トリコロールは交わらない

久遠寺くおん

プロローグ

 彼女がそこで何をしていたのかは明白だった。

 上気した頬、太ももの辺りで丸まった薄緑色のショーツ。人差し指の先で糸を引く生々しい液体。交錯した視線を外せないまま俺は「違うんだ」と呟いた。


 もしも彼女が何の面識もない相手なら全力で廊下を駆け抜けていただろう。


 もしも彼女が俺の机の上で”そういう行為”に及んでいなければこんな事故は起きなかっただろう。


 これはお互いに不運が重なっただけで、そこには何の思惑も運命も介在しない。そういう主旨の言い訳を吐き出そうと試みたが、頭と口がうまく動かずに見つめ合ったまま硬直してしまった。


匂坂くさか先輩」


 そんな重苦しい沈黙の中、口を開いたのは彼女――矢吹葵やぶきあおいだった。


「そこに突っ立てるだけでいいんですか?」

 矢吹は陸上部の後輩で、お互いに顔と名前は知っているが、それ以上のことは知らない。そういう関係だったはずだ。


「うん、全然いいから。大丈夫だから」

 一歩、退がる。

 矢吹は斜陽を背中に浴ながら「違くて」という言葉で引き留めて、


「何か忘れ物があったんじゃないんですか?」

 と続けたかと思えば跳躍種目の選手らしい軽やかな動作で、俺の目の前にまで移動してきた。


「そ、そう! そうなんだよ。俺は忘れ物を取りにきただけで!」

 覗いていたわけではない――そう続けようとして飲み込んだ。下手にそういうワードを口にだすと逆に怪しいかもしれないと考えたからだ。俺は本当に数学のノートを取りに戻ってきただけで、矢吹のあの行為を覗いてなどはいなかった。


「だったらどうして取りにこないんですか?」

 長い睫毛に縁どられた双眸が見上げてくる。


「いや、だから、それは、ほら、あれで」

 そりゃあ逃げるだろ、とは言えなかった。確かにそういう妄想をした経験はある。しかしそれは妄想だから成り立つ話であり、いざ目の前で後輩が自慰に耽っていたら困惑するだけだ。いや、それ以上に恐怖を覚えた。矢吹が悲鳴を上げたらどうしよう、と。


「私が先輩の机の上でオナっていたからですか?」


「おなっ」


「先輩、顔が赤いですよ」


 俺が矢吹葵に抱いていた印象は、生真面目な少女だった。それは緊張のせいだったのかもしれないし、元々人見知りな性格なのかもしれない。とにかく黙々と練習メニューを消化していく女の子で、部活中に雑談をしている姿を見たことがなかった。

 そんな矢吹が学校の教室で自慰をしていた。それだけでもビックリなのに、卑猥な単語を何の躊躇いもなく言ってのけたその姿に頭がパンク寸前だ。


「私をエロ同人誌みたいに犯すんじゃないんですか?」

「ちょっと待って。何か違う」

「何が違うんですか?」

 矢吹は太もものショーツを指でつまむとそのまま脱いでしまう。


「矢吹ってそういうキャラじゃないよね」

「私たちって相手がどういう人間か理解できるほど親しかったですっけ?」

 お互いに跳躍種目の選手で、練習メニューは同じだった。でも、それだけだ。少なくとも俺は矢吹の事を殆ど何も知らないし、それは矢吹も同じだろう。だからこそ俺の机の上で矢吹がしていた事の意味がわからないのだ。好意を抱かれるような何かをした心当たりは全くなかった。


「親しくない」

「ですよねぇ」

 矢吹は脱いだショーツを丸めて、


「これ、プレゼントです」

 俺のズボンのポケットに突っこんできた。


「待て待て待て待て」

「なんですか?」

「なんですか? じゃなくて」

 依然として距離は近い。俺が喋るたびに矢吹の前髪が揺れる。


「これはあれだろ? 俺をビックリさせようぜ、的なあれだろ? どこかで見てるんだろ、他の女子が」


「大勢の前でする趣味はありませんよ」

「じゃあなんで――」

 言ってからこれが地雷に近い質問だということに気がついた。


「なんでだと思います? なんで匂坂先輩の机の上でオナってたんだと思います?」

「そりゃあ……まあ」

 言わずともわかる。だからこそ聞いてはいけなかったのだ。告白にはあまりいい思い出がない。トラウマといっても過言ではない過去がある。

 回想に入ろうとする俺の思考を矢吹が止めた。抱き寄せて、胸に顔を押し当てて、俺の思考を強制的にシャットダウンさせる。


「それはね」

 俺は恐る恐る視線を下ろした。そこには少しだけ潤んだ矢吹の大きな瞳があった。


「先輩が大嫌いだからですよ」

「……え?」

 予想外のセリフに声が裏返ってしまった。俺の目にはほほ笑む矢吹が映っている。表情と言葉が合致しない。現状と感情が一致しない。聞き間違えかと思った。けれどもそうではなかった。


「匂坂先輩が大嫌いだから、憎いから、意地悪をしようと思ったんです」

 ゾクッと背筋を嫌なモノが駆け抜けた。このまま殺されるのではないだろうか。そう錯覚させるほどに、矢吹の声音には負の感情が宿っていた。

 不意に学校のチャイムが鳴る。矢吹はそれに合わせて鼻を小さく鳴らした。


「冗談ですよ」

 矢吹が離れる。俺はその段階になってようやく彼女が涙を流していることに気がついた。


「ごめん」

「何で謝るんですか?」

「いや、だって。少しだけとはいえ見ちゃったわけで」

 直接何かを見ただけではない。でも言い訳の余地のない場面に遭遇してしまったのは確かだった。泣くのは当然の反応なのかもしれない。


「だったら」

 矢吹は頬を涙で濡らしながら、柔和に笑いながら、続ける。


「謝るんだったら。私と付き合ってください」

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