ。今夜も一人でとっても寂しそうだね。駄目だよ、身体を大事にしなければ。ママも心配しているよ」
糸電話を口に当てた。
「何処にいるの。サトルは寂しくないか」
「寂しくない。ママと一緒だから。
パパ、僕たちのことで人を恨まないでよ。ママが、そう言ってたよ。僕とママは一緒で幸せだから」
「パパは寂しいよ。一人では気が狂いそうだ。サトルとママは何処にいるの」
サトルはしばらく答えなかった。
そして内緒話をするように小さな声で言った。
「パパに姿を見せないとママと約束して電話をしたけど、パパが可哀想だから教えて上げるよ。窓の外を見てごらん」
窓のかけより、まだ衣替えもしていないしていない薄い夏用のカーテンを開けた。
黄色い外灯の中で白い粉雪がシンシンと降っていた。
白い粉雪は微かな風に揺れていた。
車のタイヤが埋まるほど、雪が積もっていた。
二人が姿を消した時には赤いサクランボの小さな実を付けていた公園の木の枝にも雪か積もり、枝がしなっていた。
雪がこびり付いた公園の緑の金網を背に、サトルが糸電話を握った手を振っていた。
息子は視線で導くように金網に囲まれた公園の一角を指さした。
ベンチに妻の後姿があった。
公園のブランコが微かな風に揺れていた。
姿を消す半年前、真夏の暑い日差しの中で、サトルがブランコで遊ぶ間、妻は、そこに座り、見守っていると言っていた。
細い肩が寂びしそうだった。シンシンと降り続ける雪の中、肩が微かにj震えているようにも見えた。
「パパ。ママは毎晩、ここでパパを見守っていたんだ」
「すぐに行く。待っていて」
「来なくていいよ。さようなら」
幼い息子は激しく拒絶した。
と言って、サトルは小さな手を振った。
二階から階段を転げ落ちるよう駆け下り外に飛び出し、妻と息子を思い切り抱きしめた。
「やっと一緒になれたね」
妻と息子を抱きしめた。
寒さで麻痺しかけた脳内で堅く閉ざされいた記憶がセピア色に弾けた。
あの真夏の暑い夜、おぞましい悪夢にうなされていた。多くの衆人の前で侮辱した男の胸ぐらを掴み、思い切り彼のみぞおちに拳を突き立てた。
柔らかい拳のショックに目覚めた時、息子はすでに絶命していた。
異変で目覚めた妻は狂乱した。悲しみから救うため妻の細い首を絞めていた。妻は逆らうことなく身を委ねた。そして静かに息絶えた。
凍える中で様々な嫌な想い出や悲しい想い出が脳裏を掠め流れていった。
「束の間の幸せだったね。有り難う。また三名一緒に暮らせるね」
雪は小降りになり、雲も薄くなり、柔らかい月の明かりが地上を照らした。
静かに雪面を吹き過ぎる風が、薄い雪をかき集め、僕のまわりには深い吹きだまりが造った。
翌朝、僕は公園の片隅で白い薄い雪の布団に包まれて凍死していた。
一陣の風が吹き、雪の薄い場所にマンホールの蓋が姿を露わにした。
警察犬は、すぐに異臭をかぎつけた。
早朝から駆け付け、現場を確認していた刑事たちは、あの夜に僕たち家族に起きた出来事に始めて気付いた。
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