終末的前日譚

 午前7時。

 ようやく眠ろうかという時に、スマホが鳴った。


「仕事です。支度ができ次第、本社まで」


 ああ、そっか。今日なんだ。

 そういえば、ネットにそんな記事があったかも。


 そう勝手に納得していると、眠気がいつの間にか、どこかへ行っていた。高揚感と緊張感に刺激されているせいかもしれない。

 私は辛うじて年齢に合うだろう服装を選んで、最低限の身なりを整えた。


 さて。働きますか。




 実は、私はニートだ。

 働いていないし、職業訓練も就職活動もしていない。学業なんて、ここ20年ほど縁がない。

 っていうか、ぶっちゃけた話私は引きこもりで、ここ15年近く家を出ていない。

 けれど、一応私は会社員という身分があり、毎月給料をもらっている。それも、年収にしてしまえば1,200万円を超える大金をだ。

 それにはちゃんとした理由がある。私は、理由があってニートをしている。


 今日は2回目の出勤だった。


「意外と遅かったですね。どうぞお座りください」


 『本社』の応接室の中、ヤナギと名乗った、私より幾つか若そうな男性が言った。


「ちょっと、スーツを買ったり髪を切ったりしてたもんで」

「ああ。成る程。よくお似合いですよ」


 別にスーツでなくてもよかったのに、とヤナギさんは苦笑する。

 生憎、私には仕事イコールスーツの式が成り立っているため、スーツ以外の選択肢は思い付かなかった。

 ちなみに、髪を他人にいじってもらったのは15年振りの出来事だ。ついでに化粧も施してもらった。これに至っては、はじめての体験である。

 化粧の仕方なんて忘れてしまった。そもそも、家にある化粧道具はとうにカビてしまっているだろう。


 私は促された席につく。その正面にヤナギさんが座ると、見計らったようにOL然とした女性が入室してきた。

 彼女はティーポッドとカップを持っていて、私とヤナギさんに紅茶を給仕してくれた。座ったまま会釈をすると、にこやかに微笑んで会釈を返してくれた。若いのにちゃんとしてるなあと、おばさんらしい感想を抱いた。

 いや、普通おばさんなら「最近の若い子は……」なんて思うのかもしれないけれど。


「早速ですが、本題のほうを。どうぞ、飲みながら聞いてください」


 自ら紅茶のカップに手をかけながら、ヤナギさんが言う。それに倣って、私も紅茶を口に運ぶ。

 味は、ティーバッグに慣れ親しんだ舌に革命を起こすような味がした。美味しいという言葉すら、まだ足りない。


「気に入っていただけましたか? これ、うちのオリジナルブレンドなんですよ」

「すごいですね。美味しいです」


 自分の語彙力のなさを呪った。


「それはなによりです。さて、今回アサヒさんに押していただく“ボタン”なのですが、……こちらです」


 差し出されたのは、小さな箱だった。開くと、赤いボタンがある。


「これを押すと、世界中で3秒間、人間を動く死体に作り変えるウイルスが散布されます」


 言ってしまえば、ゾンビ化ウイルスですね。と、いかにも真面目な声音で続けられる。


「本当に、出来上がったっていたんですね」

「ええ。そして、明日が人類滅亡の日です」


 神の予言の遂行こそ、我ら“終末機関”の悲願。

 一番初めに聞いたことだ。

 そのときは、神様を信じているんだか信じていないんだか、わからないと思ったっけ。今は、ただの終末論者が神様を体の良いスケープゴートにしているだけなんだろうな、って思うけど。


 まあ、利用されてるのは私も一緒だ。


「このウイルスに感染した人は、約12時間後に発症して、他人を襲い始めます。噛み付かれたことによって唾液が体内に入れば、その人も感染・発症します」


 そうなれば、そう遠くない未来に人類がみんなゾンビになってしまう。それは想像に難くなかった。


「これ、結構な優れモノなんですよ。約1か月間は腐敗を防止することが可能なんです。日本だとそろそろ冬ですから、更に腐敗の進行は遅くなるでしょうね」

「あの、ひとついいですか」

「はい。なんなりと」

「あなた方はどうするんです? ゾンビに……なるんですか?」


 予め聞いてはいたけど、正直、ゾンビにはなりたくなかった。死んでまで他人に噛み付きたくはないし、しばらくは大丈夫だとしても、溶け朽ちるまで徘徊したくはない。

 噛み付くのも徘徊するのも、ネットの中だけで十分だ。


 ヤナギさんは笑顔で、紅茶を一口啜ってから質問に答えてくれる。


「ああ。我々のことよりも、ご自分のことを心配なさっていますね。ご安心ください。この紅茶には遅行性の毒が入っているので、安らかな死をお約束致します」

「っ!?」


 毒という単語を聞いて、思わず固まってしまう。……いや、これから人類を滅ぼそうとする人間がこれくらいで何を慌てている? 

 ――しかしなるほど。死ぬことは確定しているから、今更毒を呷ることはなんてことないと。

 私は取り繕うためにも、カップの紅茶を飲み込んだ。


「……この毒に解毒剤は?」

「もちろんございません。必要ありませんし。ゾンビウイルスと共に、終末機関が作製したオリジナルです」


 これで、私がボタンを押そうが押すまいが、近日中に私自身が死ぬことが確定してしまった。あとヤナギさんも。

 ……美味しかったから、何度かおかわりしちゃったなあ。


「それでは、いかが致しますか? 今押していただいても、少し時間を置いてからでも構いませんが」


 ただ――与えられた職務は真っ当していただきます。

 と。


 そんなことはわかっている。

 けれど、この仕事には人の命が懸かっている。

 地球の人口、73億人の命が。私の指先ひとつで。


 思い出すのは、昔の記憶。

 コンプレックスをいじられ自信をなくし、思考が陰鬱になってからはいじめを受けるようになった。

 なんとか中学・高校を乗り切って就職したけれど、上司はパワハラとセクハラの常習犯だった。もちろん、いじめられっ子の私に告発する勇気なんてなく、惨めにも逃げるように3か月で辞めてしまった。


 そして、今日見た街の景色。

 私がいなくてもまわる、まるで「君はいらないよ」と言っているかのような世界。

 息子と呼ぶにはあまりにも大人びたイケメンと連れ立って歩く、未だに化粧が濃い、かつて私をいじめていた同級生。

 街中の一等地に一軒家を建てたらしい元上司。家を出る前には、奥さんに行ってらっしゃいのキスをしてもらうらしい。きっともうすぐ定年退職して、退職金をたくさんもらうのだろう。


 ……なんで私は、こんなことになってしまったんだろう。

 同級生のせいか。上司のせいか。

 それとも、自分のせいか。


 自分の命は、もってあと数日。どんな死に方をするのかなんて考えたくはないけど、ここの社員はみんなこれで死ぬのだから、そう悪い死に際ではないだろう。


 対して、私がボタンを押したら、あいつらは醜く、死してもなお、動きをやめることを許されない。

 きっと苦しみながら死んで、腐敗しながら本当の死を待つのだ!


 ふふふ。と、自然に口元が笑んでしまう。

 なんだ、躊躇うことなんてなかった。あっさりと、ボタンは押し込まれていく。

 世界は私をいらないと言った。なら、私だってこんな世界はいらない。




  *




「ヤナギさん、なんであの方を選んだんですか? 別に、我々の誰かが押せばよかったのでは」

「じゃあマヒルちゃん。君はあのボタンを押せたかい? 人類を、殺せたかい?」


 朝日宮子を帰した後、僕はさっきまでお茶汲みをしていてくれたマヒルちゃんとお茶会を始めた。言ってしまえば、最後の晩餐である。

 美味しそうなケーキやクッキー(もれなく毒入り)が目の前を埋め尽くしている。


「……無理です。そんな重大な責、わたしには負えません」

「だろう?」


 僕はマヒルちゃんに、死刑制度の話をしてあげる。

 日本の死刑執行には、5人の執行ボタンを押す刑務官がいる。けれど、実際に執行するのはその内の一人だけだ。あとの4人は、押しているのが誰だかわからなくするためだけにボタンを押す。

 全員が、自分が殺すんじゃないと思いながら、ボタンを押す。


 本来、人を殺すことにはそれだけの重荷が掛かる。


「あの人の格好を覚えているかい? 十数年と引きこもっていたにしては、いい身体をしていたと思わない?」


 きっと、家にはトレーニング器具類があって、自炊もして、太らないように気をつけていたのだろう。


「しかも、ただボタンを押すためにスーツを買い、髪を切り揃えた。かなり容姿にコンプレックスがあったんだと思うよ」


 僕らの前で、自分の醜い姿を晒したくないと思った。

 もうすぐ死ぬ人たちの前ですら、自分のコンプレックスを隠そうとした。

 その強いコンプレックスと、他人を憎む境遇。更に、引きこもりが故の昼夜逆転生活。

 ここまでずっと起きていたといたら、判断力も相当に鈍っていたことだろう。


「きっと、やってくれると思ったよ」

「そのために、ここまでお膳立てしたんですか?」

「そりゃあもちろん」


 高い金を払って、外に出なくてもいいようにもした。

 それに、朝日宮子の様な存在は他にもいる。別室で、それぞれ似たようなことが行われていることだろう。

 死刑と違うのは、ボタンがどれ一つとってもあたりであることだ。


 誰か一人がボタンを押すだけでいいのだ。


「この部屋にいる僕らにとっては、朝日宮子は神様にも等しい。なんたって、予言の日に、世界を滅ぼしてくれるんだからね」


 他の部屋の連中にとっては、それぞれに神様がいることになるが、別に神様が何人いたっていいだろう。

 日本には八百万の神がいるのだから。


 けれど、我々は神じゃなくて、あくまで神様のお膳立てをする存在だ。それが終末機関。


「さあ。我らが神の安らかなる死を祈ろうじゃないか。そして、僕らの悲願を叶えてくれた、神に殉じよう」

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恋人たちの週末 Kuruha @kohinata_kuruha

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