第四話 小島政二郎 『眼中の人』 (岩波文庫)

 古びた紙のすえた匂いが、つん、と鼻腔をついた。

 ページをめくる乾いた音が響く図書館。大きめの窓からは初春の柔らかな日光がおずおずと差し込んで、午後のゆったりとした時間が切れ目のない更紗のように流れていくのを薄く照らしていた。

 時折、風が木陰を渡り、大きなテーブルの上で浮世絵の大版画を熱心に覗き込んでいる初老の男性を、水中を泳ぐ魚の鱗のように輝かせたり曇らせたりしていた。

 哲学者の魚――そんな言葉が頭をよぎった。

 そのまま、どうも私は一瞬の間、放心していたらしい。


「ねえ」

 と、棚の向こうからFの小さな声がした。

「どうしたの」

「あ、いや、ちょっと考え事をしてた」

 耳が赤くなるのを感じながら、声のするほうを覗き込んだ。

 棚と本で区切られた狭い隙間の向こうに、Fの茶色の大きな瞳が見えた。棚に近いところに立っているらしく、目と、それを包むツーポイントの眼鏡しか私からは見えなかった。

 そういえば、Fは自分の瞳のことをあまり好きではないと言ったことがある。色素が薄いために、茶色に見えることがその理由らしい。

 Fは眉を少しひそめ、声にけげんな様子を滲ませながら言った。

「どこかにいきそうな顔だったけど」

「そうかな」

「そうよ」

 瞳が半分の大きさに縮んだ。気を悪くした証拠。

「たまにそんな顔をすることがあるわね」

「そうかな」

「そうよ」

 片方の眉毛が下がった。今度は要注意の信号。私はあわてて何かを言わなければならない必要を感じた。

「ちょっと昔のことを思い出していたんだ」

「何を思い出したの」

「学生の頃の話なんだけど、国語の時間に先生が小島政二郎という作家の話を始めたんだ」

「聞いたことがない作家ね」

「うん。最近はあまり読まれなくなっているけどね。芥川龍之介と同じ世代の人なんだ。作品に『眼中の人』という小説があって、二人の交友のことが書かれている」

「ふうん」

 目を伏せながら、興味のなさそうな声でFは相づちをうった。

「タイトルの”眼中の人”というのは、大切な人という意味らしいんだけど、これまで読んだことがなかったんで、どういう関係なのかわからなかったんだ」

「それで?」

「それで、いろいろな書店をまわって本を探したんだけど、さすがに忘れられた作家らしく見つからない。そうこうするうちに忘れてしまったんだけど」

 ちょっとそこで話を切った。Fは顔をあげて、こちらを覗き込む。

「それが今、目の前にある。しかも岩波文庫」

 ちょっとした沈黙。Fがじっと私を見つめていた。

「それで?」

「それだけ」

 一瞬、Fの目が大きく見開かれると、すっと細くなった。

 その後、かすかな声すら押さえ込むように、眉を強く寄せて目が笑った。

「本当に、変わって、いるんだから」

 つまった呼吸の向こうから、とぎれとぎれにFの声が聞こえる。

「そうかな」

「そう、よ」

 と言って、棚の隙間から目が消え、小刻みに震える髪だけが残った。

 私は待った。

 ひとしきり笑った後で、また大きな瞳が私をまっすぐにとらえた。

「”しみ”っていう言葉を知ってる?」

「染み?」

「今、何を想像した?」

「洗剤のコマーシャルの、白いシャツについたケチャップ」

 またFの瞳が細くなった。

 が、今度は自制したらしく、こちらを見つめたままで言った。

「音は同じだけど、私は紙の魚と書いて”しみ”と読む字のことを言ったのよ」

「ふうん、初めて聞いた。なにそれ?」

 Fの目が上を向く。何かを思い出すときの視線。

「うーん、本当の意味は紙を食べて生きている小さな虫のことなんだけどね」

「うん」

「あなたは本ばかり読んで、始終ぼおっとしているから、ちょうど紙を食べて生きる魚みたいだなと思ったのよ」

 ちょっとした沈黙。私はFをじっと見つめていた。

「それで?」

「それだけ。お返しよ」

 大きな瞳から柔らかい視線が、棚の隙間を通って流れてきた。

「まったく。時にどうしようもないくらいに無防備になるわね」

「そうかな」

「そうよ」

 そのまま今度は私のほうを覗き込む。

「けれど、そのおかげでいつも綺麗な目をしていられるんでしょうけど」

「それは違うよ」

「えっ」

 意外なことを聞いたというように、Fの瞳が見開かれた。私はゆっくりと言った。


「いつもじゃない。眼中の人の問題だよ」


 Fは黙ったまま、こちらを見つめた。

 そうするうちに、Fの色素の薄い茶色の瞳の上を、限りなく純度の高い水が被ってゆくのが見えた。

 確かにこの瞬間、Fにとって私は水の向こうに住む魚のように、滲んで見えたに違いなかった。


( 終わり )

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