十九章 忘れない <Ⅲ>シグレの望み

 リンが子猫のように飛びついてきた。

 あたしたちは、もつれあって濡れた草むらに転げこんだ。


時雨しぐれさん。ありがとう!」


 リンが両手であたしにしがみつく。

 小さい女の子は猫に似てる。


「シグレ様を助けてくれて、ありがとう!」


 あたしもリンをぎゅっと抱きしめた。

 猫よりでかいな。そりゃそうか。


「シグレを助けてくれたのは、法師様だよ」


「いいえ。時雨さんです。時雨さんが約束を守ってくれたからです」


 リンはあたしの胸におでこをくっつけて、しゃくり上げた。


「もっと早く出てきたらよかったのに」


「シグレ様が見つけてくれないんですもの」


 リンが愛らしくむくれて見せた。


 そういえば、今まで散々、にらまれたりすごまれたりはしたが、シグレがあたしの目をまともに見たのは、さっきが初めてだった。

 あたしはリンを膝に乗せて、丸いおでこにかかった髪をかき上げてやった。



「――リン。――時雨」


 呼ばれて振り返ると、さっき頭から泥濘ぬかるみに突っ込んでいったシグレが、芦の茂みから、沼のオロチのように、あたしたちを睥睨へいげいしていた。


 リンは周章あわてて目を逸らす。

 耳まで朱くなって、湯気を上げそうだ。


「ほら、リン。さっきの返事をしないと」


 ふっくらした頬をつつくと、人のふところにもぐり込もうとする。

 まだ猫が抜けてない。

 あたしは苦笑いでシグレを見上げて――固まった。


 明らかに様子がおかしかった。


 シグレが夢見るような表情を浮かべて空を見ている。

 キラキラした光気オーラが全身から立ち昇っている。


 あたしとリンは顔を見合わせた。


「シグレ様?」 「シグレ?」


 声が揃った。



 シグレはまぶたを閉じて、深く息を吐いた。


「僕の望みは、かなっていたんだ」

 

「望みって?」


 あたしとリンは首を傾げる。

 シグレの望みは鏡に還ることじゃなかったっけ。


「リンに会えたってこと?」


 あたしが訊いた。


「そんなことは自分でできる。鏡に望むまでもない」


 リンが掌で頬を包む。


「シグレ、なに言ってんの? 望みの鏡はなくなっちゃたのに――」


「鏡じゃなかったんだ」


 シグレが、晴れ晴れと笑った。


「鏡がなくなって、やっと気がついたんだ。――ほんとうの望みに」


「ほんとうの望み?」


 あたしとリンは顔を見合わせる。


「僕が心の底から望んでいたのは。本当にかなえたかった望みは。――望みの鏡に還ることじゃなかった」


 シグレは両腕を伸ばして、リンとあたしを抱きしめた。


「僕は、もう一度、法師様に会いたかったんだ!

 望みをかなえてくれて、ありがとう。――リン。時雨」




 薔薇色の夕映えは、フィナーレを迎えていた。

 全天が黄金色こがねいろに燃えあがろうとしている。


 天をあおいだシグレが、両腕を広げる。

 太陽の光環を辿るように、その指先が大きな弧を描く。


 頭上高く合掌したシグレは光芒を放って、天地をつなぐ巨大な光の柱となった。まるで水晶の大樹のように。


 大樹のいただきが、しなやかに身をひるがえす。

 天から降りてくるのは、目映いばかりの白銀の龍だった。



「おいで」


 龍が、懐かしい声で言った。



 あたしとリンを背に乗せて、白銀の龍は夕映えの空に駆け昇った。


 暖かな気流に乗って、龍は空高く昇っていく。

 薔薇色の雲海をくぐり抜け、夕闇の蒼いふちを飛翔した。


 白銀の風になったあたしたちは、黄金色の空をどこまでも飛んだ。


 天空から花が舞う。

 花雪を両手に受けて、花が咲きこぼれるようにリンが笑った。


 空をゆく龍が、美しい声で歌った。



   忘れない


   きみを


   きみの名を


   とこしなえに きみにかえろう



 はるか空の下に、黄金の森に抱かれた時雨沼が、朱く映えた。

 遠い風の向こうから、錫杖しゃくじょうの鈴の音が微かに聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る