第五話 アン・マキャフリー 『歌う船』 (創元SF文庫、酒匂真理子訳)

 その時、私は自分の心の置き場所が分からなくて、とても困っていた。


 発端は父の再婚話である。

 私を生んだ母は、私が六歳になった頃に病気で亡くなった。特に自覚症状もなく、検査で異常が発覚して緊急入院し、間もなく亡くなったと話に聞いている。

 その当時、まだ小学校の低学年だった私は事情がうまく飲み込めないまま、「お母さんにもう二度と会えないんだ」と父から言われて、その場で大泣きしたらしい。

 その時点では、生まれてから一番悲しい出来事だったのだろう。

 ところが、今になってみると実は母のことを殆ど覚えていない。

 髪が長くて、小柄で、いつも穏やかに微笑んでいる、とても気の優しいお母さんだったような気がするのだが、かなり思い出補正が入っていて実態とはかけ離れているような気さえする。

 ただ、それが単なる「母親の理想像」であったとしても、当の本人は既に他界しているため支障が出ることもない。だから、私はそれを放置していた。

 それに、基本的には「優しいお母さん」で間違いないと思う。なぜなら本当は気が弱くて甘えん坊な父が、私が高校生になるまで男手一つで育ててきたからだ。その間、父は母のことが忘れられなかったのだろう。

 けれども、母の死から十年以上たったのだから、そろそろ父にも自分の幸せを考えて欲しいと思う。私ももう父の手を煩わす歳ではないし、申し訳ないと思いつつも父の存在を鬱陶しいと感じる年頃でもある.

 だから、父から、

「結婚を前提にしてお付き合いしている人がいる」

 と言われた時には、すんなり受け入れることが出来た。むしろ、

「結婚を前提、というのは古いんじゃないの? 今すぐに同居すればいいじゃない」

 とまで言い切ったほどである。

 私のその言葉を聞いた父は、一瞬あっけにとられた後、ひどく恥ずかしそうな顔をして正直に白状した。

「いや、実は彼女からもそう言われたんだが、お父さんがもう少し心が落ち着いてからにして欲しいと言ったんだ」


 *


 父の新しい彼女は、三崎聡子という名前の大柄な女性だった。

 短く揃えた髪から始まって、その下にはよく動きよく笑う大きな瞳と大きな口があり、さらには高校生の頃から水泳で鍛えた立派な肩へと続いている。身長も父より高かった。

 初めて私達の家に遊びに来た時、三崎さんはTシャツにジーンズというこれ以上はどうしようもないほどにカジュアルな恰好をしていた。

 私の驚いている表情を見て、彼女は、

「本当は着飾ってくるべきなんだろうけど、すぐに素性がばれるだろうから、一番それらしい恰好にしてみたんだ。それに、正装だと料理する時に動きづらいからね」

 と豪快に笑って、そのままキッチンで料理を作り始めた。

 普段着でやってきて、いきなり家事を始める父の恋人というのは、全くの想定外である。しかも、料理をする姿が実に楽しそうなので、思わず私も、

「あの、何か手伝いましょうか?」

 と言ってしまった。むしろ私が何かすべきなのだが、三崎さんはそんなことは気にせずに、にっこり笑いながら、

「是非お願いします」

 と言う。それで、私は父が目を細めて見守る中、三崎さんと並んで料理を続けた。

 それはとても楽しい経験だった。

 だから、私はそのまま彼女を気持ちよく母親として受け入れることが出来そうだと思っていた。


 *

 

 ところが、実際は逆である。

 三崎さんに会った日の翌日から、何故か私はむしろ三崎さんという存在に馴染めなくなってしまった。彼女の前だとどうしても言葉遣いや身体の動きが硬くなってしまうのだ。 

 これには三崎さんもすぐに気がついたはずだが、彼女は決してそのことを私に問い質そうとはせず、最初と変わらない態度で接してくれた。

 父は困惑した表情を浮かべていたが、恐らくは三崎さんから強くお願いされたのだろう。やはり問い質そうとはしなかった。

 そして、私はその原因をはっきりと自覚していた。


 私は三崎さんを母親として認識できないのだ。


 想像上の母親――ほぼ理想像でしかない母親が思ったよりも私の中で確固たる位置を占めており、それが邪魔をして、その対極にある三崎さんを重ね合わせて見ることが出来ないのだ。

 三崎さん単体だけであれば、とても素敵で尊敬できる人だと思うのだが、それに母親という属性を付加しようとすると、どうしても無理が生じてしまうのである。

 自分でもどうしたらよいのか分からないまま、それから二ヶ月ほど時間が経過した。


 *


 その日、私は大学受験の講習会で帰るのが遅くなった。

 家に帰ると三崎さんは既に帰った後で、父は彼女を家まで送っていったようだった。

 キッチンのテーブルにはいつものように丁寧に作られた料理が置かれている。いつも変わらないそれは、三崎さんの私に対する変わらない親愛のあかしのように思われた。

 彼女は相変わらず、私のぎくしゃくした態度に何も言わず、にこやかに接してくれる。


 しかし、もうそれでは全然駄目なのだ。


 私はむしろそれを重荷に感じ始めていた。今日も、本当は早めに帰ってくることが出来たにもかかわらず、一緒に講習会にいった友達と寄り道をしてしまった。

 いけないとは思いながらも、三崎さんを母親として認識しなければならないプレッシャーが、日に日に重さを増してゆく。

 決して嫌いじゃない人なのに、このままでは嫌いになってしまいそうな気がする。そんな考えが頭の中に浮かんで、消そうとしてもなかなか消えてくれない。

 多分、その時私は、生まれてから一番暗い顔をしていたのではないかと思う。

 それでも、せっかく作ってくれたのだから食べなければと思い、お皿を電子レンジに入れようと持ち上げたところで――その下に紙が置かれていることに気がついた。

 紙には一言だけ書いてある。


「まずはお友達になりませんか」


 *


 その翌日のことである。


 私が家に帰ったら三崎さんがキッチンで号泣していた。

 その原因が私の「企み」であることは分かっていたのだが、それにもかかわらずあまりに予想外の光景だったので、私はたじろいでしまった。

「あの、三崎さん、どうかなさったんですか?」

 私が少し慌てながらそう言うと、三崎さんは真っ赤になった目を私に向けて、それでも涙をぽろぽろと零し続けながら言った。

「その、あの、この本のヘルヴァが、あまりに愛おしくて、切なくて、つい……」

 三崎さんの手には朝、私がテーブルの上に黙って置いておいたアン・マキャフリーの『歌う船』が握られている。


『歌う船』は未来の物語だ。

 先天的な身体の機能不全のため、ヘルヴァは全身を金属製の殻に封じ込めて、神経を各種装置に連結して宇宙船と一体化することを選んだ。

 彼女は相棒となった男性に歌の才能を見出され、彼に求められるままに歌い、次第に『歌う船』と呼ばれるようになる。

 銀河を飛び回り、危険な任務をこなし続けていた二人は、任務のためにある星に赴く。それは悲劇の始まりだった。


 恐らく三崎さんは、その悲劇のところまで読んだのだろう。

 あれは本当に切ないシーンで、私も読みながら涙が止まらなかった。

 しかし、さすがに三崎さんほどではない。思った通り、彼女はとても感情表現が明確で分かりやすい人なのだ。

 だから、私は黙ってそのまま見ていることにした。

 三崎さんはゆっくりとページをめくって、読み進めている。

 多分、この調子だと三崎さんは最後のシーンでまた号泣するだろう。

 そして、私がこの本をテーブルの上に置いておいた意図を察知するだろう。

 そうに違いない。

 絶対に間違いない。

 そうしたら、二人でそのシーンの話をしようと思う。

 そうしたら友達になれる。

 もしかしたら姉妹までいけるかもしれない。

 父には申し訳ないのだが、しばらく「お嫁さん」はお預けにしようと思う。

 私の昔からの夢だった「お姉さん」がいる生活を満喫させてもらうんだ。


 それぐらいの我儘は許してくれるよね?


( 終わり )

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この本はこう使いたい。 阿井上夫 @Aiueo

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