十九章 忘れない <Ⅳ>日常の続き


 西洋館の重い扉を開けると、朝日を背負った権平先生が立っていた。


「桐原あ! 大丈夫かあ?」


 ――先生。それはグラウンドの向こうにいる奴に呼びかけるボリュームです。


 あたしは鼓膜をやられて、斜めに崩れた。


「しっかりしろ! すりむいてるじゃないか! 転んだのか? 可哀想に!」



 ――ここはどこだ。



 あたしを心配してくれる権平先生の後ろで、なぜかジェスチャー大会が開催されている。

 青深はるみ陽蕗子ひろこが、バッタリ倒れるジェスチャーや、寄り目でクラクラのジェスチャーを盛んにやっていて面白い。

 笑っていたら、青深の瞳孔が開いた。ヤバイ。あの目は「空気読め」だ。


 ――え? あたしが倒れるの? クラクラ?


「はううっ!」


 わざとらしくしゃがんでみる。――この後、どうしたものだろうか。


「しっかりしろ。時雨っ!」


「時雨。死なないで!」


 二人に、両側から抱きかかえられる。


 ――誰か教えてくれ。あたしは、どんな状況なんだ。


 青深が、きっぱりと命令する。


「先生。担架だ!」


「おう! 任せろ!」


 スピードを上げて走り去る大男。

 今日まで、外見の濃さだけで敬遠して済みませんでした。

 こんな心優しい先生をだましてごめんなさい。申しわけない気持ちで一杯です。

 後ろ姿を見送っていたら、後ろから殴られた。


「こら。お前は! このざまはどうしたんだよ!」


「連打はやめて!」


 ――痛いよお。そうだ、あの朝もこいつに殴られたんだ。


「青深。今日って何日?」


 弓なりにスイングするこぶしに、陽蕗子が取りすがる。


「青深。待って! なんか様子がおかしい」


「放せ! こいつがおかしいのは周知の事実だ!」青深が咆える。


 ――助けてー。


「アハハ、そうだけど!」


 ――そうなの?


「にゃあ」


 あたしの膝の後ろから、白いふわふわした子猫が顔を出した。



「ヨリシロ! あんた生きてたの?」


 あたしは子猫を抱きしめた。


「ヨリ――? なに?」


 子猫の脇腹を伸ばして確かめたけど、怪我はない。

 首も短い。

 ああ、よかった。あたしの時と同じだ。


「やだー! 可愛ーい!」


 陽蕗子が子猫のすべての肉球に、自分の親指を押しつける。――なんの儀式?


「さっきのボーンって、この子?」


「さっき? 猫に襲われたのが、さっきということは? 今はまだ今朝?」


 ゆらりと青深が脇に立つ。――殺気! さっきだけに。すいません。


「こーれーかー?」


 目を鋭く細めながら、片方の口角をぴくりと上げる。


「これを、追いかけてったのか? あ? 遅刻しそうだってときに? え?」


 ひとつ訊く度に、青深は一歩ずつ間合いを詰める。

 あたしは猫を抱きしめて、一歩ずつ下がる。

 視線をあたしに据えたまま、青深の手が子猫を摘み、陽蕗子の掌にポイと置いた。


「そうなんだな? ああーん?」


「いや、違うの! 説明させて――」


 後退あとずさろうとする足が、恐怖にもつれて転んだ。


「――だから! こいつを追いかけたんじゃなくて、こいつに、追いかけられて!」


 這って逃げようとしたら、襟首を掴まれた。助けてー。


「貴様のせいで、私と陽蕗子まで……。喰らえっ、はーっ!」


 ボーン! わー!




(遅刻届)


 10月12日(水) 1年7組 35番 桐原時雨


 昨夜は、深夜まで勉学に勤しんだ為(嘘)

 今朝の登校時に目眩を起こし、自転車で転び(笑)

 膝と肘の擦過傷に加えて、全身に打撲を負い(BY青深)

 新築の(懐かしい)西洋館に侵入し、誰もいなかったので、

 一人寂しく休んでいました。

 御心配をお掛けして、大変申しわけありませんでした。

               

 ※テスト前は体調を崩しやすいので、気をつけましょう。

 大事に至らなくて良かったですね。 権平珠彦(担任検印)

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