西の空が朱々と染まりはじめる。

 潮騒の響きが聞こえてきそうな茜雲の波が打ち寄せる。


 できるだけ長く一緒にいたいから、帰り道は自転車を押して歩く。

 どうしてこんなに、しゃべることや笑うことが、あたしたちにはあるんだろう。

 考査前なんだけど。英単語の追試もあるんだけど。

 ――今夜こそ頑張ろう。


 自転車の前籠には、タオルにくるまった子猫が無防備な姿勢で眠っている。

 校庭で見つけた野良猫を家で飼いたいと言ったら、権平先生が今日一日預かってくれたのだ。


 放課後、理科準備室に引き取りに行くと、すっかり懐いた子猫の喉を、ごつい指がくすぐっていた。


「名残惜しいなあ」


 語尾が、にゃあ、になりかけている。あなたもそんなに猫好きだったのか。


「この背骨のラインが可愛いですよねー」


「可愛いよなあ。この眉毛がまたなー」


「ときどき連れて来ますよ」


「やめてくれ。仕事にならないから」


 権平先生が濃い顔をくしゃくしゃにして笑った。

 心の距離が一気に縮んだ。


 それにしても。

 うちのマンションの規約が「ペット可」に変わっていて本当に良かった。

 当節は「ペット可」でないと中古マンションが売れないそうで、長年のペット禁止規約が一昨年あっさり改正になったと、母が苦々しげに言っていたっけ。

 猫を連れて帰ったら、ユキリンがどんなに喜ぶだろう。

 うちのおにい、受験真っ只中だけど。


「時雨。猫の名前決めた?」


 陽蕗子が訊いた。


「うん。リンにする」


 正しくはリン・ザ・サード。


「ボーン! じゃないんだ?」


 また三人で笑う。


「さっき、違う名前で呼んでなかったか?」


「あれはカッコ仮」


「なんじゃ、そりゃ」


「リンかー。いいじゃん。可愛い!」


 陽蕗子は必ず褒めてくれる。




「――あのさ」


 あたしは唐突な相談をしようとしていた。


「ウチのクラスに白銀しろがねりんて、いるじゃない?」


 二人が顔を見合わせる。


「今日来てたよ、白銀」


 と青深が答えた。


「え、ホントに?」


「朝礼だけ来て、すぐ帰ったんだって」


「てめえが遅刻したから、私等だけ会えなかったんだよ!」


 青深がこぶしをちらつかせて威嚇する。


「うえーん。ごめんなさい。もう殴らないで」


 本日あたしは満身まんしん創痍そういです。


「明日から基本普通に来るらしいよ。選択科目は美術だって」


 陽蕗子が、女子力を発揮して収集した追加情報を添付する。


「美術なら、時雨と一緒だな。面倒見ろよ」


「うん。頑張る」


「白銀さんがどうしたの?」


「えっとね……」


 ――なにからどう伝えればいいのかな。


「白銀にそっくりの……ビスクドールを見たんだけど」


「どこで?」


「あの西洋館で」


「へえ、そんなものが置いてあるんだ」


「わたしも見たーい!」


「それで?」


「そういえば白銀、どうしてるかなと思って」


「ふむふむ」


「あたし、入学式で白銀の後ろに坐ったんだよ」


「そうなんだ?」


「うん。あれから――入学式の体育館で同じ列に並んでから、あたしは、青深や陽蕗子と毎日会って、いっぱい喋って――」


「そうだね」


 陽蕗子が笑顔になる。青深が頷く。


「白銀は――、今まで一人でどうしてたんだろうなって思って。あれきり来ないから、あの子の後ろ姿しか知らなくて……」


 三台の自転車がカタンカタンと側溝を跨ぐ。

 夕映えのサイクリングロードを、三つ並んだ影が睦まじく歩く。


 白銀林。鏡の主だったわけじゃないけど。なぜだか気になって仕方ない。

 リンに出会うまで、存在さえ忘れかけていたくせに、我ながら身勝手。

 ――でもどうして、リンを白銀だと思ったんだろうか?


「連絡、取れないかなと思ってたんだけど。明日から来るのなら、学校で会えるね」


「そうだね」と陽蕗子。青深も頷く。


 ――反応が薄い。何の話だか要点がつかめないよね。そりゃそうだよね。


 どうして白銀林に会って話しがしたいのか、自分でもよく分からない。

 白銀林にしてみれば、あたしは知らない人だし、ひたすら迷惑かもしれない。


 ただ。もしも林が――。


 ヒミコさまやシグレみたいに、一人で悲しい気持ちを抱えて、自分を責めて、誰にも言えないでいるとしたら、あたしは林の話を聞きたいと思った。

 林が、心に思い描いたままを、鏡に映すように。


 林だけじゃなくて。どこかで誰かが、あんな悲しい思いをしていたら、あたしは助けに行きたいと思ったんだ。


 この気持ちを説明するには、シグレとリンと鏡の森の物語を、始まりから語らなければならない。徹夜だ。


「いい話だぞ、時雨!」


 ひゅんと風を切った青深の掌が、豪快にあたしの肩を叩いた。


「明日、全人類が滅びても一向に構わない、と言ってた奴とは思えないな」


「ちがうよ。本とおやつさえあれば、って言ったんだよ!」


「同じだ。人でなし」


 また殴られた。こいつには褒められても怒られても痛い。

 隣で陽蕗子が爆笑している。


「よおし。明日、白銀が来たらマークしろ。話しかけるぞ。囲めよ。いいな」


 青深が片方の眉を上げる。なにやら物騒だ。

 陽蕗子の顔が輝いた。


「そしたら一緒にお弁当食べようよ!」


「それはいいな!」


「わたし、おやつも持ってくる!」


「フルーツは任せろ!」


 どうしよう。話が勝手に進んでいく。


「時雨は優しいねえ」


 ネザーランドドワーフの瞳が潤んでいる。


「そうだよね。白銀さん、今までどうしてたんだろう。あたしたちが高校生活最初の友達になろうね」


 青深が力強く頷いている。


躊躇ためらうことはない。同じチームなんだ。そう言ってやろう!」


「きゃあ! ドキドキしちゃうね?」


「時雨に、ここまで男気おとこぎがあるとは知らなかったぜ!」


 こいつら、どれだけ良い奴なんだ。人の話は聞かないけど。


「どうしたの、時雨?」


「……」


「なに泣いてるの、こいつ? お前、朝から本当におかしいよ? なあ、陽蕗子?」


「……」


「お前はもらい泣きかよ!」


 茜色の空を風が吹き渡る。

 夕映えが黄金色に輝いた。

                                   <了>

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時雨の鏡 来冬 邦子 @pippiteepa

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