朽ちゆくものたちへ【#ヘキライ】

跳世ひつじ

朽ちゆくものたちへ



 濃霧が立ち込めていた。

 ディーゼルはゴーグルを外して、ちょっとその城を見上げて、嵌めなおす。鈍色の髪が、煙った空気に晒されているのがどことなく不快だった。黴臭い僻地の、湿った城……。

 尊敬する上司の、命令ではなく頼み事だった。

 彼女は死んだ。第三次大戦は突如勃発し、あらゆる種族を混沌に叩き落とした。ディーゼルは中等学校を出て、小さな新聞社に就職したてだったのに。たった一年つき合ったきりで上司は兵役にとられて、零細新聞社は結局すぐに立ち行かなくなった。ディーゼルは山深くへ身を隠した。女だからといって兵士にとられない理由はない。特にディーゼルのような、頑丈な種族は。

 その大戦が終わって、ディーゼルももう二十六歳だった。

 上司が残した手紙が、思い出したように届いたのはひと月も前だ。この城を探し当てるまで、方々の不動産屋やもと同業の新聞社、果ては探偵事務所にまで頼ることになってしまった。ここらの地方は特に持ち主不在の古城が放置されているせいで、隠れ住んでいるのかもうとっくに放棄されたのか、判断のつかないものはまとめて歴史協会が管理している、とようやく知った時には大分時間も過ぎていた。

 霧が濃すぎて、自動車の灯ではどうにもなりそうにない。

 ディーゼルは仕方なく車を降り、重たいジャケットを羽織った。結局ゴーグルと荷物とを車内に残して、幌で座席を覆う。頑丈なブーツを履いてきてよかった、と思ったのもつかの間、ぬかるみに足をとられて思い切り転んだ。

「……」

 なにせ足元もよく見えない。ここが崖かなにかであれば、真っ逆さまに落っこちて、身寄りのないディーゼルのようなものは探されることもなく、やはり霧深い谷で骨になるのだろう。ふう、と重いため息を吐いて、立ち上がる。尻がべったりと濡れていた。冷たいのもつらいのだが、それよりもさぞみっともないことだろう。

 だんだんと腹が立ってきて、同時に徒労感にも襲われる。見上げれば聳えるような古城は、どう見ても朽ちかけていて、とてもではないが誰かが棲んでいるようには思えなかった。すん、と鼻をうごめかせてみても、うまくにおいを感じ取ることができない。ディーゼルは小さな鞄も泥まみれなのを確認して、今度こそ慎重に歩き始めた。

 ぎい、と断末魔のように軋り、玄関扉が開く。よくも開いたな、と思うほど立て付けが悪い。というより、壊れかけているせいで、ディーゼルはほとんど扉を外したようなものだった。

 踏み出した一歩が、想像以上の響きを持って、玄関の広間にこだました。

 こつーん、こつーん、という空しい音が反響する。明かりも射さない。燭台は長年使われていないだろう。どう考えても、電気やガスが通っているようには思えない。ひんやりとした石造りの城だ、ひとまず床が抜けることは考慮しなくてもいいかもしれないが、巨大な蜘蛛の巣や堆積した砂やほこりが凄まじい。

 自動車まで戻って、角灯でも持ってこようか、しばし迷う。ポケットには常に燐寸が入っているが、燃やすものがない。見たところ、蠟燭も刺さっていないようだった。仕方がなく、ディーゼルは首を振った。あたりを少し見回す。どうせ誰もいない、と言い聞かせて、ジャケットを脱ぎ捨てた。

 ばさり、と広間に無闇に響く衣擦れの音。ベストを、シャツを、ズボン(泥まみれだ)を……すべて脱ぎ捨てて、暗闇に光る白い裸体となって、ディーゼルは目を瞑った。ざわざわと膚が総毛だつ。

 ――一瞬だけ、背骨を駆け抜ける快楽を掴まえる前に。

 四つ足の獣となって、ディーゼルは床を踏んでいた。かちゃりかちゃりと爪が石に当たって音を立てる。ブーツの底は鉄板をつけていたから、こちらのほうがまだましだ。何千倍も鋭くなった嗅覚を駆使して、かすかなにおいのするほうへ……ディーゼルは走り出した。

 たどり着いたのは、薔薇の浮彫がなされた扉の前。なぜかいかめしい錠前がぶら下がった扉に、狼のすがたとなったディーゼルは、思い切り助走をつけて身体ごとぶつかった。普通の狼よりも巨大なすがただ、扉はもともと傷んでいたこともあってか、あっけなく外れてしまった。

 大きな音をたてたにも関わらず、やはりこの部屋も静まり返っていた。長いこと封印されていた部屋の空気は淀み、吹き曝しの城の他の部分よりも気分が悪くなるにおいがこもっていた。黴やほこりが舞い上がり、ディーゼルは一旦、廊下へと引き返した。もうもうと立ち込めたほこりがおさまるのを待つ。硝子の破れた窓からは半月、濃霧に降り注ぐ光は油のようにてらてらと色を変えて惑わす。

 ぴん、とディーゼルの耳が部屋のほうへと向く。

 なにかが動く気配がした。そして細い呼吸で空気が動く……。

 半ば無意識に足音を潜めて、姿勢を低くし、ディーゼルは部屋をうかがった。ゆっくりと近づいていく。

 ――不意に、月光が淡く室内へと射す。

 巨大な寝台に、ひとりの人間が……人間のすがたをした、化外であろう誰かが、半身を起こそうとしていた。おんなだ。いや、おとこか? わからない。

 綺麗な顔をしている。ディーゼルのみたことのないほど。

「……誰」

 掠れた誰何の声に、ディーゼルは短く吼えた。

 びくりと驚く気配がして、恐怖のにおいがにじみでる。ディーゼルはもう一度吼えて……らちが明かないと思い、人間のすがたへと戻った。間抜けなことだが、服はすべて玄関の広間へと置いてきてしまった。ディーゼル自身は裸を見られようとかまわないが――あの上司は、彼女が無造作に変じることを禁止した。思えばそれは、大戦を見越してのことだったかもしれない。人狼一族はみな戦場へと投じられ、散ったのだから。

 ぺたりと踏み出した裸足が、なにか鋭利なものを踏みつけた。切れた、と思ったときにはもうぴりっとした痛みが走り、血がにじむのがわかる。

「……っ」

 目の前の誰かが、息を呑む。

 やはり、とディーゼルは首を振った。力なく。

「わたしの血を飲むんじゃない。毒だ。わたしは人狼だから」

 おそらくこの世界に、最後の吸血種だった。

 ディーゼルの上司は、故地のことを手紙に書き記したのだ。つまりこの古城のことを。「眠っているものがあれば、醒ましてやってほしい」という、彼女の最期の願いを、ディーゼルは叶えに来た。

 吸血種は、絶滅したというより、ゆるやかに人間と同化していった。ディーゼルの上司も同じで、彼女が気にかけていたのは故地に眠る遠い祖先――目の前のこのうつくしいものが、そうなのだろう。裸のディーゼルを見つめていたそのひとは幼い。まだほんの子どもに見えた。古びて茶色くなった寝衣に身を包み、半身を起こしたまま、ひどく浅い呼吸をしていた。

「あなたの遠い子孫から頼まれてここへ来た。あなたが眠っていたら、醒ますようにと。世界は大戦を経て化外のものが減り、人間が強者となっている。吸血種は徐々に人間になっていった。あなたたちの古い血は、ずいぶん昔に滅びたと聞いていた。きっとあなたが、最後だ」

 ディーゼルが静かに告げると、そのひとはまばたきをした。

 何を言っているのかわからないというふうに、首を振る。

「あなたの子孫の名まえは、クロエと言った。戦争にいって死んだ。わたしはディーゼル。さっきも言ったが、人狼だ」

「ディーゼル……あなたは、古い血の人狼なのですか? 私と同じように、歳経た……」

「いや、残念だが……わたしは先祖返りだ。見た目通りの年齢だから。あなたはそうではないようだ。これから、どうする」

 皮肉な話だ。古い血同士であったらば、憎み合った種族だった。いまのディーゼルにそんなしがらみはないとしても、このひとのほうでは違うだろう。眠りにつく前に、どんな時代を生きていたかはわからないが。

「そうですか……私を覚えていたものは、死んだのですね……」

「彼女はわたしの上司だった。頼まれたわたしには、出来うる限りあなたの希望を叶えたい」

 そう言うと、目の前のひとは黙り込んでしまった。

 灰色の眸は、何をも映さずにぼんやりと宙を見つめている。ディーゼルにはこれ以上どうすることもできなかった。もしこのひとが、一緒に行きたいと言えば……連れ帰るつもりだ。ディーゼルの暮らす都市へと。そこで、人間とともに生活を送る。ひっそりと、身を縮めて。

「私は……」

 かのひとが言いかけたとき、ふとぬるい風が吹いた。湿った風が、鼻先に纏わりついて、淀み暗い床へと吸い込まれてゆく……古びた絨毯は汚れていた。ディーゼルは束の間、目を閉じ、そして開けた。

 もうそこには、誰もいなかった。ただ朽ちた寝衣だけが、寝台に寝かされていた。

 そっとそれに手を伸ばす。温かくはない。じっとりと湿って冷たい。

 ディーゼルは裸のまま、部屋を出た。さきほど血を流した裸足が、ささやかに痛みを主張する。ぬるつく血はすぐに乾くだろう。いま、滅びを見た。胸がどきどきしていた。

 部屋を出ると、あたりは驚くほど暗い。

 濃密に垂れこめた闇を、霧が掻き乱そうともがき、敗れていた――。



 泥が染みついたズボンも、乾けば汚れを落としようがあるのだが、そうもいかない。仕方なくそのまま身につけてはいるが、尻から冷たさが這い上って、なんとも嫌な気分だ。複雑な胸を抱いて、帰り道を慎重に走っていた。きっとここらはかつては湖沼地帯だったのだろう。先程から嫌なぬかるみにタイヤが嵌りかけては、なんとか持ち直しての繰り返し。頻繁に車を降りてはうしろから押すのももううんざりだった。――なんて思ったとき。

 ずぶ、と前輪が沈む。苛立って、思わずハンドルを叩いていた。それから、なんとか出発できないかとアクセルを思い切り踏み込むと。しゅう、と間抜けな音を立てて、エンジンの駆動音が遠ざかってゆく。

「うそだ」

 思わずひとりごちていた。

 それからはもう、なにをしてもだめ。狼のすがたで駆け抜ければ、あるいは帰り着くことはできるだろうが……この自動車は、上司から譲り受けた、ディーゼルの貴重な財産なのだ。戦前製のおんぼろとはいえ、きちんと整備にも出していたし、まだまだ走れると、言われていたのに。

 あとはもう、車から降りて、押しても引いてもだめだった。車はもうここから動きたくないと言っているようだ。ディーゼルは疲れ果てて、乾いた石の上に座り込んだ。半月は明るい。霧の上にある月を目指して、人間のすがたのまま、ディーゼルは吼えた。

 幾度も吼えて、ため息をついて、ようやく立ち上がる。

 のろのろと歩き出そうとすると、向かいから灯がやってくるのが見えた。

 その車は、ディーゼルの車が道を塞ぐせいで、通れない。慌てて謝ろうとすると、運転席に座っていたのは、アメリカ製の背広を着た、ハンサムな青年だった。

「やあ。立往生?」

 彼はゴーグルを上げて、ちょっと笑う。そこからのぞいた八重歯に、ディーゼルはどきりとした。

「そう。タイヤがぬかるみに嵌まっちゃって動けない。エンジンも止まって」

「そりゃ大変だね。じゃあ、乗りなよ。君のその車には勲章をやっておさらばしようぜ。名まえは?」

「ディーゼル……ドリス・ディーゼル。そっちは?」

「エドワード・テイラー。エディだ。よろしく、泥まみれさん」

 人懐こい笑顔と、握手を交わした。彼は助手席の扉を内側から押し開いてくれた。ディーゼルはなぜだか警戒する気も起きず、車に乗り込んだ。鮮やかなハンドルさばきで方向転換をすると、エディはカーラジオに手を伸ばす。

 霧深い夜に不似合いな、軽快な音楽が溢れだした。

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