リナリア
色町 司
秋、夕暮れ side:student
プロポーズの時には、百本のバラが欲しい。
そう、目を輝かせて語った彼女とは一ヶ月前に別れた。先生の話だ。
無口で、無表情で、無愛想な先生。そんな先生に、彼女は何を求めていたのだろう。何を期待して、三年間も先生の一番近くに居座り続けたのだろう。
先生は今、私の目の前でテストの採点をしている。
大して顔の造りが美しい訳ではなく、かと言って決して不細工な訳でも無い。背もそれほど高くなく、服は無難なものを好み、無機質な黒縁の眼鏡をかけている。
けれど、私は知っている。
先生の手や足が、思った以上に大きいこと。
小さく見えていた先生の背中が、とても頼もしいこと。
時折見せる笑顔が、少年のように無邪気なこと。
私を見つめるその瞳は、宇宙の様に、どこまでも深くて、綺麗で、果てがないこと。
私は、そんな先生に、三年間も片思いをしていた。
先程までリズム良く回答用紙の上を動いていた先生の手が止まる。採点が全て終わったのだろう。
「終わりましたか?」
「あぁ」
「満点は?」
「お前だけだよ」
不機嫌そうに、そう呟く。
先生は、古典の先生だ。現代文も教えているが専門は古典らしい。私は、先生の教えてくれる現代語訳が世界で一番好きだ。参考書のように変に折り合いをつける事なく、原文の美しさをそのまま生かしている。それを、綺麗な手で、綺麗な文字で、白みがかった黒板に書く、先生の背中が好きだ。
「毎回毎回、どうやってあんな問題解いているんだ? カンニングか?」
「だったらどうします?」
「大学の推薦権取り消しだな」
「それは困りますね」
そう言って、肩をすくめる。
秋の冷えた風が窓から入り込んで、私の頬を撫でる。もう、冬がそこまで来ている。
「そもそも、私しか解けていないのにカンニングな訳ないでしょう」
「いや、もしかしたら職員室に忍び込んで解答を……何だよ」
「いえ、現実主義の先生らしくないなと思って」
緩んだ口元をそのままに答えると、先生が口を尖らせる。比喩ではなく、本当に。
「悪かったな、子供っぽくて」
「そんな先生も好きですよ」
目を合わせてくれない横顔に言う。きっと先生は、いつまでも本気にしてくれない。
それだけ月日が経っても、どれだけ私が歳をとっても、先生が死んで、私が先生の年齢に追いついても、生まれ変わっても、私と先生は、永遠に、どうしようもく、生徒と先生だから。
「もうそろそろ下校時刻だろ」
「下校時刻まで付き合わせた教師は何処の誰ですか」
「此処の俺だよ」
「全くもってその通りです」
立ち上がり、鞄を肩にかけて、ドアへ向かって歩く。後ろから先生の足音がする。
「送ってくれるんですか?」
「校門までな」
「ケチ。この前は家まで送ってくれたのに」
「それはそれ」
「これはこれ」
「そうそう」
教室に鍵をかけながら語尾を弾ませて答える。先生は、私と二人きりだとよく喋る。先生曰く、私は存在する感じがしないらしい。生気が感じられない、ということだろうか。私としては、先生の隣にいる時が一番生きている実感がしているのに。
夕日が差し込んで橙色に染まった廊下を、先生の半歩後ろを維持しながら歩く。先生の白いシャツまで夕日に染まって、なんだかレトロな雰囲気の写真が撮れそう、とは言わずに心の中にしまっておく。先生は、写真を撮られるのが嫌いだから。
先生は私の方を振り返ることなく無言のまま、角を曲がって階段を下りる。
今、ここで。先生が階段を降り切ってから、先生に向かって階段の上から飛び降り――いや、つまずいて可愛らしい悲鳴を上げながら階段から落ちてしまい、偶然先生の腕の中におさまって、良い雰囲気になったら。吐息がかかる程の距離に、私と先生の顔があったら。
そんなこと、ある筈が無いのだけれど。でも、ある筈のないことを望んでしまうのって、人間としての習性だと思う。あり得ることは、望まなくても勝手に起こる。
「おい」
階段の上から降りてこない私にようやく気が付いたのか、先生が立ち止まり、振り返る。
「どうした?」
どう、と言われても。
何て答えようか迷って、視線を足元に落として、無言のまま階段を下りて、先生の前に立つ。そうして、顔を上げて、口角を上げて、何時もの顔で
「なんでもないですよ」
と答える。
先生は、そうか、と短く返事をして、再び歩きはじめる。
先生の耳が赤く染まっているのは、夕日の所為なのか、そうじゃないのか。
そういうところも、好きなんだけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます