1話「放課後ランデブー1」
「先輩に拒否権はないと思うんですよね」
私と付き合ってください――そのセリフにトラウマが蘇る。だから逃げ出した。廊下を駆け抜けて、階段を半ば飛び降りて、駐輪場まで最短距離できたはずだった。脚力には自信がある。校内の誰よりも足は速かった。それなのに。俺の自転車の荷台に跨っている女子がいた。どういうわけかそれは矢吹葵だった。
「待って。おかしくない?」
「何がですか?」
「いや、色々とおかしいんだけどさ」
自慰をしていたことも、寒気を感じるあのセリフも、そして告白もおかしい。でもそれ以上に俺よりも早く駐輪場にいた事がおかしい。
「どうして俺よりも速いんだよ?」
「すごく単純な話ですよ?」
単純に俺よりも足が速いだけ、とでも言うつもりだろうか。しかしそれはあり得なかった。矢吹の成績はあくまでも平凡だ。真面目に練習に取り組んではいるけども、決して優秀な選手ではない。
「そこから飛び降りたんです」
そこ。矢吹は二階の窓を指さした。三年の教室で、つまりは俺のクラスの場所だ。
「駐輪場の屋根を経由して最短距離で到着です」
「上履きじゃねぇか」
「いいじゃないですか、別に。匂坂先輩に自転車で送ってもらうし」
「いやいやいや」
「先輩に拒否権はないんですよ」
「あるだろ。いや、見ちゃったのは悪いとは思うよ? でもだからって付き合うってそれは違うでしょ」
「私ってブスですかね?」
「そういうわけじゃなくて」
学園のアイドルとか絶世の美女とかではないが、それでも整った顔立ちではある。そもそもそういう自覚があるからこそ、ここまで積極的になれるのだろう。自分をブスだと思っているような人間にはまず無理な行動だ。
「いま付き合ってる人は?」
「いない」
「だったら別によくないですか?」
「よくないだろ、逆の立場で考えろよ」
「男子が私の机の上でオナっていたらまず通報しますけど」
「そこからじゃなくて。イケメンだからって、いま彼氏がいないからって付き合わないだろ」
「え? 付き合わないんですか?」
「え? なに? 矢吹ってそういうタイプの女子なの?」
清楚というわけではないだろうが、派手な感じの女子でもない。そこまで男遊びをしているようには見えなかった。
「逆に聞きますけど。先輩は好きな人としか付き合わないんですか? それって早々ある事なんですかね? そんなことだと一生童貞のままですよ」
好きな人とも付き合わなかった。そう言いかけて口ごもる。
「もしかして交際経験なしですか?」
「中学のときにあるけど」
カラオケに行ったり、図書館で勉強をしたりという仲でしかなかったが。俺は頬を掻きながら矢吹を見た。髪も染めず、目立つ化粧もしない。クラスにいる睫毛を盛りに盛った女子ならわからなくもないが、一連のセリフが矢吹のモノだと思うとどうしたって混乱してしまう。イメージとの祖語に気味の悪ささえ覚える。
「とにかく出発しましょうよ。ノーパンだからお尻が痛いんです」
サドルを叩いて乗るように促してくる。そんな矢吹を睨むように一瞥してから、仕方なく自転車に跨った。ここでいくら問答を交わしても矢吹は折れそうになかったからだ。
「だったらパンツを穿けよな」
「湿っちゃって気持ち悪いんですもん」
「…………」
頭が痛かった。先日の大会の際に見た矢吹の横顔が不意に脳裏を過った。普段はメガネをかけていないけども、その日は赤いフレームのメガネをしていたのだ。その姿が妙に頭に残っていた。
「矢吹って真面目ちゃんだと思ってたんだけど」
ペダルをこいで校門を抜けたタイミングでそう切り出した。
「どうにも私ってそういう風に見えるらしいですね」
真面目に見えるとはいっても一般的なそれとは些かベクトルが違う。部活に真剣な少女、とでも言えばいいだろうか。委員長風とか文学少女然としたモノではない。ボブカットの髪型も、少しだけ日に焼けた肌も、運動部らしかった。
「でも真面目って悪口じゃないですか?」
「どうして? 不真面目よりはいいだろ」
「だってうちの学校ってアホじゃないですか」
「まあアホだな」
底辺校ではないが普通以下。そういう立ち位置だ。
「部活も空手部を除けば弱小もしくは平平凡凡、陸上部で関東大会に出場できそうなのも匂坂先輩くらいで、それでも全国大会は微妙なライン。それなのに真面目って、なんか馬鹿らしくないですか? 不真面目でそれならまだしも」
「……まあそうだけど」
矢吹からナビはない。川沿いの道をただひたすらに真っ直ぐと走り続ける。
「どこに行けばいいの?」
「駅前で遊びましょうよ。初デートです」
「だから付き合わないって」
「だから別にいいじゃないですか。そんなに難しく考えないでくださいよ。先輩だってオナニーしますよね?」
「なんで矢吹はそんなに下ネタに躊躇がないんだよ」
「先輩はバイブとか生理とかでも恥ずかしくなっちゃう感じの人ですか?」
「そういう感じの人だけど」
「先輩ってえっちなんですね」
「矢吹といると頭が痛くなる」
矢吹のような知り合いは、生憎と今までいたことがなかった。そもそも女子の友達があまりいない。だから余計に距離感がわからなかった。
「じゃあ
「――は?」
その名前が原因で一瞬ハンドル操作が危うくなった。どうにか持ち直して、
「何で高遠? というかなに? 知り合い? あいつが黒幕?」
平静を装って聞き返した。
「知り合いではないですよ、でもほら噂があるじゃないですか」
「……ああ、アレな」
俺が
「アレって本当なんですか?」
「本当だけど……」
後ろで矢吹が笑う。さっきまでのような鼻で笑うそれではなく、遠慮のない哄笑だ。背中まで叩いてくる。何もそこまで笑うことはないだろうに。俺は眉根を寄せた。
「クズサカ先輩って」
「クサカだ」
「匂坂先輩って優しいんですね」
「それはどういう――、」
「ストップです、ストップ」
駅沿いの道に差し掛かったところで矢吹がストップをかけてきたので自転車を止めた。
「おう、じゃあな」
「はぁ? 先輩も一緒にですよ」
右手には公園で、左手には駐輪場がある。少し真っ直ぐ歩いたところに駅があり、その駅から北側に向かって繁華街が広がっていた。都会とは比べものにはならないが、それでもこの町の中心地で、一応はなんでも揃う場所である。
「いや、俺は帰るから。じゃあな」
「言いふらしてもいいですか?」
「何を?」
「先輩にパンツを盗まれたって」
俺のポケットを指さして矢吹は言った。
「盗んでない」
「でも、ポケットから少し見えてますよ。さり気なく持ち帰ろうとしてましたよね」
「違うから。触るのもなんかあれだろ」
触ったら触ったで矢吹は何らかのアクションを起こすだろう。そう考えたが、結果としてそれは悪手だったようだ。ここは人の目が多すぎる。
「……わかったよ、でもあまり遅くまでは無理だからな」
灯り始めた街灯と夜が溶け始めた空を見上げて、そう宣言する。
「嬉しいです」
「お前、俺のこと好きじゃないだろ」
「どうですかね」
矢吹の目的がわからない。しかし好意を抱いていないことは確かだろう。矢吹の言動や行動を照れ隠しだとは思えなかった。そして現に矢吹は否定をしなかった。
「で、なんだよ。どこに行くんだよ?」
自転車を駐輪場に置いてきた俺の問いかけに、矢吹は「うーん」と悩み始める。時刻は既に十八時を回っていた。
「私、実は今家出中なんですよね」
「頑張れよ」
「冷たいなぁ。私が誰とも知らないおじさんのお世話になってもいいんですか?」
「別になんとも思わないんだけどなァ」
本当に。矢吹は単なる後輩に過ぎなかった。彼女の背景とか、感情とか、そういうモノに興味を抱ける程、俺は優しい人間ではない。
「放課後ランデブーからの朝チュンと行きましょうよ」
「そうやってエロいことばっか言ってるけど実は、そのあれだろ……処女なんだろ? お前」
ささやかな反撃のつもりだった。例えば漫画とかアニメとか、そういうのでお決まりの展開だ。これで少なからず矢吹も動揺するだろうと思ったのだけども、そんなことはまったくなく、矢吹は俺を見据えてにっこりと微笑むのだった。
「処女って言い方が可愛かったですねぇ」
「そりゃあ……お前、恥ずかしいからな」
「別に処女ってイヤラシイ単語ではないと思うんですけどね。それと残念ながら私は中古ですよ。実は処女で――なんていう可愛らしい設定は存在していませぇん」
言いながら矢吹は俺の手を取った。ひんやりとした柔らかい手のひらだった。細い指、妙に光沢のある小さなツメ。強く握り返したら壊れてしまいそうだ。
「さぁ、さぁ。早くカラオケでエンジョイしましょう」
睨み返してから自転車を駐輪場に預けた。矢吹はそんな俺を満足げに眺めていた。一体、何を企んでいるのだろうか。あまりモテた経験などない俺としては、矢吹のそれを額面通りに受け取る事が出来なかった。
トリコロールは交わらない 久遠寺くおん @kuon1075
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。トリコロールは交わらないの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます