終章:相澤恭香
遺書、そして
「私が本物の相澤恭香ですよ――」
そう言ったときの黒谷正一の反応は相澤恭香にとって、刺激的なものだった。肩をびくっと震わせ、こちらを振り向こうとしたところで、ぽんと体を軽く押してみる。緊張で硬直した男の体は、女の自分でも簡単に突き落とすことができた。
ホームに落ちた彼は一瞬にして電車の下敷きとなった。四方八方から悲鳴とざわめきの混ざりあった声がホームにこだまする。その喧騒の中、入り乱れる人だかりを掻き分け、ホームから外へ出る。すると彼女がホームから出てくるのを待っていた男が手をあげた。
「終わりましたか?」
男は被っていた真っ黒なハットを外し、笑顔で相澤恭香に話しかけた。
「はい。今までありがとうございました」
相澤恭香は深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそですよ。僕も新しい名前が貰えましたし。これが商売なので、お気になさらず。これで『渡し舟』との契約は終了ですね」
「そうなりますね。私も新しい人生が歩めます」
「自由を手に入れる――遺書の通りになりましたね」
黒谷正一は一体どこまで気付いていたのだろうか。いや、恐らく何も気付いていない可能性の方が高いだろう。
彼が『渡し舟』に殺害を依頼するよりも前に相澤恭香は『転換』を用いて、相澤恭香の名を捨てていた。つまり黒谷正一が足取りを追い、自殺に見せかけて殺したのは相澤恭香ではあるが、彼の追い求めていた相澤恭香ではなかった、ということだ。
結果として母には悪いことをした。しかし、それも自業自得というものだ。母も自分の欲を欲するがままに『渡し舟』を利用した。但馬善吉を手に入れるために利用し、失敗した憂さを晴らすために利用した。そんな母に育てられ、背中を見てきた娘の私だ。
母との生活に嫌気が差していたところ、母が酔っ払いながら『渡し舟』のことをうっかり滑らせた。そこで、母が犯した罪を全て知ったと同時に、その償いが自分の身に降りかかる危険性を感じた。しかし、母のおかげで全ての事象に先手を打つことが出来た。『渡し舟』を利用し、母が殺した黒谷正之には自分と同年代の息子がいることがわかり、彼が復讐の火を燃やしていることを知った。私もまた、母がそうしてきたように、自分が生きるために『渡し舟』を利用したのだ。
黒谷正一の愚かで間の抜けた計画により、煩わしかった母は死に、相澤恭香も戸籍上死ぬことが出来た。
「戸籍を欲しがっている人間は意外と多いんですよ。生まれ変わる、という幻想に目を奪われ、飛び付く愚か者が後を断ちません」
『渡し舟』から紹介された男は、『転換』のシステムを相澤恭香に説明するとき、そう語った。それを裏付けるように相澤恭香の戸籍はいとも容易く売却され、身代わりが一つ出来上がった。『渡し舟』との契約により、黒谷正一の動向は逐一報告され、彼が『渡し舟』とどんな契約を結ぶのかも把握することができた。その契約により、自分の代わりに殺される戸籍を買った人物はどんな想いで今を生きているのだろうか。
笑っているのだろうか。
新しい人生に心を踊らせているのだろうか。
間もなく見るも無惨な形で殺されるとも知らずに。それを考えるだけで、笑みが溢れてしまう。
その笑みが、黒谷正之を殺害した時に母が浮かべたそれと似ていることを彼女は知る由もない。
『私が生きている限り、あいつはずっと傍にいる。
あいつが傍にいる限り、私に平穏は訪れない。
それが運命と言うならば、私はその運命に抗ってみせよう。
私の平穏は、私のものだ。
私は生きる希望も、未来への活力も必要ない。
私が望むのは自由のみ。
この死を持って、私――相澤恭香は自由を手に入れる』
この遺書の真意を理解している者は誰もいないだろう、と相澤恭香は自負している。
あいつとは即ち、相澤恭香の母――相澤照美。相澤照美が母として傍にいる限り、彼女の罪は私にも降りかかる運命にある。その運命に抗い、打ち勝ったことで手に入れたこの自由。
死んでも守る。
相澤恭香は心に決めて、新しい人生の一歩を踏み出した。
しかし――。
彼女が把握していたのは山代正和こと、黒谷正一の動向のみ。それが『渡し舟』の契約だったので、致し方のないことだが、それは唯一と言ってもいい、あの遺書に違和感を持っていた男の存在を見落としていることとなる。
だが今はまだ、この二人が捜査線上で交差し、相対することはない。
そんな中、卜部と相澤恭香はほぼ同時に空を見上げた。
山代が最期に見た景色と同じく、夕暮れ時の沈んだ空。相澤恭香には、これからの夜明けに差し込む朝日の光に期待を膨らませ、卜部には対照的に未だこの事件の結末が雲を掴んでいるような感覚に、煮え切らない心を映しているようで、歯痒く想う。
好意と殺意の狭間に身を潜めた住人――相澤恭香。
卜部はそのまだ見えぬ相手の背中をしっかりとまっすぐ見据えている。
好意と殺意の狭間の住人 歌野裕 @XO-RVG
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます