秋、夕暮れ  side:teacher

 プロポーズの時には、百本のバラが欲しい。

 そう、目を輝かせて語った女とは一ヶ月年前に別れた。俺の話しだ。

無口で、無表情で、無愛想な俺。そんな俺に、あいつは何を求めていたのだろう。何を期待して、三年間も「有名私立高校の教師の彼女」という肩書を守っていたのだろう。金か。それとも、他の女への優越感か。考えただけで反吐が出る。

 目の前に生徒がいるというのに、テストの採点をする手をとめて、叫びながら全てを投げ出したくなる。生徒がいてもいなくても、そんなことを実行するほど子供ではないのだけれど。

 そんな俺の気も知らないで、そいつは、長い睫に綺麗に縁どられた透明な眼で俺を見つめている。

 視線を合わせないように、テストの解答用紙を次のものにする際にそちらに視線をやった。

 胸のあたりで切りそろえられた癖のある髪の毛を見るだけで、首筋がむず痒くなる。唐突に、あの時の感覚が思い出されるのだ。

 俺は知っている。

あいつの手や足が、想像以上に小さいこと。

頼もしく、信頼できると思っていた背中が、とても華奢で、すぐに壊れてしまいそうなこと。

時折見せる弱気な顔が、小さい子供のように純粋なこと。

俺を見つめるその瞳は、硝子のように、どこまでも透明で、儚くて、輝いていること。

 そんな生徒が、俺は。

 全ての問題を採点し終えて、点数を出すために電卓をたたく。昔から、数学が苦手だった。答えが一つしかないなんて、面白くない。

「終わりましたか?」

 俺の手元を見ながら言う。

「あぁ」

「満点は?」

 小学生が、親にテストの点数を自慢する時のような口調に、思わず吹き出しそうになる。それを悟られないように、声音を低くして答えた。

「お前だけだよ」

 そう言われた彼女の顔は得意気で。これが漫画ならドヤ、といいう効果音が付きそうだ。

 生意気な。

彼女に対して、時々思う。それは、今回のように勉強に関することだったり、そうじゃなかったり。一番腹が立ったのは、休日にあいつに遭遇したときだ。あいつはヒールの高いパンプスを履いていて、俺の目の前にやってくるなり、「今日の私、先生より身長高いですね」とだけ言い残してその場を去って行った。

 思い返しただけで腹がたってくる。

「毎回毎回、どうやってあんな問題解いているんだ? カンニングか?」

 そうじゃないことは、俺が一番良く知っている。

「だったらどうします?」

「大学の推薦取り消しだな」

「それは困りますね」

 そう言って、肩をすくめる。

「そもそも、私しか解けていないのにカンニングな訳ないでしょう」

 挑発しているかのような顔が、頭にきてつい言い返してしまう。

「いや、もしかしたら職員室に忍び込んで解答を……」

 彼女の肩が小刻みに震える。

「何だよ」

「いえ、現実主義の先生らくしないなと思って」

 眉をハの字にして、目を細めて笑われる。

俺は、こいつのこの顔に弱い。

「悪かったな、子供っぽくて」

 顔を見ているのがつらくなって、視線を外す。

「そんな先生も好きですよ」

 目を合わせないまま、横顔に聞きなれた言葉を浴びせられる。きっと俺は、いつまでも本気にしてやれない。

 どれだけこいつが俺のことを好きかわかっていても。本気だと心のどこかではわかっていても。こいつが卒業して、高校生じゃなくなってしまっても。将来、どれだけ綺麗な女性になろうとも。俺と生徒は、永遠に、どうしようもなく先生と生徒だから。

 左手首に視線を落とすと、針が真っ直ぐになるところだった。

「もうそろそろ下校時刻だろ」

 そう言いながら、テスト用紙をまとめてファイルに突っ込む。

「下校時刻まで付き合わせた教師は何処の誰ですか」

「此処の俺だよ」

「全くもってその通りです」

 嬉しそうに答えて、立ち上がり、鞄を肩にかけて、ドアへ向かって歩く彼女。俺はその後ろを追う。

「送ってくれるんですか?」

 教室の鍵をしめる俺の背中に弾んだ声が覆いかぶさる。

「校門までな」

「ケチ。この前は家まで送ってくれたのに」

「それはそれ」

「これはこれ」

「そうそう」

 飲み込みの良い子は好きだぞ、という言葉は飲み込んで言う。期待させるだけ期待させる、とかいうクズみたいな真似はしたくない。自分が散々されてきたから。

 彼女曰く、俺は彼女と二人きりだとよく喋るらしい。それは、彼女の存在が空気のように自然で、居ても気にならないくらいに気をゆるしているから、とは言えない。そんなニュアンスを含めての、「お前は存在する感じがしないからな」だ。それに対する彼女の返答は、「私は幽霊じゃないです」頬を膨らませて、怪訝そうな顔をして、そう言っていた。

 夕日が差し込んで橙色に染まった廊下を、彼女が半歩後ろを維持しながら付いてくる。廊下の突き当たりにある階段を降りたあたりで、彼女が付いて来ていないことに気が付いて振り返る。

 彼女は、階段の一番上の段に立って俺を見下ろしていた。

「おい」

 呼びかけても返事はない。ただ、長い睫を伏せて、悲しそうな、少女が泣き出してしまう寸前のような顔をするだけだ。

「どうした?」

 彼女の視線が、ほんの少し揺らいでから、足元に落ちる。そのまま無言で階段を下りて、口角を上げて、いつもの、何でもないときの顔で、

「なんでもないですよ」

 と答える。

 その華奢な体を抱き寄せたくなる衝動をこらえて、短く、そうか、と返事をして再び歩きはじめる。

 あの顔は、反則だ。

 ただ、笑うでもなく、泣くでもなく。目を細めて、口角を上げて、首を傾げる。そうして、下から覗き込むようにして話すのだ。

 その仕草が、とてつもなく愛おしいということは、俺しか知らなくて良い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リナリア 色町 司 @_iromachi_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ